第7話 歴史ってなに?
やあ、おいらです。
タグに書いた最後の講義は歴史だね。本当は次にギャグもあるけれど、ギャグを教えるのは難しい。なぜなら、人間の感情の中で他人を笑わすことが最もたいへんなことなんだ。そうでしょ? 他人を怒らすのは、悪口ひとつで済むし、泣かすのも、罵倒したり、暴力振るったり、人格攻撃をすればいい。喜ばすのなんか、飴ちゃん一つでもできる。しかし、笑わすのは、しかも大多数を同時に笑わすのは、長い修行が必要だ。アイドルや俳優、歌手が世に出る年齢は十代、二十代と若い。才能や美しい容姿があれば多少の欠点もチャームポイントになる。
しかし、芸人が一流になるのは一部の例外を除けば三十代後半からだ。芸人だけで食っていけるまで、みんなアルバイトや嫁さんの稼ぎで凌いでいるんでしょ? たまにポッと出で若い芸人が売れちゃう時があるけど、大抵すぐ消えちゃうね。『8.6秒バズーカ』なんてどこ行った? 『藤崎マーケット』は? 『2700』は?
ああ、本題からズレズレ。ガースー首相のカツラと一緒だ。すまないねえ。
『歴史は繰り返す』という、言い尽くされた感のあることわざがある。小難しいことを言う学者は「歴史は螺旋状に進んでいる」と言う。ふーんという感じだ。
なぜかと言うと、現代の感覚で歴史を考えているような気がするからである。いまは映像でしっかり事実を記録できるけど、昔にはスマホもカメラもない。その点を勘違いしている人が結構いる気がする。歴史ドラマを本気にしちゃうの。これは怖いことだ。
歴史というのは言い換えれば、記録の積み重ねであるといえよう。人類が文字を発明してから、おいらのように文章を書くのが好きな人が現れて、見聞きしたことを記録していく。やがて、国家が文書官に正式な歴史を記録するようになる。「正史」である。また、在野の知識人が、趣味で日記を書いたりして、そこに後々、重要な事件、事柄になることが書かれていることがある。
中華の「正史」は一つの帝国が滅びると次の帝国が前の帝国の「正史」を書くという暗黙の了解があり、清王朝まで続く。一方、日本も中華に習って『古事記』『日本書紀』を編纂するが、鎌倉時代の『吾妻鏡』あたりを最後に「正史」は途切れ、その後はさきほど書いた通り、知識人や僧侶たちの日記などの史料から重要事件などのあらましを推測していくことになる。
ここで問題になるのは、その史料の書き手が本当のことを書いているかどうかである。書いてあることが「大ウソ」だったら、そのままウソの歴史が現在の歴史上の常識になっている危険性があるのである。
最近一部で話題の『椿井文書』など、地元の人々に完全に信じられていて、「いまさらウソと言われても」と自治体や住民が困惑しているらしい。
歴史に学べというけれど、実際はこんなものである。恣意的な力が働いて作られた歴史を学んで、現代や未来に生かすのも考えものである。
人間が脳で想像できることは、未来には必ず実現すると言われている。なので、歴史などは学者以外はあんまり考えず、未来志向の方がいいと思うのだが、どう思う?
ではまた……はどうかなあ?
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