おせっかいな風と
◇
その場所はあの日と変わらず、鮮やかな夏草と涼やかな湖水に見守られて存在していた。
「ここ……」
頭の中にある微かな記憶を頼りに、ただ足を運んで来た。それは遠い記憶だ。戻ったばかりでも、掠れている記憶。
それは地の民の村があった筈の場所だった。
しかしそれは、いつだったかミズガルドとアグロアと共に来た場所だった。
ゆっくりと、湖水のほとりに座り込む。
鳥の鳴き声。風の音。草の香り。そして日差し。白い木々を通して降り注ぐ日光に、少し気持ちが緩んだ。大きく息を吐き、吸う。
目を閉じる。頭の中の熱が、湖水を渡る風に紛れて消えていきそうだ。
「――ティナ」
不意に優しい声が聞こえて、トスティナは目を開けた。
湖水の上で宙に浮かびながら、見慣れた白髪の少年が座っていた。
「アグロア……どうして」
「ん。ちィとね。見かけたからさァ」
隣いいかィ? と訊かれたので頷く。アグロアは隣にちょこんと座る。そのまま、彼は何を思ったのか素足を水につけた。ひゃっ、と声を上げる。
「ティナー、気持ちいいぜェ、水つめてェやァ。ティナもやってみねェかィ?」
「えと……」
少し戸惑って、けれど、と思い直した。今は何か、自然に触れていたかったのだ。頷いて靴を脱ぎ、水に足を浸した。
キリッとした痛みを伴うほどの冷たさが、足を刺す。それがなんとも心地よかった。
「あは、気持ちいいです」
「だッろォ? このヘンの水は地面のずぅッと下ンところで、水の民たちンとこに繋がってっからなァ。いい水さァなァ」
「水の民……さん」
「民にさんづけはヘンだぜィ、ティナ」
にっと笑われて、思わず笑みが漏れた。
「そうですね。ごめんなさい」
「ティナァ」
「はい?」
「思い出した?」
その言葉に、トスティナは微笑を浮かべた。
「少しは。ただ、まだちょっと上手く呑み込めません」
「そっかァ。うん、あのナ、オイラ、ちィと家に戻ってたンだけど。あのサ、みーんなティナのこと心配してたぜィ」
「みんな……?」
「みィんな。水の民もさ、オイラたち風の民も。カーラやミズガルドもさァ」
ミズガルド。
出てきた言葉に思わず俯いてしまう。湖面に映った自分の顔が情けない顔をしていた。
「どうしたら……いいんでしょう」
「ティナァ?」
「先生が怖いんです」
震えた声が零れると同時に、水面に波紋が立った。自分の目から零れた涙のせいだと、少ししてから気づく。
「熱かった。赤くて、怖くて……あの人が、先生だったんですか」
ミズガルドは優しい。不器用だとは思うが、優しさは感じている。だから安心できたし、弟子になれて嬉しかった。それなのに。
戻ったばかりの記憶の中の彼は、赤いイメージだけが付きまとう。
「戦争ってさァ」
アグロアがぽつりと言った。
「難しいことばっかで、こっちからこっちは敵ィ、こっちは味方ァってわけっけンど、オイラそれよく判ンなェんだ。風のジジィたちも、オイラがミズガルドんとこ行くの、嫌がってるやつらがいるさァ。でもオイラは知ったこっちゃァないねェ。オイラはアイツが楽しいンだもんさァ」
「でも……風の民も、人と戦争していたんですよね?」
「オイラが子供の頃までなァ」
ふんっ、とアグロアが鼻を鳴らした。
「しょーじき言えば、オイラぁ、人って奴らに関しちゃァ、嫌ェだよ」
「アグロア」
「でもさ」と、アグロアが続けた。今度はいつもと同じ、屈託のない笑顔を向けてくる。
「オイラ、ミズガルドもカーラも好きだし、ティナだって好きさァ。それでいいじゃんかァ。難しいこたァ、頭のかってェお偉い方に任せときゃァいーんサァ」
ケケッ、と笑って――そして、アグロアの姿が見えなくなった。風が吹いていく。
目を閉じて、風を全身で受け止める。
人。民。そんな難しいことは判らない。怖い? その気持ちも確かにある。けれど――
毎朝の料理。風に吹かれる洗濯物。栗鼠や犬や猫のあふれる部屋。少し気難しげで、でも丁寧に教えてくれる師。それらは、愛しい以外に他ない。
「せんせい」
声に出して呟く。少し、落ち着ける気がした。
どれくらいそうしていただろう。薄く目を開けると、少し森に落ちる影の向きが変わっている気がした。トスティナはさすがに冷えすぎてきた足を引き上げて地面へと下ろした。
背後でかさりと音がした。動物か何かだろうかと振り返り、トスティナは動きを止めた。
「――先生……」
すぐに判った。マイセルではない。同じ黒髪に同じ色の瞳でも、よく似た顔立ちでも、纏う気配は気難しくても柔らかい。
困ったような、怒っているような、曖昧な表情のままミズガルドが歩み寄ってきた。
「先生……どうして」
「おせっかいな風が部屋に吹き込んで散々悪態を吐いてどっかに行きやがったからな」
アグロアだ。思わず苦笑する。
「おせっかいな風さんは、先生のことが好きなんです」
「君のこともな」
微笑みながら頷いて見せた。
隣に並んで、静かにミズガルドが腰を下ろした。
葉擦れの音がする。
「……先生。わたし、記憶、戻りました」
小さな声で告げる。ミズガルドが隣で僅かに身じろぎしたのが判った。ややあって「そうか」とだけ返ってくる。それ以上は問いかけてこなかった。経緯を話すのがつらかったので、訊かれなかったことに少し安堵する。
「ティナ」
「は、はい」
「……喉は、渇いていないか」
明後日の方向へ飛んだ言葉に、目を瞬かせた。
「ちょっと……渇き、ました」
「うん」
ずいっと水筒が差し出される。受け取って、口をつけた。心配しているのだろうに、差し出すのはただの水。この無骨さこそ、ミズガルドなのだろう。そう思うと少し暖かい気持ちになる。
時々ぽつりと、他愛ない会話をした。空の色のこと。風の匂いのこと。カーラのこと。アグロアのこと。言葉数は多くない。長くも続かない。そんな時間がゆっくりと過ぎていく。
いつしか日が落ちて、辺りの影が濃くなっていく。
思わず身震いをした。風が冷たくなってきている。
「さすがに、この時期とはいえ冷えるな」
「はい。ちょっと……寒いです」
頷くと、ミズガルドが小さく苦笑した。
「火をおこしてみろ。暖は取れる」
「えと……」
火の一式。図式は覚えているはずだ。何も見ないでやったことはないが――大丈夫。ミズガルドが傍にいる。
目を閉じて、息を整える。
小さくていい。宙に浮かぶ暖かい炎――
その瞬間、目の前で熱が膨れ上がった。
あわてて目を開けるが、少し遅かったようだ。弾けた熱が前髪を焦がす匂いがした。
「馬鹿!」
怒鳴り声とともに、腕を強く引っ張られた。
ミズガルドがきつい眼差しで覗き込んで来ている。
「怪我は」
強い声音に、思わず苦笑する。火傷はしていない。
「だいじょぶです」
「診せてみろ」
ぐっと顔を寄せられた。
(わ……)
ミズガルドの顔が視界いっぱいに入ってきて、思わずきゅっと眼を閉じてしまう。息がかかった。怪我がないか診ているのだろう。額に手を添えられる。指先が額を撫ぜていく感触に、何故か鼓動が跳ねた。
ややあって、短く、ため息が降ってくる。
「……まったく」
「へへ……また、失敗しちゃいましたね」
「君は」
ミズガルドが微笑した。目を細めて、どこか呆れたような表情。
「まったく、未熟だ」
「……はい」
頷く。握られている腕が痛い。痛いけれど、少し、安堵もある。複雑な気持ちが揺れている。
黒い瞳の中に、曖昧な顔をした自分を見つけてトスティナは少し恥ずかしくなった。けれど、視線を外せない。
ミズガルドも視線を外してこなかった。少し、口を開いて――閉じて。それから、もう一度、薄い唇が開かれた。
「――かえる、か。ティナ」
帰る。
そんな、ただ一言がどうして嬉しく思うのだろうか。
まだ、判らないことは多い。自分の気持ちも、人と民のことも。これからのこと。これまでのこと。戦争ということ。マイセルのこと。カーラのことも、養父のことも、ネロのことも、もちろんあの風の少年のことも。判らない事だらけで、自分がどう行動を取れば正解なのかも判断付けられない。
それでも――
帰りたい。あの場所に帰りたかった。
だからトスティナは頷いた。すこし、恥ずかしかったけれど。
「はい、先生」
ミズガルドが手を差し伸べてきた。その手に、トスティナは自分の手を重ねた。きゅっと握られる。
ミズガルドの手のひらは少し皮が厚くて、固かった。
そしてなにより、あたたかかった。
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