気まぐれな風と魔法師と



「まァったく、あンのひと嫌い何とかなンねぇのかねェ」

 カーラにつれられてミズガルドの家を出たとたん、トスティナの頭上から降ってきたのはそんな明るい声だった。

「アグロア、いたんですね」

「なーんとなくねィ」

 へへっ、と笑うアグロアに、トスティナもほっと笑みを返した。そのまま、そっと肩越しに出たばかりの家を振り返る。家――というには、少しばかり簡易すぎる気もした。材木を適当に組み合わせただけのようにさえ見える、小さな家。屋根を赤く塗っているのが、最低限の装飾といえるかもしれない。しかし住居というよりは森の管理人の仕事場、とでも言ったほうがしっくりきそうではある。

 それが、白い森の中にそっと、人目を憚るように立っている。木漏れ日をうけても、何故か少し物寂しい気配があった。

「まぁ、あまり気にしないのよ」

 そう言ってぽん、と背を叩いてくれたのはカーラだ。こくん、とトスティナは小さく頷いた。考えたところで出ない答えならば、考えるのを一時やめるほうが精神衛生上いいと知っている。

「そうそう、気にしたって仕方ねェかンなァ」

 くる、と空中で器用に一回転したアグロアに、思わずトスティナは笑みを漏らした。

「アグロア、上手です」

「へ? ああ、これかィ?」

 言ってアグロアはくるん、ともう一回転する。

「そらオイラァ、風だかんな」

 風。それはミズガルドも言っていた言葉だ。トスティナは少し首を傾げ、

「風」

 と、反復した。カーラが軽く頷く。

「そうよ。風。知らないかしら、民のこと」

「――民!」

 思わず大きな声を上げる。それなら知っていた。ただ、まさか自分の目で見ることが出来るなどと考えたこともなかったのだ。

「アグロアは風の民なんですか?」

「そうさァ」

 得意げに鼻を鳴らし、アグロアが首肯する。

 民。それは養父が教えてくれたことのひとつだった。

 自然界の四つの元素――火と風と水と大地。それぞれに愛され、祝福された、人でありひとではない種族。それぞれのコミュニティを持ち、それぞれで固まって生活をしていたという。このグレシス王国にも以前は多く存在したらしい。ただし、数年間の戦争で数はぐんと減少したといっていた。

 それがまさか、目の前にいるとは。

「すごいですー!」

「すごかァねェさァ。オイラ、生まれたときから風だかンな」

「そっか、そうですよね」

 肩を竦められて、トスティナは小さく笑う。

「アグロアはミズガルドさんと仲良しなんですか?」

「まァ、そんなところかなァ。あーんま話すと、あの兄ちゃん、機嫌悪くすっからなァ」

「ふたりとも、話しながら歩いてもいいけど転ばないのよ」

 カーラに注意され、トスティナは慌てて前を向いた。確かに、こんな森の中だ。迷っていたあの日も何度も転んだのは確かで、今日もそうならないためにはきちんと歩くことを意識したほうがいいだろう。

 とはいえ。

 再度トスティナはそっと肩越しに振り返った。白い葉をつけた木々の中に、埋もれるようにある赤い屋根の家が離れていっていた。なんとなく、胸の奥がしゅんとする。

「ミズガルドさん」

「うん?」

「わたしのこと、助けてくださったのに。わたし、お礼もちゃんと言えてないです」

「いいのよ。拾うのはあの子の趣味みたいなものだから」

 カーラが苦笑した。そのまま「ほら」と前方を指差す。視線をやると、木々の向こうに道が見えた。そこに、二頭だての馬車が停まっている。

「わ……馬車」

「そうよ。仕事用で悪いけどね。さ、乗って」

 促され、馬車に乗り込む。御者が一礼をしてきたので、トスティナはあわあわと頭をぶつけてしまった。カーラが苦笑しながら背中を押してきて、奥へと進められる。

 が、乗ってきたのはカーラだけだった。開いた窓から顔を出すと、風の少年はふわふわと浮いたままだ。

「アグロアは乗らないんですか?」

「オイラかい? んー、カーラ。スティンブルグ行きかィ?」

「当然でしょ」

「んーじゃ、乗らねェやァ」

 ぽんっ、と跳ねるように馬車から飛び退り、空中でアグロアが笑う。

「どうしてですか?」

「そーりゃァ、お嬢、風が街に行くときは、ぐーんっと上のほうを吹いていくか、超突風で吹き抜けるかしねェとだかンなァ」

「どうして?」

 アグロアが困ったように顔を歪めた。

「お嬢はあンま知らねェのかなァ。人の集まってるところにオイラたちみたいな民がいくと、風を捕まえようとするバカがいンのさァ」

 言うなり、ばーかばーか、とはしゃぐように繰り返しながら、アグロアがぐんっと空高く舞い上がった。白い葉がざざっと音を立てて何枚か降って来る。

 そしてすぐに風は見えなくなった。

「風は気まぐれだからね」

 ふっと短くカーラが息を吐いた。呆然としているうちに、カーラは御者に声をかけ、馬車はゆっくりと動き出す。がたがた、とお尻の下が揺れる感覚に、トスティナはどうしていいか判らず何度か立とうとしては転びかける。

「じっとしていなさい」

「だって、が、たがた、し、ますっ、し」

「これでもいい馬車なのよ。慣れてない?」

「はじめ、ってれ……っ!」

 噛んだ。

 思わず口を押さえてへたへたと座り込んだ。カーラの冷たい視線を感じる。

「おばか」

「……はぃ」

 涙目になりながら頷いた。今度はおとなしく座りながら、振動に耐えることにした。窓の外に目をやる。

 季節は短くも艶やかな夏。けれど、窓の外から見えるスレヴィの森の景色は、まるで雪でもかぶっているかのように白く生気がない。

 数年前までは。

 ふと、養父の言葉を思い出す。

 数年前までは、どこもこんなのではなかったのだがな、と養父は良く口にした。トスティナは養父の言う、緑の森というものは知らない。森の死化がはじまったのは十年ほど前だという。トスティナにとってそれ以前の記憶はなく、物事を意識するようになってから先、見続けていたのは白い森だ。

 死化の本当の原因は知られていない。一般的にそうでないか、と言われているのが、地の民の死だ。

 風の民が風に愛され、そして風に属するのと同じように、地に愛され地に属したとされる地の民は、先の戦争で民のすべてが絶えたと言われている。スレヴィの森の死化はその頃始まったというのだ。

 実際のところは誰にも判らないのだろう。判らないまま死化という病は森を覆いつくし、今では国の至る所で死化する木々が見られるという。

 トスティナにとっては、難しくてよく判らないことだった。ただ判るのは、死化する森がなんとなく寂しそうで、哀しそうだということぐらいだ。

 似ているな、と感じた。

 結局のところ、理由はどうあれ死化した森はもとの緑には戻らないのだろう。それは、理由も良く判らないまま村を追い出された自分と似ている気がした。

 十五になれば、村を追い出される。

 それは昔から養父に教わっていたので、いまさら誰を恨むわけでもない。ただ、なんとなく、寂しい。

 この感覚は森に良く似ていると思う。どことなく寂しい、陽光の中の白い森。

「ティナ?」

 カーラの呼びかけに、少しだけ微笑んでみせる。

「はい」

「街まで少しだけど、訊いていいかしら」

「なんですか?」

「魔法、学びたいの?」

 問いかけに、静かに頷く。

「わたし、出来ることってほとんどないです。簡単な計算とか、読み書きとかはおじいちゃんが教えてくれましたけど、特技って言えるのはなくて」

「ええ」

 揺れる馬車の中では、言葉はどうしても途切れがちになる。それでも、トスティナはカーラをまっすぐ見据えたまま、ゆっくり言葉を紡いだ。

「難しいことは良く判らないです。でも、これから一人で生きていくしかないならなおさら、何か、ちゃんとこれが出来ますって言えるのが欲しくて」

「それで魔法」

「目の前に、おじいちゃんの言ってた天才さんがいたから。それに、おじいちゃんの言葉もちょっと気になってて……」

 ――魔法は、いつかお前を助ける術になるかもしれない――

 あの夜ぽつり、と呟かれた言葉は、ずっとトスティナの中でくすぶっている。

「学んで、私が魔法を知れば、おじいちゃんの言葉もいつか判るかもしれない」

 カーラが曖昧に微笑む。

「実際、面倒よ、魔法って。取得したところで就職先なんて、魔法師団か薬屋か、そんなところがほとんどでしょうし。宮廷魔法師はなかなかなれるものでもないし。何より、いまどき体系立てていないのもどうかと思うけど、弟子をとってくれる師を探すところからはじめなきゃいけないし」

 そういう本人は、宮廷魔法師の印章を身につけているのだから皮肉めいても聞こえた。

 宮廷魔法師。通称【国王の為の七人】キングズ・セブンとも呼ばれる宮廷就きの魔法師たちだ。その名のとおり七人構成で、ほぼ王直属といっていいほどに王に近い場所にいるとされる。

 通常は騎士団と同じ位置にいる魔法師団から、成績の良い者が選ばれるというが、まれに直接宮廷魔法師になる者もいると聞く。

「あの、カーラさんはどうやって宮廷魔法師になったんですか? 魔法師団から?」

「あたし? そうよ。叩き上げ。まぁ、実際あたしも貴女と似たような理由で魔法に手を染めて、ずるずるとね」

 苦笑するように、カーラ。

 詳しく訊く気はトスティナにはなかったが、似た理由と言うからにはカーラもいろいろあったのだろうと想像はつく。

「ちなみに、ミズガルドはその頃のあたしの上官みたいなものね」

「えっ?」

「あの子はエリートだから、直接宮廷魔法師になったクチだったけど、ちょくちょく魔法師団に顔は出してたから。その頃に何となく仲良くなって、今に至るってワケ」

 トスティナは思わず感嘆の息を漏らしていた。ただでさえなるのが難しいとされる宮廷魔法師に、魔法師団からでさえなく直接なることがあるというのは、都市伝説的なものだ。実際にその道のりを辿ったというのだから、天才というのは事実なのだろう。

「ミズガルドさんもすごかったんですね」

 カーラが、どことなく誇らしげに微笑んだ。

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