スレヴィの天災
ひんやりとした手が額に触れる。トスティナは思わず目を閉じて、その手の持ち主の声に耳を傾けた。
「ん、大丈夫ね」
涼やかな川のせせらぎのような声。そっと手が離されて、トスティナは目を開けた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
小さく微笑んだのは、木の卓をはさんで向かいに座る女性だ。月明かりを集めた絹糸のような短い髪に、冷たい水を模した瞳。白い肌。その彼女を包むのは深紅の長衣で、鮮やかに彼女を惹きたてている。同性であるトスティナでさえ、一瞬息を呑んでしまうような美しい人だ。
彼女は伸ばしていた手を下ろし、紅茶が注がれた木杯を持ち上げる。
「どうだ、カーラ」
その女性の横で相変わらず渋面のまま腕を組んで立っているのは、対照的に真っ黒なミズガルドだった。カーラとミズガルドの年齢は近いのだろう。大人ふたりの鮮やかなコントラストをきょときょとと見比べて、トスティナは一人で納得していた。
今日は風と自称していたアグロアはいなかった。そのため、この女性が訪ねてきてくれてトスティナは少しほっとしていた。ミズガルドとふたりきりだと、さすがに少々いたたまれなかったのだ。
「問題ないわ。少し熱にあてられただけね。発見も処置も早かったのね」
「そうか」
「貴方何かした?」
「特に。煎じたミグの葉を水で与えたのと、後は冷やしただけだ」
「さすがいい処置ね」
カーラと呼ばれた女性が頷く。ミグの葉、が何かは知らなかったが、何やらありがたいことだけは判った。昨晩も今朝も、ミズガルドは食べやすいスープを作ってくれたので見かけによらずいい人らしい、とトスティナは判断している。
「動けそうか」
「問題ないでしょう。無理は禁物だけどね」
ふと、トスティナは目を丸くした。軽く肩をすくめるカーラの長衣の襟元に、ちいさく輝く印章を認めたのだ。指先ほどの盾に似た形で黒く、縁取りは金色だ。その中に、七の文字と魔法の杖が絡み合った図が彫られている。
「気になる?」
カーラが気づいたようだった。トスティナは頷いて、小さく囁いた。
「宮廷……魔法師さん」
「宮廷魔法師は職業名だから、さんはいらないわよ。正解。よく知ってるのね」
「おじいちゃんが教えてくれました」
「そう。良かったわね」
微笑まれ、何だか気恥ずかしいような誇らしいような気持ちになって頷いた。養父のことを良く言われるのは、いつだって嬉しい。
宮廷魔法師――養父が言っていた言葉を思い返す。
「それにしても」
ふ、と女性が小さく息を吐いた。足もとをまとわりつく猫と――それから、部屋のあちこちにいる栗鼠やら鳥やらを見渡す。
「ミズガルド、貴方の拾い癖は知ってたつもりだけどね」
「……悪かったな」
むすっとミズガルドが呻いた。カーラの言いたい事は、トスティナにも何となく判る。今朝になって部屋を出ることを許されたトスティナが目にしたのは、その雑然とした光景だったからだ。猫は昨日の二匹どころか七匹もいて、それぞれ好き勝手に動いていたし、その上栗鼠やら鳥やらといった猫にとってはご馳走になりかねない生き物たちまで、数えるのが億劫になるほどいた。しかもそれぞれ奔放に生きているように見えるのに、争いは起きていないらしい。存外、平和なようではある。ただ、部屋の中で気を抜くと何かを踏みそうな有様ではあった。
「また増えてるんでしょうね、というのはあれよ、覚悟はしていたわ。来る度に何か増えているのはね」
「……」
「けど、普通拾う? 女の子なんて」
自分のこと、だったらしい。アハ、とトスティナは乾いた笑いを漏らした。ミズガルドが半眼を向けてきているのが判ったのだ。
「目の前で倒れられたら、拾うしかないだろう」
「判らないでもないけど、驚くでしょう。女の子が落ちてたから拾ったなんて。悪い冗談かと思うわよ普通」
(せめて保護とか……言わないかなぁ……)
大人ふたりの無遠慮な会話にトスティナは胸中で呻いたが、当然相手には聞こえないらしい。聞こえたところで改めるとも思えないし、実際拾われたのは確かなので黙っていることにした。
「で、どうするのよこの子。えーと、トスティナ、よね?」
急に話を振られ、トスティナは慌てて頷いた。
「はい。ティナでもいいです」
「ティナね。貴女、どうするの? ご家族は?」
問いかけに少し口を噤んだ。昨日は混乱していたせいもあって反射的に答えていたが、どう言えば正しく伝わるのか難しい。唇に指を当て思案しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「両親とかはもともといなくて……えと、気付いたらいなかったので、おじいちゃ……あー、えと村長さんに育ててもらってたんです」
「そう」
「でも、えと、村、昨日で追い出されちゃって」
結局、事実は曲げられずそのまま伝えるしかなかった。沈黙が落ちる。カーラが曖昧な顔で笑っている。
「……何やったの、貴女」
「わかんないです」
「カーラ。スレヴィの天災だ」
見かねたのか、肩に栗鼠を乗せたミズガルドが口を挟んできた。とたんに、カーラの表情が険しくなる。
「スレヴィの天災。貴女が?」
「はいー。そう呼ばれます。どうしておふたりとも知ってるんですか?」
単純に疑問だった。この歳になるまで、村の外に出たことはほとんどなかったので外での話などそう聞かないが、逆に言えば村の中での呼び名など、外の人間が知っているようなものでもないと思っていた。しかし、カーラは長い睫毛で目元に影を作り「ちょっとね」とだけ呟いた。
「じゃあ、本当に貴女これからどうするの? というより、どうしようとしていたの」
「あ。えーと、街に行こうと思ってました。スティンブルグならきっとお仕事もあると思って。だから向かおうとしてたんですけど、えと、迷っちゃって」
「なるほどね」
苦笑されて、照れ隠しに笑った。ミズガルドが嘆息するのが聞こえる。
「カーラ。頼めるか」
短い言葉に、カーラが眉根を寄せた。
「街に送り届けろって?」
「頼めるか、と聞いているだけだ。無理なら風をよこす」
「……無理じゃないわ。そういうんじゃなくて」
静かにカーラが首を振った。
「いいの、それで」
「――ああ」
ミズガルドの首肯。トスティナは慌てて椅子から立ち上がった。自分のことのはずなのに、大人たちが勝手に話を進めていることに驚いたのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「なんだ。君はもともと、そのつもりだったのだろう?」
「そっ、それは昨日までで……だって」
言いたいことが先に頭の中にどんどん溢れていくものだから、言葉が追いついてこない。だ、とか、で、とか、えう、だとか。意味を成さない音を何度も漏らしてから、ようやくトスティナは言いたい言葉を吐き出した。
「わたし、弟子になるといいました!」
「認めてない」
間髪入れずに返ってくる言葉に、トスティナは反射的にぎゅっと目を閉じた。が、すぐにこじあけ、ミズガルドの深く黒い目を見つめ上げる。ミズガルドもまた、静かにこちらを見返してくる中で、カーラがけだるげな声を割り込ませてきた。
「ミズガルド、貴方弟子をとるの?」
「とらん」
むすりと、またも否定される。そんなに力いっぱい否定しなくても、と思わず拗ねたくなる。ミズガルドは相変わらず、渋い顔のままだ。
「魔法、覚えたいんです」
訴えるように、トスティナは告げた。
「おじいちゃんが言ってました。誰でも、学びさえすれば魔法は使えるって」
「ええ、そのとおりね」
頷いてくれたのはカーラだった。少しだけほっとして、言葉を続ける。
「十五歳になったら村を出て行くのは決まっていたし、おじいちゃんはいろいろ教えてくれました。でも、どうやってお仕事選んで、どうやって生きていくのかはやっぱり難しいと思うんです。おじいちゃんは、魔法だけは教えてくれなかったし」
とくに、村じゃなく街でなんて、どんな場所かも良く判らないのにどうやって生活していけばいいかなんて実感が沸いていなかった。
「ちゃんと、あの、学んで何か出来る事があれば、生活していけると思って」
「驚いた。意外といろいろ考えているのね、ティナ」
「……わかんないです」
考えているのかいないのかは、自分では良く判らない。だから小さく首を振って、トスティナは軽く息をつく。自分の汚れた靴を見ながら、呻くように言った。
「おじいちゃん、魔法が嫌いみたいでした」
「そう。まぁ、嫌う人も少なくないわね」
「でも」
顔を上げる。ずっと、胸の奥にしまっていた疑念を声にする。
「昔おじいちゃんが、一回だけ言ったことがあるんです。……魔法は、いつかお前を助ける術になるかもしれない、って」
カーラが目を細めた。何かを逡巡するように、手のひらで口を覆う。それから、すっと視線をミズガルドに滑らせた。
ミズガルドはただ、静かに首を振るだけだった。
「――魔法はそんなに良いものでもない」
トスティナは自身の中に渦巻く気持ちを忘れて、思わずミズガルドを正面から見据えていた。
その声に含まれる思いに、何故か、自虐めいたものすら感じたからだった。
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