序章-③



 宗一郎はそのとき、月夜が一瞬だけ見せた不安のようなものを敏感に感じ取っていた。

 いや、不安とも少々違う。

 なにか、〝あり得ないものを見た、という確信を得た〟。印象としてはそのようなものだった。


「あれ?」


 だから、声に出したのは宗一郎のほうだった。

 月夜の視線を追った先にあるものを見て、ようやく宗一郎も気付く。


「……この先は一階……の、はずだよな」

「そのはずだと……思うんだけど……」


 自分たちの教室は三階。

 下り階段で踊り場を二度通過している。

 つまり、今自分たちがいる踊り場を過ぎて階段を下りきった先は、一階でなければならない。

 しかし視線の先にあるのは、校舎四階、特別教室棟へ続く廊下。別棟であるはずの、渡り廊下を通らなければ届かないはずの場所が、なぜかそこで直結している。

 月夜が宗一郎の顔を、宗一郎が月夜の顔を見たのは、ほぼ同時だった。直後、二人は揃って二階、一階間にある踊り場から進み、階段を下りる。

 到着したのはやはり、どうあがいても、特別教室棟の四階だった。しかも階段はさらに下にも続いている。

 選択肢は三つ。

 戻るか、進むか、廊下に出るか。


「廊下に出るのは……ないよな……」

「うん……」


 かなりの異常事態であることは間違いないが、そのような状況下においても宗一郎たちが特別教室棟に出る理由はない。よって、廊下に出るという選択は現時点で切り捨て。


「教室に戻る?」

「そうだね、戻ったほうがいいかも」


 頷き合い、今まで下りていた階段を今度は上り始める。

 先ほどまで雑談していたとは思えないほど、二人は静かに自分たちの教室を目指して階段を上る。

 息が荒くなる。もしかして、階段の段差が大きくなっているのではないか。そんな錯覚に襲われながら、二人は懸命に階段を上っていく。

 二階、五階、一階、四階、二階、二階。

 ――七階。

 この校舎は四階建てで、五階以上があること自体がおかしい。二階から上に上ったら同じ階があることも信じられない。

 そして、目指しているはずの自分たちの教室がある三階にいまだ到達できない。

 まるで階数ガチャだな、などと益体もないことを考える宗一郎。

 上る速度が明確に落ちているのを自覚しつつ、宗一郎と月夜は、少しずつ少しずつ、現実から目を逸らすかのように階段を上った。

 八階から地下一階へと上り、そして最後に。


「――やっと……着いた……」

「ほんとに、なんなんだろうね、これ……」


 十階層分ほど上ってようやく、二人は目的地である三階の廊下へと到着できた。

 肩を荒く上下させて吸気と排気を繰り返す。二人揃って階段の最上段に腰掛けて息を整えようとするくらいには、途中から一心不乱に駆け上っていたのだ。

 二人同時に、振り返るような仕草で三階の廊下を見る。

 真っ直ぐな廊下はどこまでも続いていて、突き当たりというものが見えない。

 そして、廊下は薄暗く、時折り天井に設置されている蛍光灯がチカチカと音を鳴らし、薄い光を明滅させながら廊下を照らす。それも二つか三つ分ほど飛ばしてからなので、ほとんど見えないに等しい。

 先ほどまであった陽光差し込む小春日和に包まれていた学校の日常は消え失せ、今は、まだ電気が来ている廃墟、という状態と化していた。

 正直に言えば、行きたくない。

 だから宗一郎は、いっそ諦めに似た心情で膝に力を入れ、「よっ」と気軽に立ち上がる。


「行ってみよう」

「……大丈夫、かな?」

「たぶんな。それにほら、じっとしてると、変なことばっかり考えちまいそうだからさ」


 手を差し伸べながら、楽観的なことを口にする。

 状況が状況だ。じっとしていると、よからぬ考えが頭をもたげる。まっすぐに伸び切った廊下の向こうから、奇妙なものがこちらを覗いていそうな気がしてならない。

 宗一郎は強がりでもって月夜を立ち上がらせ、そのまま彼女を背に自分たちの教室へと向かった。

 だが。


「開かないし、真っ暗だな……」


 教室のスライドドアはびくともせず、窓ガラスは教室も外も、墨を塗りたくったかのように真っ黒。

 これだけありえない状況になっているというのに、廊下に張り出されている掲示物はそのままなのが、逆に気味が悪かった。

 人がいた気配を濃厚に残したまま、人の気配が綺麗さっぱり消されている。


「そっちはどう?」

「……ううん、駄目。全然動かないよ。最悪、窓も割ろうかと思ったんだけど、消火器とかもがっちり固定されてる」

「そっか……。ありがとう」


 ふと時間が気になってスマホを取り出してみれば、表示された時間は三十七時二〇一分というデタラメ具合。完全に当てにならない。おそらく、月夜の持つウェアラブル・デバイスも同じような状態になっているだろうと判断し、宗一郎はあえて彼女には時間を聞かなかった。


「……どうしよっか」

「んー、そうだなあ」


 状況が意味不明すぎて、どうにも指針を立てにくい。切れかけの蛍光灯がチカチカと音を立てて思考の邪魔をする。

 階段を駆け上がった疲労が、今頃になってゆっくりとのしかかってくる。

 寝不足も相まって考えがまとまらない。何もかも投げ出して、ベッドに倒れ込みたい衝動に駆られる。

 そう、宗一郎は寝不足だった。だから体調不良のような状態になってしまい、教師から保健室に行くことを勧められ、なぜか月夜が付き添ってくれることに……。


「……そうだ、保健室だ」

「え?」


 宗一郎の隣で壁に寄りかかり俯いていた月夜は、その言葉の意味を飲み下せずにいた。


「なにが、保健室なの?」


 寝不足で、眠くなったから。さすがにそんな答えを素直に出すと空気が険悪になりそうなので、少しだけ言葉を捻る宗一郎。


「気休めかもしんないけどさ、もしも保健室が開いてたらほら、儲けもんだしな。それに保健室が駄目でも、まだ確認したい場所はいくつかあるし」


 昇降口、職員室、校長室、図書室……等々、適当に目的地になりそうな場所を指折り挙げていく。


「……それに、闇雲に動き回るよりかは、少しはマシだと思うんだ。なんせ階段があんなだからさ」


 どうかな? と月夜に同意を求めたところで、宗一郎は空色の瞳が自分をまっすぐ見つめていることに気付く。


「どうかした?」

「あ、ううん。……なんか、榊くんすごいなって思って」

「すごい?」


 月夜の言葉の一部をオウム返しすると、月夜はしっかりと頷き、長い金色の髪を揺らす。


「だってこんな……超常現象? なのかな。いきなりそんな状態になったのに、そんなに冷静に動けるんだもん。だから、すごいなあって思ったんだ」

「あー、それは、ですね……」


 本音の部分を言うのは、さすがに恥ずかしくある。だが誤魔化すのもなにか違う気がして、宗一郎は言葉に詰まってしまった。

 月夜は、頭を掻いて狼狽する宗一郎の様子をしばらく眺めていたが、あーとかうーとか言っている宗一郎を見ているうちに、ふと母性溢れる笑みを浮かべる。


「変なこと言ってごめんね。ほら、保健室、行こ?」

「……あい」


 敗北感に打ちひしがれている宗一郎を見て、月夜はくすくすと笑む。

 直後に、階段を駆け上っていたときに感じていた焦燥が程よく消えていることを月夜は自覚した。

 自分の前を歩く少年の背中を見ながら、なんとなく安心感を覚えた月夜は安直な自分の感情に微苦笑しつつ、彼の背中を追う。


「……一応、下る?」

「……そのほうが、精神衛生的にいいかな」


 八階から上に上がったら地下一階だった、という瞬間が一番ダメージが大きかった階段だ。どっちに行ったところで大差はないだろうが、やはり常識的に考えれば、下に向かって階段を下りていくほうがまだマシだろう。

 物理法則に逆らいたい気分ではない。

 さすがに今度は雑談を挟まず、薄暗い階段を慎重に下りて一階を目指す二人。踊り場を二度経由した結果、無事に一階に到着する。


「なんか、今度はすんなり来られたね?」

「ほんとな。なんか条件とかあったりしたのかな……」


 保健室は昇降口とは反対側の方向にあるため、今は下駄箱には向かわない。

 相変わらず天井の蛍光灯がチカチカと音を立てて明滅している。


「……構造が変わった」


 宗一郎が呟いた通り、三階の教室までの廊下と違い、丁字路の形を取っており、左右どちらかへ向かう選択肢が現れる。

 なんとなく右側の通路を見てみれば、見える範囲内に十字路が見える。


「榊くん、あっちのほう、少し明るいよ」

「え、ほんと?」


 月夜が指した方向は丁字路左側の通路。

 薄暗がりの中、彼女が示す方向を見てみれば確かに、奥のほうが少々明るい。蛍光灯の光量は非常口の誘導灯と同程度の少なさだが、明滅していない。それだけで明るく感じるんだなと感心しつつ、宗一郎と月夜は互いに頷き合ってそちらへと歩を進める。

 約100m先にぽつんと光る場所を目指して歩く。

 到着した先のドアの上にかかっている表示板には、保健室と書いてある。二ヶ所ある出入口の間にある壁には、健康に関する様々な掲示物。宗一郎と月夜が通う高校の保健室そのままだ。


「……開けるよ」

「うん……」


 開くかどうかは分からないが、宗一郎はそう言ってドアに手をかけ、祈るように横へとスライドさせようと力を込めた。

 するり、とドアが開く。

 あまり見慣れていない保健室の中は、それでも記憶にある通りのもの。保健室の蛍光灯は切れかけてはおらず、間断なく部屋全体を照らし続けている。

 そして一番奥のデスクには、養護教諭として詰めている谷口先生の姿。

 なにひとつ違和感のない日常的な光景。

 助かった、戻ってこられた。

 二人が反射的に考えたのも無理はない。

 谷口先生は二人の姿を認めたと同時に椅子から立ち上がり、にっこりと優しい笑みで出迎える。


「ようこそ、遥かなる星界からの旅人たち。ここは彼の世界へと旅立つ前の最後の停車駅。どうぞ、ゆるりと身体を休めていきなさい」


 宗一郎と月夜は、同時に激しい落胆に襲われた。

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