序章-④
◆
睡眠からの覚醒と気絶からの復帰は、どちらも過程が似ている。月夜は、自身が真っ暗な場所から光る一点を目指し、水面から顔を出すような仕草で肉体に意識を重ね合わせた。
昨晩の寝入りは、気絶に近かったと思う。
だからなのか、月夜は目覚めたときに幾つもの違和感を覚えていた。
自分を包む衣服の感触や、部屋の匂い。部屋の明るさや、なんとなく感じる圧迫感。
変だなと思いつつ、とりあえず身体を起こさないと始まらないとばかりに、布団の温もりに後ろ髪を引かれながら、ゆっくりと身体を起こし目覚めた。
「……あ、そっか、そうだった……」
視界を下方向にずらし、自分が学校指定のジャージを着ているのを確認して、現状を思い出す。
「やっぱり、夢じゃなかったよ……」
月夜に入院の経験はないが、見上げたときの景色が病室めいているのを見て、ここが保健室のベッドであることを再確認してしまう。
学校の校舎内で、異世界じみた別物の校舎に迷い込む。悪夢としては酷く不出来で、しかしどうしようもない現実として叩きつけられている。
「とりあえず、顔洗って歯を磨いて、頭をすっきりさせないと」
寝苦しかったのか、ジャージも、その下に着ているワイシャツのボタンも胸の半分まで開いているが、どうせ見る人なんて変なことしか言わなくなった谷口先生しかいないのだからと、そのままの姿で間仕切りカーテンをしゃーっと開く。
「あ、おはよう」
「ん、おはよ……」
くしくしと目をこすりながら宗一郎と寝起きの挨拶を交わし、昨夜見つけてあった洗面所へと向かう月夜。
スリッパをぺたぺたと鳴らしながら洗面所の扉を開き、ぱたむと閉じて内部に消える。
その三秒くらい後。
「ふぎゃああああああああああああああ!?」
そんな絶叫が保健室全体に乱反射した。
「まあそうだよな。叫ぶよな、そりゃ」
月夜の今の心情を慮りつつ、速攻で目を逸らしていた宗一郎は言い訳を考え始める。
彼女の性格からして変に責めるようなことはしないだろうが、あんまり引っ張ってギスギスするのもよろしくない。ので、ここはもう泥を被って汚名を着るのが着地点としてはまだマシだと、今から覚悟を決め始める。
今ごろ悲しみに包まれているだろう月夜に内心でエールを送りつつ、どうしたもんかと、宗一郎は昨夜の出来事を反芻しながら、これからのことを考え始める。
◇
「遥かなる……なんですか?」
反射的に飛ばされた月夜からの問いに、谷口養護教諭は笑みをやや深めて、歌うように呟く。
「彼の
月夜の問いに対して答えているようでそうではない呟き。
谷口養護教諭は、二人を見ているようで見ていない。その視線の先はどこか遠くにある。
間違いなく、宗一郎たちが持っている常識の範囲内に収まる成人は、唐突にこのようなことを言い出したりはしない。
よって、導き出される結論は二つ。狂っているか、別人であるか。
宗一郎は、後者に賭けた。
「あんた、誰なんですか?」
養護教諭と面識が薄い宗一郎は、自然な口調でそう問いただすことができた。
谷口養護教諭が応答する。
「私は中継者。送り出す者。あなたたちから見えている姿は、近しい者から現状に適した人物を模写しただけに過ぎない。見た目も、仕草も、言葉も」
微笑みながら伝えてくる言葉に現実味がない。警戒度を一層引き上げて、宗一郎は月夜を背に回す。
「……あれ? 言葉を模写したってことは、谷口先生って……」
「ちょっと待った朧さんそこ考えるのやめよう。今ちょっとほら真面目な空気だから」
「で、でもよく考えたら仕草もって……!」
「やめてあげてって! ここにいない本人の傷口えぐってるからそれ!」
背後から唐突に指摘される、イイ
シーッ! と人差し指を口に当てて月夜を宥めること数分。ようやく落ち着いたところで振り返れば、偽谷口養護教諭はその様子を微笑みながら眺めていた。
謎の敗北感に苛まれていると、彼女は行動を起こした。
「それでは、旅人たち。この部屋で使える施設はすべて自由に使い、旅立つ支度を調えなさい。ただし気を付けて。この部屋を使える期間は、この瞬間から数え始めて二十四時間まで。それ以降は、強制的に排出されてしまうわ」
偽谷口養護教諭はそこまで言うと、小さなデジタル時計を手に取ってスイッチを押す。その瞬間からカウントを始めるデジタル表記。24:00からカウントダウンを開始しているため、この数字が完全にゼロとなったときに強制排出とやらが実行されるのだと、宗一郎も月夜も即座に悟った。
「さようなら、旅人たち。どうか、あなたたちの旅路に幸多からんことを願っています。……で、良かったのかしら?」
「――いや、ちょっとたんま!」
偽谷口養護教諭の言っていることを理解した宗一郎が止めに入るがしかし、彼女は肉体に一瞬のノイズを走らせ、次の瞬間にはその場からかき消えていた。まるでモニターの電源を落としたかのように。
「……消えちゃったね」
「消えちった。手品とかドッキリとか、そういうのでもなさそうだしなあ、こりゃ」
「とりあえず、部屋の中調べよっか。なんかわたしたちが知ってる保健室とは結構違ってるみたいだしね」
「そう、だなあ。そうしよっか」
二人は同時に大きくため息をついてから、保健室の内部を調べ始める。
元の世界にある宗一郎たちが通う高校の保健室と違って、洗面所併設のシャワールーム、トイレ、簡易キッチンが備えられていた。
「冷蔵庫ン中、なんも入ってねえな」
「榊くん、こっちにメニューあったよ。なんか学食の料理が書かれてるみたい」
「どうやって注文するんだそれ……」
結局、学食メニューは食べたい品の名称に指で触れるだけで注文が確定となるらしく、すぐにワークトップに出現した。
その後はジャージ一式を見つけたのでそれをパジャマ代わりにしてから食事を済ませ、宗一郎は保健室にあるソファで、月夜は間仕切りカーテンをかけてベッドの上で眠ったのだった。
◇
「その、大変お見苦しいものを……」
「いやいやいや、大丈夫、速攻で目ェ逸らして肝心なとこは見てないから」
「速攻で!? 見るに堪えなかった!?」
「朧さんちょっと面白めんどくさいけど今はちゃんと話聞いて?」
ボサボサだった髪をきちんと梳いて、洗顔と歯磨きもしっかりと済ませ、ジャージの前のチャックも首元まで上げ切ってから、さらに十分ほど唸り声を上げていた月夜がようやく姿を現した直後、このようなやり取りが行われた。
謎の疲労感に襲われつつ、宗一郎はこれからのことを話し合うために話題を投げる。
「それで、これからのことなんだけど」
「うん。異世界に行くかどうか……というか、行かざるを得ないというか」
「元の世界に戻る方法は分かんないしなあ。結局、谷口先生そっくりなあの人、ほとんどなにも教えてくれないまま消えちまったし」
宗一郎と月夜が最初に入ってきた出入口は存在しているが、その先は相変わらず蛍光灯が明滅する薄暗く直線的な廊下のままだ。構造そのものが元の世界の高校ともまったく違っている以上、適当にうろつくわけにもいかない。この保健室のような場所が複数あるとは限らないのだから。
「まあ、これからどうするにせよ、まずは当座の方針を決めなきゃ駄目かなって思うんだ」
「そうだなあ。不幸中の幸いっていうか、注意事項みたいなのは残ってたしな」
偽谷口養護教諭が使っていたデスクの上には一枚のA4用紙。注意事項というタイトルと、数行の箇条書きが記されている。
注意事項は次のようなものになる。
一、保健室にある物は持ち込み不可
二、魔導および共通言語は意志で行う
三、不測の事態が発生中
「残り時間もなあ……」
「あと十二時間しかないのは辛いよね」
「うん。急かされてる感がすごくて結構焦るよなあ、これ」
シャワーや食事、睡眠時間や身だしなみなどに使った時間も含めると、半日分はあっさりと消化してしまった。
「まず、出る一時間前くらいに飯は済ませておいたほうがいいよな」
「あ、確かにそうだね。向こうがどんな状況にあるのかも分からないんだよね……」
「あとは何があるかな」
「うーん。持ち込み不可なのが痛いよ」
ため息とともに、改めて注意事項が記された紙を手に取る。
三補記、緊急対応プロトコル実行中
三付記、支援物資および特殊展開解凍終了
三追記、グッドラック
「こちとら不運の真っ最中だよ!」
「あ、付記にある支援物資ってこれかな」
本来であれば直接校庭に出られる場所に設置されているアルミドアのすぐ横、そこにぽつねんと置いてあるサイドテーブルの上には、それなりに丈夫そうな、ヴィンテージ感あふるるレザーザックがふたつ。昨晩、就寝前にざっと保健室を調べたときには、間違いなくそんなものは存在していなかった。
「とりあえず、しばらくはこの支援物資を使ってやりくりするしかないかな。……ってあれ? ぐ、ぬ、ぬいいぃぃぃ、開かないいぃぃぃ……!」
月夜が全力でレザーザックを開こうとするも、ヴィンテージ品はびくともしなかった。
「保健室を出て異世界先で内容確認しろってことなんかな」
「ふひぃ、なるほどね……」
手をひらひらさせて痛みを散らせる月夜に濡れタオルを渡しつつ、さてどうしたものかと再思案。
「まあぶっちゃけもう打つ手ねえけど」
異世界がどんな世界なのか。そしてどのような場所へ降り立つことになるのか。ジャンルは不明で、帰還方法は完全に五里霧中。
不安以外の要素がない。
一切合切が不安定だ。
「当たって砕ける?」
「しかないよなあ。白状すれば滅茶苦茶行きたくない。もっと本音を言えば家に帰って布団に潜り込みたい」
けれど、そうもいかないのが男というものらしい。悲しいかな、宗一郎は昨日の今日でそれをうんざりするほど実感していた。
そんな風に強がる宗一郎の隣に、月夜が自然に立ち並んだ。
「じゃあ、目指せ実家のお布団、だね」
にぱっと笑んで見上げる月夜に背中を押される。女性は逆境ほど強いのだ。と言っていたのはそういえば自分の母親だったと思い出す。
恥ずかしいので絶対に口にはしないが。
宗一郎はいまのやり取りで、過去最高にやる気を出していた。
「そんじゃあ、しっかり準備してちゃんと寝て、飯を食ったら異世界へ出発しましょうかね」
「うん。一緒に頑張ろうね」
「ああ。一緒に頑張ろう」
残り十二時間。覚悟が定まった二人は、その宣言通りに残りの時間を有意義に過ごす。
最終目標は日本への帰還。
中期目標は帰還手段の発見と確立。
短期目標は生活基盤の構築。
先行きは不安だらけで、友人となったばかりの相手が、たった一日で運命共同体となるという怒涛の展開。
二人は揃って顔を見合わせたあと、階段を下りていたあのときのように雑談を交わしながら、明日への準備に取り掛かった。
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