シャボン玉みたいな
七瀬葵
シャボン玉みたいな
「明日世界が終わるとしたらさ、」
「うん」
「今夜、何食べる?」
隣に座っていた彼は表情を変えることなく、こちらを向くこともなく、少しだけ考えて呟くように答えた。
「もずく」
さっぱりとした回答だった。その声は息をするようにすっと耳に入ってきた。あまりに自然だったから僕はその答えを一度飲み込んでいたらしい。けれど内容が内容だったので聞き返してしまった。
「もずく?」
「うん」
「もずく、好きなの?」
「嫌いじゃないよ。でも、特別好きってわけでもない」
「じゃあ何で」
彼は「だって」、といったあと少し間をおいた。
「大好きなもの、食べたらさ、明日以降も生きていたくなっちゃうじゃん」
彼らしい考え方だと思った。
所謂最後の晩餐になるのだから、今まで手の出なかった高級なもの、あるいは大好物、おふくろの味、とかいう類、普通の人ならそう答えそうなものだ。もっとも、その『普通』が何を指しているのかはわからないけれど。
「ときどき食卓に上がって、あ、もずくだって思うくらい。そんなに特別な感情はないかな。ささやかな幸せ?みたいな。そんなふうに、明日世界が終わるんですよって言われても、あ、そうなんだって思うくらいでいいや。考えすぎるほど苦しくなりそう」
「……そっか」
この1年、突然現れた得体のしれない感染症は、確実に世界を変えてしまった。
明日世界が終わったら、なんてSFの世界の延長線上に存在している仮定だと思ってたけど、もしかしたらいつか現実になるんじゃないかって、ときどき考えるようになった。だって、未知のウイルスが世界中を混乱させる、なんて、同じように現実離れしていると思っていたことが、実際に起こってしまったのだから。
いつか元の日常が戻ってきたら、やりたいことが出来る。だから今は我慢しよう。そうやってはじめは考えていたけど、もしかしてこのまま元に戻らなかったら?そんな考えも頭を過ることが増えた。異常だったことが正常になって、みんながそれに慣れて、一つの時代の変わり目だったという、結果論だけが残るのかな。
世界が変わることそのものが問題なんじゃない。問題は、人がそれに合わせて変われないってことだ。多分、僕は変われない。
環境の変化に対応できなければ、淘汰の中で滅びていく。そうやって世界はずっと変わり続けてきた。新しい世界に合わせることが出来なければ、僕は消えてしまうのかな。
けど、この目の前にいる彼はきっと、生き残れるような気がする。
だって、彼は彼だから。多分世界がどんなに変わっても、ずっと自分でいられるような強さを持っているから。ここでなくても、僕がいなくても、彼は何も変わらず、生きていくんだろうな。ときどき、食卓に上がるもずくに細やかな幸せを見出したりしながら。
矛盾してるとは思う。
だけど、世界が変わって、変わり損ねた者が消されて滅びても、彼は彼のままで変わらず明日を迎えて生きていける。不思議だけど、絶対そうだと確信できる。
「ねぇ」
「うん」
「いなくなったり、しないよね?」
彼はようやくこちらを向いた。僕の質問に、口元を一瞬歪めたように見えたのは気のせいだろうか。
その声はやっぱり空気や水みたいに僕の耳から頭の中に溶けていくようで、心地いいものだった。
「多分、ね」
シャボン玉みたいな 七瀬葵 @kaoriray506
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます