ネロの診療所で
◇
昇り始めの月はまだ赤みを強く帯びたまま、空に浮かんでいる。
ネロの診療所は、奥で居住用の建物と繋がっていた。居住用の二階、露台の手すりにもたれかかって、トスティナはぼんやり空を見上げていた。
「風邪、引かないようにしてくださいね。この季節でも夜は冷えますよ」
やわらかな声に振り返ると、ネロが入り口で立っていた。部屋の明かりが、ひっそりと彼を夜の中で浮き立たせている。
「大丈夫です」
「髪、湿ってますよ」
近寄ってきたネロにぽんっと頭を叩かれて、思わず苦笑した。肩口を滑る髪の一房を手で撫でる。僅かな明かりでも、いつもならゆるくきらめくはずの髪はこの程度の明かりでは黒髪のように思えた。
「髪」
「はい?」
「……気に、いってたんです。お日様の色みたいって」
口にして初めて、自分がそんなことを考えていたのかと思った。ぐっと、何かが喉の奥で詰まっている。急に顔が熱くなって、トスティナは俯いた。
「ごめんなさい」
「いいえ。当たり前の感情でしょう。僕はこの髪色も綺麗だとは思うんですけどね」
裏がない明るい声で言われると、俯いているのが恥ずかしくなった。顔を上げて、笑ってみせる。
「ネロさんは、驚かれないのですか? こんな髪の色になっちゃっても……何もおっしゃらないです」
「うーん。そうですねぇ。こう言ったら失礼でしょうけど、僕、貴女の事ほとんど知りませんし、貴女自身が変わったようにも見えないですし。ちょっと若気のいたりで髪の毛を染めちゃった、ぐらいの感じでしょうか?」
真顔で首を傾げられる。その様子がなんだかおかしくて、トスティナは思わず小さく笑い声を立てていた。
「知らないうちに、染まっちゃいました」
「災難ですよねー」
「はい」
くすくすと笑いながら頷く。それから、はっと大きく息を吐いた。夜の空気を肺に吸い込むと、少し、世界がクリアに見える。
「わたし、よく判ってないんです。今の状況。たぶんすごく、大変なことなんだと思います。先生も、あんな顔していたし。でもわたしって、結局髪の色変わっちゃったなぁ、ぐらいの所でしか考えられていないんです。おかしいですよね」
「普通でしょう」
トスティナの隣で、手すりに肘をついたネロが器用にそのまま肩を竦めた。
「あの状況でなにもかも理解出来るなら、究極の馬鹿か頭のおかしい天才かってところでしょう」
あまりの言い草に、やはり苦笑するしかない。それから、ふと思いついてトスティナは聞いてみた。
「天才……っていまおっしゃいましたよね。あの、先生って天才、なんですよね?」
「あー……そうですねぇ。あれの魔法見たことありますか?」
「あります。ただその、わたしにお手本見せるくらいので……どれくらいすごいのか、実はよく判っていなくて、その」
師がいない所でこういう話をするのは礼に欠ける気もした。ただ、ミズガルドは自分のことを話したがらないので、こうでもしないと聞く機会もない。
「そうですね。ミズガルドの能力……というと、あれですね」
穏やかな顔のまま、ネロは言った。
「むかつきます」
「むか……え?」
「むかつきますよー。なかなか手に入らない薬すら、ぽろっとこっちが口を滑らせただけである日唐突に持ってくるんですよ、効能の似た、むしろ求めてたものよりいいやつをサクッと作って。で『買うか?』と聞いてくる。こっちは患者さんがいるから買うしかないわけですよ、そんなもの見せられたら。それが何度あったことか。だいたい『なんとなく』で作れるあたりが腹がたって仕方ないわけです」
「あ、あの」
「カーラも似たようなこと言ってましたけどね。これこれこういう魔法を組み合わせたいんだけどって相談に言ったらしれっと『出来たぞ』って言うらしいですよ、七式展開して。馬鹿じゃないですかね、あれは。七式なんてどれだけの人間が出来ると思ってるんですかね。想像力が欠如しているんじゃないですかね、まったく。普通は一流と呼ばれても五式くらいなもんですよ」
そこまでべらべらと告げて、ネロはにこっと、無垢に笑った。
「理解出来ました?」
「は、はいー……」
へらっと笑い返すしか出来なかった。なんとなく、師の姿を初めて理解出来た気がした。
ふわりと、風が髪を揺らして過ぎていく。街の夜は遅いのだろう。微かなざわめきもまた、風に乗って聞こえてくる。
揺れる緑の髪を目の端で追いかけて、トスティナは姿勢を変えた。手すりに背中を預ける。
「てんさい」
「ミズガルドですか?」
「いえ。……わたしのこと、です」
小さく答えると、ネロが「ああ」と困ったように頷いた。
「気になりますか」
「ネロさんも、知ってらしたんですよね」
「噂だけです。……カーラやミズガルドと付き合いがあると、どうしてもそういう情報は入ってきてしまう」
こくん、と頷いてみせた。その理屈は、判らないではない。
「今なら、答えて下さいますか? 天災ってどういう意味なんですか?」
リリリ……と虫の鳴く音が聞こえる。ネロは静かに微笑んで、頷いた。
「スレヴィの天災……と呼ばれていました。噂です。スレヴィの村には天災が住んでいる」
「わたし……なんですよね?」
「そうです。まぁ、ただの噂話です。とはいえ、あまり人の口には上らない。……知っているのは、昔を引きずる年寄りの一部か、もしくは国の中心を支えている人たちか、と言ったところですね」
どこか懐かしそうに目を細め、ネロは続けた。
「戦時でした。人は、自らとは違う文化や力を持つものを受け入れることが出来るほど、余裕はなかったんでしょうね」
「それが、天災の意味なんですか? ……民、だから?」
「あなたはどう思いますか?」
逆に問いかけられ、トスティナは目を瞬かせてしまった。
「判ら……ないです。その」
じっと見つめてくるネロの瞳がすこしつらくて、トスティナは視線を落とした。
脳裏にちらちらと、遠い記憶が映像として見える。
「わたし、ずっと判らなかったんです。みんながわたしを天災とよぶこと」
「不思議だった?」
「はい」
頷く。それから、短く息を吸って、トスティナは吐き出した。――押し込んでいた思いの欠片。
「たしかに時々、誰かがやってきて、帰っていって……そういうことがあったのは記憶にあります」
それは養父に拾われたあとの記憶だ。まだ幼くて、周りのことがよく見えていなかった頃の話だ。
それでも、誰かの奇異の目はずっと残っている。
「その時、わたし、先生と練習しているときみたいになにかやっちゃったみたいで、村の木が大きくなったり、逆に牧草が枯れちゃったりしたこともあったみたいです。でも、それだけ……って、言い方も変ですけど。そういうことで、天災って呼ばれて、村を追い出されるほどなのかなって、ちょっと、思ってました」
ネロが目を細める。少し、鼓動が早い。
人と、少し違うのはなんとなく気づいていた。それを周りが怖がっていることも気づいてはいた。
どうしようもないことだと、受け入れていけば傷つかないことも知っていたのだ。
だけど。
心の奥でくすぶる思いは、消せなかった。
――どうして? の、思い。
「いま、なんとなく思うんです。村の人たち、私のこと、民だって知っていたんじゃないかなって」
ネロが困ったように苦笑する。否定する理屈が見当たらないのだろう。
「戦時でしたからね。人の中に民があれば、たしかに災いを招くかもしれません。それに、人は臆病です」
「おくびょう?」
小さく頷きが返ってくる。風が、柔らかく髪を撫ぜていく。
「ええ。……地の怒りは大地を揺るがします。水の怒りは大雨をもたらせます。風の怒りは、嵐を招きます。そういったことがあるのは事実で、ですので人は民を恐れるのでしょうね」
「こわい、ですか?」
「僕は全然」
けろっと言われて、思わず笑みが漏れた。
「ネロさんは不思議ですね」
「どうでしょう? まぁ、僕、民にも仲良しいますからね」
「え……」
「内緒です」
ぱち、と片目をつぶってくる。問いたくて口を開こうとするが、言葉が出るより早くネロが話を続けた。
「僕は怖がるのは愚かだと思いますよ。そういったことは、誰を怒らせなくても起きる可能性はある。それこそ、天災です。それに怒らせて怖いなら排除しようとするのではなく、ともに生きる道を模索すればいい。今の王は、前王と違いその考えが強いお方のようですね」
言っていることは、難しいのだと判る。
理想だということも判る。理想は、理想故に、難しいのだろう。
すっと、ネロが手すりから離れた。部屋へと戻っていく。
「ネ、ネロさん」
「戦は人を狂わせます。ですが、トスティナ」
ネロが振り返った。なんとなく、養父を思い起こさせるような顔で微笑む。
「民でも人でも何でもいい。あなたはあなたとして、堂々とあればいいんです」
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