1番の技術は、藤並君に帽子を被っていないことを気付かれない技術。
試合前にロッカールームで用意した10個のサインボール。
普段の試合で使用する硬式球とはまたちょっと違うレプリカっぽいボールが、ロッカールームの真ん中に、スーパーの買い物かごのようなものの中にドカンと置かれていた。
側にはサインペンが何本も。
それらを手に取り、さらさらーっと手慣れた手つきでボールにサインしていく。
Araiというローマ字を適当に崩しながら、ギリギリ読めるようにそれっぽくして、背番号の64と日付を入れておく。
1年もプロ野球選手やってると、その辺もだいぶ様になってきました。最初の頃は、カッコつけて書きすぎで何の暗号?状態になっていたのだが、みのりんのお尻でたくさん練習しましたのでね。
それをレフトスタンドや3塁側のスタンドに向かって、ポーイと投げ渡す。出来れば大人よりも目をキラキラさせている子供達に。
その中でも、まだ下の毛も生えてなさそうなチビッ子がいたら、頭をなでなでしてあげながら、応援に来てくれてありがとうねと伝えながら、手で直接渡してあげる。
グラブいっぱいに用意したサインボールはあっという間に無くなってしまい、ちょーだーいと叫んでいたファンに惜しまれながら、俺はレフトのポジションに戻った。
そして、センターを守る北海道フライヤーズの藤並君と肩慣らしのキャッチボールをする。
キャッチボールをしながら、横目で先発ピッチャーである添田君の投球練習を確認。
彼は比較的コントロールはアバウトなタイプのピッチャーだが、それにしてもボールがばらつき過ぎ。
真っ直ぐが高めに浮いたり、横に大きく外れたり、変化球を投げてもワンバウンドしたり、抜けて真ん中にいったり。
コントロール抜群ではなくても、適度にストライクゾーンの中に力のあるボールがばらつくからバッターにとっては厄介なタイプのピッチングになるわけだから。
とはいえ投球練習の段階でストライクに行ってるのかすら怪しいのはちょっとやばい。
添田君本人も投げる度に、投球動作を確認している感じでしっくりきていないみたい。ベンチの首脳陣も気が気でないだろう。
しかし、そんな投球練習もラストになり、低めに外れたボールをキャッチャーの浦野君が上手く捕球して2塁へスローイング。
そのボールを平柳君をはじめとした内野陣がボール回しする。
そしてそのボールがピッチャーの添田君に戻り、台湾の1番バッターの名前がアナウンスされた瞬間、俺はレフトの外国線審おじさんから重要な指摘をされた。
「Forget your Cap!」
ドミニカだかプエルトリコだがベネズエラだがの体格のいい審判おじさんが頭を指差しながらそう言った。
そう。
俺は帽子を被ってくるのを忘れていたのだ。
「タイム!!」
まるでYMCAと踊るようにジェスチャーしながら、俺はタイムを要求した。
まだ球審がプレイを宣言していないし、試合も始まっていないが、俺はベンチに帽子を忘れたので、堂々とタイムを要求した。
そして俺はベンチに向かって猛ダッシュ。どうしたんだとざわざわする雰囲気の中で猛ダッシュをかましていく。
レフトのポジションから1塁ベンチという、1番遠い距離を俺は猛ダッシュしていく。
まるで試験中にお腹を下してトイレに駆け込むが如く。
生真面目な学級委員長とか、ツンデレ幼なじみとか、クールなボクっ娘とか、ほっぺたに絆創膏を貼ったボーイッシュなバスケ少女とか。ムチムチした巨乳英語教師とか。
そんな人達にも聞こえるように宣言しながら、席を立つあの瞬間の、体の奥がゾクゾクする感じを俺は思い出しながら、1塁ベンチへと戻った。
そして、最も取りやすい場所に置いといたJAPANの帽子をかぶって、俺はまたグラウンドに戻るその途中。
マウンドにいる添田君に目を合わせた。
「ごめんね、ソエちゃん。俺も緊張しちゃって帽子忘れちゃったよ。レフトには打たせんといてね。全部三振でよろしくぅ!」
俺はそう言ってレフトのポジションに戻っていった。
4割打者は大変ですよ。
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