記憶
「わたし……は」
どうすればいい。どうこたえればいい。頭の中でぐるぐると思考が回っていて定まらない。知りたい。そう思ってここに来た。欲求はある。何故。どうして。どういう事。けれど、知る手がかりが今まさに目の前にあるとすると、浮かんでくるのは恐怖だった。
――それを知った時。
自分は、自分のままでいられるのだろうか?
トスティナという名の、養父に育てられ、今はミズガルドの弟子である自分のままでいられるのだろうか?
チッ――と小さな音と共に、指先でペンダントの石が動いた。
「わたしは……」
喉が渇く。判らないまま、唇が動いたその時だった。
「それをこちらへ貸してはいただけないかな?」
――男の声がした。
反射的にトスティナはペンダントを握りしめて立ち上がっていた。振り返る。家の入り口にもたれ掛かるように男が立っていた。
黒髪。黒い瞳。整った顔立ちに、やや皮肉めいた表情が浮かんでいる。身を包むのは、真紅の外套だ。その襟元には――宮廷魔法師の、印章。それはミズガルドではない。マイセルだった。
「い、いつ……」
「ノックはしたよ。気づいてはいなかったようだけど」
しれっと、肩を竦められる。
「なるほど。私はスレヴィの村の秘密を知った、という認識でいいのかな?」
「っ……」
養父が青ざめて、息を呑んだのが判った。そうだ。これは、国側に知られてはいけないはずだ。
「待ってください……!」
叫んでいた。マイセルがニヤリと唇を歪めた。手のひらを、何も言わずに差し出してくる。すぐに何を求められていたのか、判る気がした。ペンダントを握る手に、汗の粒が浮かぶ。
「ティナ、気にする必要はない。それはお前が」
「わたしが決めていいんですよね、おじいちゃん」
言葉を遮って、微笑みかけた。それから、視線をマイセルに移す。喉が乾いていた。
「解いてくださるのですか」
「もちろん」
「……なら、渡します。だから、この村のことは」
「ティナ!」
養父の声を、ティナは初めて無視をした。
「この村のことは、責めないでくださいませんか」
「――私は何も知らなかったと、そうすることにしよう」
「ありがとうございます」
安堵する。そのままゆっくりとマイセルに歩み寄り、トスティナはペンダントを差し出した。マイセルが受け取り、それをじっと見つめる。その間、もう、養父は何も言って来なかった。
暫くしてから、マイセルがペンダントのトップをトスティナの額に当ててきた。ひやりと、冷たさが染みる。マイセルが低い声で何かを唱える。トスティナはそっと目を閉じた。
そして――情報が、爆発を起こす。
風の匂いがした。むせ返るほど濃い、緑の匂い。鮮やかな一面に広がる緑が意識を包む。
ふっとその中に、笑顔のイメージが入り込んできた。今のトスティナと年の頃は同じぐらいの少女。たおやかな緑の髪が波打っている。その向こうで、優しそうな男女がこちらに手を振っているのが判る。駆け寄ろうとした時、風の匂いが変わった。
何かが焦げているような匂い。
次の瞬間、緑がかき消される。
赤。火の色だ。揺れている。風に吹かれている。赤という色彩が押し寄せてくる。あれは何か。緑を消し去り、踏み潰し、赤が迫ってくる。否――何かではない。誰かなのか。
切羽詰まった少女の顔が見えた。
(おねえちゃん)
自らの喉が震えた気がした。手を伸ばすと、確かに掴まれた気がする。
息が乱れる。風が乱れる。大地が揺れ、火が迫ってくる。
――わたしたちは、生きていてはいけないのですか?
少女が――シュシュリが静かに告げた言葉は、誰かに向けられていた。
トスティナは姉の手を握りながら顔を上げた。姉と同じくらいの年頃の少年が、火に照らされながらこちらを見ていた。
暫くの沈黙の後、姉がそっと背中を押してきた。
――行きましょう。
素直にトスティナは従った。だって、と思う。だっておとうさんもおかあさんも、さがさなきゃ。
けれど、少年の声が遮った。
――待、て!
姉は振り返らなかった。振り向いてはいけないのかと、姉の横顔を見上げた。見上げて、トスティナは驚いた。
(おねえちゃん、ないてるの?)
けれど、姉はしっかりとした、涙など感じさせない声音のまま振り返らずに言葉を発した。
――わたしは地の民、シュシュリ。貴方は?
姉がどうして泣いているのか、気になった。気になってトスティナはその時、姉の目を盗んでそっと振り返ったのだ。
燃える村を背に、少年は立っていた。
泣き出しそうな顔で立っていた。
(どうして?)
疑念が膨らむ。
(どうして、なくの?)
こんなふうにしたのは、おにいちゃんたちでしょう?
言葉にするほど、纏まった考えではなかった。ただただ、溢れる水のように疑念だけが湧いていた。
火風に照らされ、少年の顔が見えた。
黒い髪。黒い瞳。目立つ印象はない。けれど、整った顔立ち。それにトスティナは――見覚えが、ある――
薄い唇が、開く。
――僕……は。宮廷魔法師……ミズガルド。
「い、やあっ!」
喉が避けるような悲鳴が漏れた。見開いた目の前、あの時の少年によく似た面立ちの男性がいた。もう一度、悲鳴を上げてトスティナは後ずさる。
「ティナ!」
後ろから養父が支えてきたのが判った。その手に縋りつきながら、息を吸う。かたかたと指が震えた。
マイセルは、
「戻った、か」
「わた……わたしは、わたしは」
ぽろぽろと涙が零れてきた。判らない。何も判りたくなかった。ただ、頭の中で急に色々なことが弾けたのだけは確かだった。
「憎いだろう、地の民」
静かに、問いかけてくる。
「しかし、私も同じ思いをした。私もミズガルドもな」
声に含まれる憎悪を感じる。
「まだあいつは、夢を見ているかな?」
「ゆ……め……」
「昔からよく夢を見ていたようだよ。私たちは戦で街を失くした。その時の夢をな」
(あ――)
思い当たる節は確かにあった。ミズガルドは時々、悪夢を見ているのかうなされている。それはトスティナも気がついていた。
「私たちの街は壊滅したんだよ。子供の頃に。お前たち地の民によってな」
冷たい声だった。
頭が殴られたかのような痛みがあった。先ほどの養父の声が頭の中で繰り返される。
――そんな、一方的にどちらかが悪いだけの戦なんてないんだよ、ティナ。
(地の民……が……先生たちの街を……?)
「判るか。判りあえるか? 許せるか? 無理だろう?」
畳み掛けるようにマイセルが言ってくる。目の前がチカチカした。
「私たち人と、お前たち民は判り合えないように出来ているのだ。どちらかが、尽きるまではな」
完全なり拒絶に胸が痛くなる。
「わたしの、ちからがほしいって、さっきおっしゃってましたよね」
「ああ」
「この世を正しくするためにって!」
――なのに、示されるのは完全なる拒絶だ。その齟齬に目眩を覚えて、トスティナは叫んでいた。
しかしマイセルは静かに頷いた。
「そうだ」
カツ――と足音を立てて近づいてくる。
「正しくしたいんだよ、判るか、地の民よ。ここはグレシス王国。人が築いた国だ。人が、人のために築いた国だ。そのために静定した土地だ。そこにある、人でないものたちは、なんだ? 盗人ではないのか?」
「そん……」
畳み掛けられる非難と拒絶に、声も出ない。
「人が、人のためにある世界。それが正しい。私は思う。だからな、滅び損ねた民であるお前に、願いたい」
静かに告げられる。
「……再度の戦争のはじまりを」
――耳鳴りが、した。
養父も息を呑んでいる。誰も喋らない。誰も音を立てない。沈黙が、痛みを増す。窓の外から差し込む日差しが、非現実的だった。
「地の民の生き残りとして君が立てば、他の民も立つだろう。その後は、尽きるまで戦うだけだ。なに、お前を簡単に殺しはしない。言っただろう、生活は保障すると。……一生涯の、地下牢での生活をな」
「いやです!」
声が弾けた。マイセルはただ、笑っている。視界がゆらゆらと揺れていた。
「まあ、ゆっくり考えるがいい」
ひらりと、まるで軽口を叩いた後かのように軽い仕草で手を振ると、マイセルは外へと足を向けた。
消えて行く赤い外套を目に焼付け、トスティナはその場にしゃがみ込むしか出来なかった。
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