第四章:ほんとうのこと
地は絶えた
火はいずこ
地は絶えた
水はまだある
風はやまない
ゆらゆらとした薄い闇の中で、誰かの声がした。それは、郷愁さえ呼び起こすような響きだった。水面に浮かぶ花びらのような、懐かしい子守唄のような、たゆたう声音。
(火はいずこ)
火の民はどこへ行った?
(地は絶えた)
地の民は絶えはてた。
(水はまだある)
水の民はまだ存在する。
(風はやまない)
風の民は吹き続けている。
その歌は、グレシスの国民なら誰もが口ずさめる歌だろう。祖父も、時折口ずさんでいた。
(おじい……ちゃん)
――目を、開けた。
はじめに視界に入ってきたのは豪奢な照明の掛けられた天井だった。ぼんやりとしていて、焦点が合わない。瞬きをして焦点を合わせようとすると、頭の右後ろあたりが鈍く痛んだ。
「お目覚めか」
声。
その瞬間、トスティナは飛び起きていた。ずきりと頭が痛むが、無理やり意識をそらす。雪崩のように、眠る前の記憶が蘇ってきた。
一瞬、既視感に包まれる。あの日。森で倒れた日を思い出す。あの時はアグロアとミズガルドだった。しかし、今は、違う。そばにいるのは風の少年でも師でもない。
速くなる鼓動を持て余しながら、顔を上げた。部屋の中央にある寝台に寝かされていたようだ。部屋の端。小さな書き物机に肘をついてこちらを見ている男がいた。
見た目はやはり、師に、似ている。けれど、纏う気配は全く違っていた。
「こ……これは、どういうこと、ですか」
声が強張っている。自分で気づいた。だが、どうしようもない。服の胸元を握りしめて、まっすぐに相手の目を見据えた。揺らぎない黒瞳。何かを、蔑んでいるかのように見えた。その彼が、うっすらと口を開いた。
「美しい髪だな」
「え……?」
一瞬、何を言われているのか全く理解できなかった。かみ。髪……? と、なんとか単語を理解する。無意識に自らの髪にふれて――そこでトスティナは頭が真っ白になった。
何も、考えていなかったのだ。そこにあるのはいつもどおりの金色の細い髪だと、当たり前に思っていた。肩口に落ちた髪を手で持ち、視線を落としただけなのだ。
しかし、目から入ってきた情報は、思考をただ停止させるだけだった。
それは色だった。
――鮮やかな、それでいて深い緑。
視界に飛び込んできたその情報が何を示しているのか。何を意味しているのか。全く判らなかった。
(みど……り?)
夏に見る、死病を罹っていない木のような深く美しい緑。その色を思い出す。どくどくと、心臓の音が耳の奥でした。
「おや。驚いているのかな?」
嘲りの声。思わず肩を震わせながら顔を上げた。自分が今、酷く情けない顔をしていると理解していた。
口元にだけ笑みを浮かべた、師とよく似た――瓜二つの――面立ちの男は冷たい声音で告げてきた。
「お嬢さん。それが君の真実だ」
「なん……」
声が上手く出ない。一度無理やり唾液を飲み込んで、トスティナはそっと喉を震わせる。
「なんの、ことですか」
「本当に知らなかったのかな、君は。――地の民であることを?」
地の民。
言葉が脳に届いても、上手く飲み込めない。
(地の民……? 地……民? わた……し、のこと?)
アグロアの姿が脳裏にちらつく。白髪の、風の少年。
いつの間にか、心臓の音が頭を内側から殴りつけているかのようだった。がんがんと鳴り響いている。
「地の……民って……そんなことあるわけ、ない、です」
乾いた笑いが漏れる。
地は絶えた。
先ほど夢うつつで聞いた歌声を思い出す。ああ、そうか――と、気がついた。あの歌は、この男性が歌っていたのだろう。
――地は絶えた。そう、歌っていたはずなのに?
「その髪色と瞳の色が、証拠だよ、お嬢さん」
「わたっ……わたしは、金髪で……っ」
「幻視。知っているかな?」
幻視。その単語はトスティナの動きを止めるには十分だった。少し前のことだ。その単語は、ミズガルドが言っていた。民が得意とする魔法だ、と。
「掛けられていたようだ。私が解いた。それだけだ。手荒な真似をしたことは謝ろう」
「なにを……」
「端的に言おう。君の力が欲しい。もちろん、ただでとは言わない。後の生活の保証もしよう」
椅子から立ち上がり、男が近寄ってきた。思わず寝台から降りた。窓際へと、後ずさる。いつの間にか靴は脱がされていたようで、裸足に床の冷たさが痛いほどだった。
「わ。わたし、力とかそんなのわからない、です……」
「地の民だ。地に関する力は強い。悪いようにはしないさ、この世界を正しくするために使う」
「わかりませ……」
嫌々をする幼子のように。弱く、首を左右に振った。その度に視界の隅で、緑が揺れる。息が上手く、出来ない。
上手く、出来ない――
「ティナ!」
聞きなれた声に半ば閉じかけていたまぶたを持ち上げた。強く、風が吹き付ける。背後で窓が開く音がした。振り返る。
「せん、せ……!」
反射的に手を伸ばしていた。その手がつかまれた。強く引き寄せられる。とっ、と師が床に降り立った。抱きしめられる。ミズガルドの腕に抱えられ、ようやくトスティナは大きく息を吸った。
「ティナ、ティナ、大丈夫かァ。ごめん、遅くなったかァ。オイラ、いろんなとこ探して……」
「アグロア……だい、じょうぶ、です」
ミズガルドの腕の中で、覗き込んできたアグロアに頷く。その頃になって初めて、トスティナは自分が震えていることに気づいた。
顔を上げると、すぐそばに師の顔があった。
顔立ちは瓜二つだ。少し離れたところでこちらを見据えている男と相似形の顔。ただし、頭の上には切り株が乗っていた。まだ、解除出来ていないのだろう。自分の失敗が招いた結果で、普段なら気まずい要因でしかない。ただそれすら、今は『本物』だと主張しているようでほっとした。
「驚いたかい、ミズガルド」
低く、やはりどこか嘲るような響きを纏った声がした。自分の肩を掴むミズガルドの手に、ぐっと力が篭ったのを感じた。
「マイセル」
普段よりずっと、冷たい声だった。
よく似た面立ちの二人が、向かい合っていた。片方は嘲りを、片方は冷ややかな拒絶を声音にこめて。
「いや。どうかな。それほど驚いていないようにも思える。まぁ、お前のことだ。気づいてはいたということかな?」
「……」
ミズガルドは動かない。トスティナを抱えたまま、一歩も動こうとはしなかった。
「――地の民だよ。ミズガルド。あの時」
ふと、声が一段低くなった。くつくつと、笑いを噛み殺しながら彼は続けた。
「あの時、私たちが殺しそこねた最後のひとりだ」
「黙れマイセル!」
怒声。
弾けるような大音声に、トスティナは身を硬くした。それでも、師はトスティナを抱く手を解かなかった。アグロアが心配そうな顔で見てきているのが判る。
(なにを……なにを、言っているの?)
数分の間に入ってくる情報が、とてつもなく多すぎて処理しきれない。トスティナは動けず、ミズガルドの腕に捕まるしか出来なかった。
「失礼します」
不意に、空気を揺らす凛とした声音が響いた。窓とは反対側の扉が開かれる。
美しい銀髪の、頭を垂れた女性が立っていた。
「カーラ……さ」
「何用だ。上官の私室にくるとは」
冷たい声は、向き合っていた男が――マイセルと呼ばれた男が――発した。しかし、カーラは静かに受け止めたようだった。頭を垂れたまま、続ける。
「失礼しました。しかし、王がお呼びですので」
「なんだと」
訝しげに、マイセルが眉根を寄せる。カーラはゆっくりと顔を上げ、無表情に告げた。
「地の民と、その師、それから師の友人を。この王宮に呼んだのは王ですので」
「カッ……」
「ティナ」
何を言っているんですか、と叫びそうになったトスティナの口元に、アグロアが人差し指を当ててきた。訳も判らずアグロアを見ると、彼は真剣な顔で短くひとつ、頷いた。
(どうして)
疑問が、膨らんでくるばかりだった。
(どうしてこんなことになっているの。なにが起きているの)
数瞬の沈黙の後、マイセルの舌打ちが聞こえた。ミズガルドの腕が緩む。そっと解かれて、背中を押された。つんのめるように二歩、前に出る。左右をミズガルドとアグロアが並んだ。そのまま、扉のほうへと歩かされる。
カーラと目が合った。強い眼差しだった。扉を大きく開き、待っている。トスティナは並んで外に出た。廊下だった。赤い敷物の引かれた、広い廊下だった。後ろで、カーラが挨拶とともに扉を閉めるのが判った。そのまま、促されて歩き出す。カーラについていくと、彼女はある一室の扉を開けて、全員をその中に入れた。扉を閉める。
アグロアが、大きく息を吐いてその場にしゃがみこんだ。ミズガルドも、短く息を吐くのが判った。
「カーラ、すまない。助かった」
「口から出まかせでも、ああ言っておけば王には逆らえないしね。……間に合ってよかった」
かくんっと。唐突にひざが折れて、トスティナはその場に転倒するように座り込んだ。視界の隅で、緑の髪が踊る。座り込んで肩口に滑り落ちてくる髪も、緑だった。
「ティナ」
ミズガルドが弱い声音で名前を呼んでくる。床に座り込んだまま、トスティナは壊れそうな声で訊ねた。
「せん、せい」
混乱したこの状況を理解するための、答えが、欲しかった。
「どういう、こと、ですか」
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