地の民



 かちゃかちゃと音を立てながら、慣れた手つきでカーラが薬を作っていた。

 その様子をぼんやりと眺めながら、トスティナは渡されたミルクの入ったカップを握り締める。

 その場にいたのは五人だった。トスティナ。カーラ。ミズガルド。アグロア。そして、ネロ。初めて街に来た日に会った、あの医師の診療所にトスティナたちは来ていた。

 あの後、ミズガルドは何も言ってはくれなかった。重い沈黙をやぶるように、カーラが場所を移そうと言い出した。結局、言われるがままついてきたのがこのネロの診療所だったのだ。

 その間も、師は何も言ってはくれなかった。

 最低限の言葉だけでカーラとネロは会話をし、カーラはアグロアからルーシャの実を受け取って、診療所の一室に入っていった。なんとなくその後ろを追って、全員が部屋に入る。そこは薬の調合室だったようで、カーラは無言で薬の調合を始めた。

 ミズガルドは、動かない。部屋の隅で椅子に座ったまま、じっと、何かを考え込んでいるようだった。

 出来上がった薄い橙色の液体を数滴、ミズガルドの頭に残ったままの切り株へと振りかける。カーラのその手順はひどく無機質で、作業的だった。カーラもまた、必要以上の言葉は発していないのだ。もちろん、トスティナの問いかけにも答えない。

 しゅう、と何かが溶けるような音とともに切り株が縮んでいった。やがて、消える。その様子は、ほんの少しだけトスティナの心を軽くした。

「さて。と」

 緩やかな声音で、カーラが言った。空気が揺れる。

「いい加減辛気臭くてやってらんないわね。ミズガルド、話しちゃいなさい」

 ミズガルドが顔を上げた。感情の読めない、薄い表情をしていた。

「先生……」

「君は」

 平坦な声で、師が告げた。

「俺の言うことを、信じられるか」

「……」

 カップを手近な調合台に置き、トスティナはゆっくり息を吸った。静かに、ミズガルドを見つめて告げる。

「信じます、先生」

 少しの沈黙の後、ミズガルドが軽く頷いた。

「――どこから……話せばいいのか。君は何から聞きたい」

「……えと、じゃあ……あの人のことが知りたいです。さっきの、怖かった、人のことを」

 カーラも、アグロアもネロも、誰も喋らなかった。静かに、それぞれ壁に背を預けたり手近な椅子に座ったり、宙に浮いたりしたまま、沈黙を保っていた。

「あれは、マイセルという。俺の双子の兄だ。今は宮廷魔法師の第一位……カーラの上官にあたるな」

「お兄さん」

 呟きに、首肯が返ってきた。あの瓜二つの容姿はそういうことだったのだろう。ひとつ疑問が氷解し、トスティナはまた少し、ほっとする自分に気づいた。訳が判らない、理解できない。それは、知っていて判る恐怖よりずっと不安になる。知らないより、知るほうがいい。

「判りました。じゃあ……あの人の、言っていたことを知りたいです。……わたしの、ことを」

 誰かが息を吐いた音が聞こえた。ふっと、師が微笑んだ。柔らかで、けれど何かを諦めたかのような笑みだった。

「歴史の講義とでも思って聞いてくれ。昔、俺が生まれた頃に戦争が始まった。民と人の間でな。きっかけはいろいろ言われているが……まぁ、始まってしまえばどうしようもないものだろう。俺とマイセルはまだ子供だった頃に街も親も失った。正直なところ、君が生きていくために魔法を、という気持ちは良く判ったんだ。俺もそうだった。マイセルは判らんが」

 懐かしそうに、痛ましそうに、少し目を伏せてミズガルドは続ける。

「馬鹿だったな。無理やり詰め込んで、ものにした。正直汚い手も使ったが、とりあえず宮廷魔法師にはなった。それがどういうものかも判らずに」

 膝の上に組んだ指を見下ろしながら、ミズガルドはどこか自虐的な笑みを浮かべている。

「まだ、戦時だった。当然宮廷魔法師は戦にも赴く。派遣された村は……地の民の村だったんだ」

「地の……民」

「火はいずこ」

 アグロアが言葉を割り込ませてきた。目をやると、なぜか少し泣き出しそうな面立ちで、アグロアは口を開いていた。

「知ってッかな、ティナ。そういう歌」

「知ってます。おじいちゃんも、時々口にしてました」

「そっかァ。……火はいずこ、地は絶えた、水はまだある、風はやまない。……あれサ、時代とともに文言コトバ変わってンだァね。オイラが昼間に歌ってたヤツ、あれはあの歌の、最初の頃の、みィんなして楽しかった頃のなんだァ」

「そう、なんですか?」

「うん。オイラ、さっきは民の言葉で歌ってたンだけどさ。こンな歌詞なんだぜィ」

 アグロアが泣きそうな顔のまま続けた。



 火はぬくもりを

 地は萌ゆる

 水は輝き

 風はやまない



「……だからサァ、地だって、ちィと前まではいたんだ」

 ミズガルドが頷く。

「いたんだ。確かに。いや、いる、だな。――君だ、ティナ」

 見つめられ、ティナはきゅっと胸元を握り締めた。思わず視線を逸らしたくなったが、その衝動を押さえつけ、ミズガルドと正面から視線を交差させた。

「わたし」

「地の民だ。その髪色も、瞳の色も。君は確かに地の民なんだ。――噂は前からあった。俺は、確かめこそしなかったとはいえ、マイセルの言葉を否定できない。知っていた、ことになるんだろう。黙っていてすまなかった」

 言葉が上手く出て来なかった。トスティナは自らの鼓動の音を聴きながら、ゆっくり口を開く。

「先生は……」

(――その時のお仕事をどうされたのですか?)

 続けたい言葉はあったのに、言葉が音に乗らない。乗れば、それは痛みを伴って返ってきそうだった。

 しかし、ミズガルドは音にならない言葉を察したのだろう。すっと立ち上がると、こちらに背を向けるように窓から外を眺めた。背中で、答えてくる。

「俺とマイセルは、仕事を遂行した。その時からあの歌で地は――地は絶えた、と歌われ始めた。スレヴィの森にも死化が広がった。理由は判るだろう」

 判る。判るが、理解りたくはなかった。何も言えず、トスティナは俯いた。

 地の民。何の事なのか判らない。唐突に足場がなくなったかのような不安定な感情が、ゆらゆらと揺れ動いていて形を成さないようだ。

「せん、せい」

 震える声が、聞かないほうがいいであろう事を聞こうとして口をついた。止められなかった。

「わたしは、人じゃないんですか?」

「……民だ。しかし民もまた、人と同じだ。詭弁のように聞こえるかもしれないがな」

 ミズガルドが振り返った。緩やかな笑みが痛くて、トスティナは俯いた。言葉がもう、出てこない。

 俯いたトスティナの頭に、誰かの手が触れた。驚いて振り返ると、ネロが困ったような顔で微笑んでいた。

「混乱しているでしょう」

「……ネロさん」

 にこりと、やさしく微笑まれた。

「カーラ、それから引きこもり坊ちゃんと風の子」

「……誰のことだ」

「あんたですよ、ミズガルド。部外者がこういうのもあれですけど、いろいろ、急すぎるんじゃないですか。大人はいつも、事をいそぎすぎますから。ね」

 ね、と微笑まれ、トスティナはあいまいに笑って見せた。笑えるだけの心が残っていたことが、少し自分でも驚いた。

 そのまま、ネロは頭をくしゃりと撫でて来た。

「ティナ? 大丈夫ですか?」

「えと……」

「もし良かったら、一晩うちに泊まりますか?」

 唐突な申し出に、トスティナは思わず目を見開いた。

「ミズガルドの家にいるのがつらいなら、です。どうですか? ミズガルドは?」

「……そうだな。少し、時間をおいたほうがいいだろうな。俺は今、普通に接することが出来そうにない」

 あいまいに微笑まれた。カーラも、アグロアも何も言わない。トスティナは、自分に決定権が託されていることを理解した。目を閉じ、茹るような頭をそっと手で押さえながら呟いた。

「ネロさん」

「はい」

「……おねがい、しま、す」


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