第6話 間抜けな脱走劇_後編




「お嬢さん、そこで何をしてるんだ?」



 ――――泣きそうになっていると、真下から声が聞こえた。



 必死に捕まったまま、地面を見下ろす。



 赤毛の男性が、そこに立っていた。軍服に軍帽、飾緒をつけていて、帯剣たいけんしていることから衛兵の一人だろう。



「なんか楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ」


「・・・・・・・・」



 この状況で彼の顔に浮かんでいるのは、笑顔だった。



(・・・・変な人)



 窓からシーツでぶら下がっている不審者を見つけたのに、男性には慌てたり、怪しんだりする気配がまったくなかった。しかも彼は衛兵なのに、仲間を呼びに行くことすらしない。



「これが遊んでいるように見えるの?」


「脱出ごっこだろう? 国王陛下の結婚式があっためでたい日に、一人で窓から脱出ごっこなんて、君も随分変わってる」



 男性と目が合う。



「・・・・?」



 顔を見られたと焦ったけれど、男性は特に慌てる様子もなかった。


 彼のその態度で、気づく。



 ――――その男性は、私が王妃だということに、気づいていないのだ。



(そんなことありえる?)



 勲章や飾緒がついている正装だから、彼は結婚式に参列していたはずだ。なのに私が、王妃だとわからないなんて。



(・・・・あ、そういえば、顔はベールで隠してたんだっけ・・・・)



 婚儀の間、私はベールで顔を隠していたし、ウェディングドレスは今は、無残な形になっている。冷静に考えれば、この格好で私が王妃などと気づくはずがなかった。



「あなたこそ、どうしてこんな場所にいるの?  衛兵が仕事をサボって、パンツを見物に来るなんて、見下げた根性だわ!」


「ぱ、パンツを見に来た?」



 それでようやく、男性の顔から微笑が消えた。



 男性は私の真下に立っている。スカートの中は丸見えのはずだ。



「いや、待ってくれ、俺は無実だ。ここには、酔いを醒ますために来ただけなんだ。俺の場所からじゃ、君のスカートの中は影になって見えない。俺の剣に、誓ってもいい」


「そんなことを剣に誓われても・・・・」



 そこで私は、ハッと我に返る。



「いえ、もういいの。このさい、パンツのことなんてもうどうでもいいわ。それよりも――――助けてくれない?」



 命が危うい状況なのに、パンツが見える見えないの議論に、夢中になっている場合じゃなかった。



 腕力もないのにずっとシーツにしがみついている状態だから、力が付きかけて、腕はぷるぷると震えている。おまけに焦りから汗が吹き出して、手が滑るようになっていた。



「おっと、悪い。こんな悠長な話をしている場合じゃなかったな」



 男性は私の真下に来ると、両手を大きく広げた。



「飛び降りろ。受け止めるから」



「え?」



 男性は、私を受け止めるつもりらしい。



(う、受け止めきれるの・・・・?)



 私は、不安で飛び下りられなかった。



 男性が私を、受け止め損ねたら――――もしくは、衝撃で、男性の腕の骨が折れてしまったら、という最悪の予想が頭をかすめたからだ。



「本当に受け止めきれる? ・・・・あなたの腕が、折れないかしら?」


「怖いこと言わないでくれ。これでも軍人なんだ。そんなに貧弱だと思われると、地味に傷つく」


「私、軽いほうじゃないと思うんだけど・・・・」


「大丈夫だ。――――多分、大丈夫」


「自信満々に多分をつけるのやめてくれる!?」


「じゃ、どうする? このまま朝まで、シーツにぶら下がったままだと、衛兵が集まってくるよ」



「それはわかって――――あっ・・・・!」



 手が滑り、シーツが私の手から離れる。



 悲鳴を上げる間もなく、私の身体はその瞬間に、重力という重しに絡めとられて、落下していた。



 背中に衝撃を感じて、反射的に目を閉じる。




 だけど、衝撃は柔らかいものだった。落下が止まったことを感じ取り、私は怖々と、瞼を開ける。




「お嬢さん、もう大丈夫ですよ」



 私の眼前に、男性の顔があった。



 男性が落ちてきた私を、抱きとめてくれたのだ。



「自分で立てるかな?」



 声が出なかったので、代わりに私は頭を何度も縦に振った。



 男性がゆっくりと屈んでくれたので、足が地面に届くようになった。地面に足裏をつけると、胸の奥にしつこくこびり付いていた恐怖心も、すっと消えていく。



 立ち上がる。――――見下ろしている時は、それほど身長が高いとは感じなかったのに、目の前に立つと、彼の頭は私よりもかなり高い位置にあって、その背の高さに驚かされた。



 顔立ちは整っていて、美形だけれど、笑顔はどことなく胡散臭く見える。



(そう言えば、まだお礼を言ってない)



 落ちそうになっていて、焦っていたとはいえ、助けてくれようとした人にずいぶんと失礼な態度をとってしまった。おまけに髪もドレスも乱れ、ひどい格好だ。慌ててスカートの裾を下ろし、手櫛で髪を直す。



「あ、あの、助けてくれてありがとう」


「いえいえ、これぐらいのこと、お礼を言われるほどのことではございません」



 私の数々の失礼な態度にも関わらず、男性はにこやかに笑い、丁寧に一礼してくれた。



「さっきは失礼な態度をとって、ごめんなさい」


「気にしなくていい。非常事態だったから、しょうがない。・・・・それでお嬢さんは、これから何を?」



 男性は、声が聞こえてくる方向を見やる。


 結婚式の列席者は、主役がいなくなってもまだ騒いでいるようだ。笑い声が、静けさに身を浸している私達の耳にまで、滑り込んでくる。



「みんな、まだ騒いでいるようだし、もしよければ一緒に散歩をしないか?」


「・・・・申し訳ないけど、私にはしなければならないことがあるの」




 私は、オディウムに会いに行かなければならない。




 それにたとえ用事がなくとも、あの場所に戻ることはないだろう。あの場所に留まれば、私はどこまでも孤独感に踏み躙られることになるのだから。



「そうか、残念。それで君は、こんな夜更けにどこへ――――」


「助けてくれて、本当にありがとう。それじゃ、私はこれで」



 王妃だと気づかれる前に、ここを立ち去らなければならないと思った。


 だから失礼だと知りつつ、声を遮って、私は身を翻していた。



「待ってくれ、せめて名前を――――」



 男性の声は聞こえたものの、とっさに偽名が思いつかなかったから、聞こえなかったふりをするしかなかった。

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