午後のひととき

 紅茶を待つ間、木場とガマ警部は簡単に実験室内を見て回った。リノリウムの床の上に、つるりとした黒い天板を持つ実験台が9つ並び、実験台の下には背もたれのない木の椅子がしまわれている。実験台の間には水道があり、教室の前方には黒板と教卓が置かれている。


「お待たせしました。どうぞこちらへ」


 執務室から出てきた野中が木場達に声をかけ、一番奥にある実験台のテーブルへと2人を案内した。木の椅子を2つ引っ張り出し、木場達に座るよう促す。木場はガマ警部と並んで窓の方を向いて座る格好になった。野中は再び執務室へ引っ込むと、お盆にアンティーク風のカップ3つを乗せて戻ってきた。紅茶は綺麗な色をしていて、野中が近づくにつれて芳醇な香りが辺りに広がった。


「どうぞ、イギリスから取り寄せたアールグレイです」野中が木場とガマ警部の前に洒落たカップを置いた。


「うわぁいい香りですねぇ」木場がカップの上で片手を扇いだ。「自分、紅茶には全然詳しくないんですけど、やっぱり本場は香りが違いますねぇ」


「味も格別だと思いますよ。どうぞお召し上がりください。私はその間に扇風機を取ってきます」


 野中がそう言って入口の方へ向かった。野中の足音を背中で聞きながら、木場はずずっと紅茶を啜る。


「うわぁ美味しい! いやぁ紅茶ってみんな同じ味だと思ってましたけど、結構違うものなんですねぇ」


「……木場、俺はお前の食事リポートを聞きにきたわけじゃない。飲むなら黙って飲め」

 

 興奮する木場をよそにガマ警部が憮然として言った。腕組みをして紅茶に手をつけようともしない。


「わかってますって。でもほら、出されたものは礼儀としていただかないと」


「ふん……勝手にしろ」


 ガマ警部は腕組みをしたまま微動だにしない。維持を張っているのか、ひょっとしたら紅茶が苦手なのかもしれないと木場は思った。


「お待たせしました。これで少しは涼しくなると思いますよ」


 野中が巨大な扇風機を運んで戻ってきた。スイッチを入れると、途端にぶうんと強い風が吹きつけて木場の髪を乱した。野中が風量を微風に切り替え、ガマ警部の向かいに腰かけたところでようやく人心地つく。


「さて、そろそろ本題に入らせてもらうおうか。あんたにはいろいろと聞きたいことがあるのでな」ガマ警部が椅子に座り直した。


「私にご協力できることでしたら何なりと」


 野中が自分のティーカップを口元に運ぶと、音を立てずにそれを啜った。これから事情聴取を受ける人間とは思えない優雅さだ。


「まずは昨日のあんたの行動を聞いておこうか。確か、生徒と面談をしていたとのことだったな?」


「はい、何と言っても3年生ですからね。進路のことや学校生活のことなど、いろいろと聞きたいことはありました。ただ、学期中は生徒達も部活動や塾で忙しいものですから、なかなかゆっくり話をする機会が取れないんです。それで、夏休みの補習日を利用して面談をしようと考えたんです」


「ちなみに、面談はどこでやってたんですか?」木場が口を挟んだ。


「この実験室ですよ。ちょうど今、僕達が座っているテーブルで行っていました」


「え、ここでですか?」木場が目を丸くした。「教室とか進路指導室じゃなくて!?」


「本当はそちらでするべきなんでしょうが、僕はここの方が落ち着きましてね。それに、ここでなら紅茶をご馳走することも出来ますから、生徒達からも苦情はないんですよ」野中があくまで穏やかに言った。


「はぁ、そうですか……」


 木場が気の抜けた返事をした。紅茶を嗜みながら、生徒と談笑する野中の姿が頭に浮かぶ。


「それで、昨日は何人の生徒と面談をしたんだ?」ガマ警部が話を戻した。


「そうですね……。面談は10時から始まりまして、まずは的場君に来てもらいました。その後11時から古賀さん、お昼休みを挟んで、13時から児島さん、14時から松永さんの面談をしました。昨日面談をしたのはその4人だけですね」


 木場は手帳を確認して頷いた。生徒達との証言とも一致している。


「13時からの面談に来たのは、確かに被害者だったんだな?」


「間違いありません。さすがに生徒の顔を見間違えることはしませんよ」


「となると……児島さんが亡くなったのは面談が終わった後ってことになりますね」木場が手帳を捲った。「面談にかかった時間はどのくらいだったんですか?」


「全員、1時間前後だったと思います。紅茶を入れたり話をしたりしていると、それなりに時間がかかってしまいまして」


「面談が終わった後は何をしていたんだ?」ガマ警部が尋ねた。


「その後は執務室……ここの隣の部屋のことですが、で事務作業をして、21時頃に帰宅しました」


「では、今日の学校に来た時間は?」


「確か……9時頃には着いていたと思います。今日も10時から面談がありましたから、その準備を職員室でしていたんです。そこへ古賀さんが血相を変えて入ってきまして、児島さんのことを聞きました。知らせを受けた時はまさかという気持ちでしたが……」


 野中がゆるゆると頭を振った。自分の受け持つ生徒の死体が見つかったなど、俄に信じられる話ではないだろう。


「警察への通報はあんたが?」


「はい……。その後、学校にいた生徒達に児島さんが亡くなったことを伝えました。みんな相当ショックを受けたようで……何人か泣き出す子もいました。児島さんは人気者でしたから……」


「唯佳ちゃんや貴弘君はどうだったんですか?」木場が割り込んだ。


「あの2人は……そう、意外と冷静でしたね。もちろん驚きはしていましたが、泣いたり取り乱したりといったことはありませんでした。的場君は元々淡々とした性格ですからまだわかりますが、松永さんのあの反応は驚きでしたね。てっきりもっとショックを受けるものと思っていたのですが……」


 木場は先ほど会った唯佳の姿を思い起こした。確かに唯佳の言動は、親友を亡くした直後にしてはあまりにも無邪気だった。あの時はまだ現実を受け入れられていないせいだと思っていたが、最初に知らせを聞いた時もそうだったのだろうか。


「ふむ……まぁ、あんたの行動についてはこのくらいでいいだろう。次に、殺害に使われた毒薬のことだが……」


 ガマ警部がその言葉を口にした途端、穏やかだった野中の顔にたちまち影が落ちた。視線を落とし、苦悶に満ちた表情を浮かべて口を開く。


「……おっしゃりたいことはわかります。シアン化カリウムのような猛毒を誰でも持ち出せる状態のまま放置していたなんて、この学校の管理体制はどうなっているんだとお考えなんでしょう」


「ふん! わかっているのなら、わざわざ説教を垂れるまでもないな」ガマ警部が鼻息荒く言った。「確か、普段は薬品棚に鍵をかけて管理しているとのことだったな?」


「はい。薬品棚の鍵は実験室の鍵とセットになっていて、厳重に管理しています。普段は職員室の僕の机の引出しにあり、僕が出勤したところでこの白衣のポケットに入れ、勤務中は肌身離さず持ち歩いています。帰る際には白衣を職員室に置いて、その際にも必ず鍵は引出しの中に戻します」


「つまり、あんた以外の人間が鍵に触れる機会はないということか?」


「ええ、普段はそうです。ただ……事件当日の3日前、今からだと4日前になりますね。その日は僕も補習の授業があったんですが、その際、白衣を教室に忘れてきてしまったんです。1時間ほど経ってから気づき、慌てて教室に取りに帰ったんですが、その時にはすでに鍵はなくなっていました……」


「でも、紛失届はすぐに出したんですよね?」木場が助け舟を出すように言った。


「もちろんです。シアン化カリウム以外にも、薬品棚には危険な薬品がたくさん保管されていますから。

 ただ……事務員の方に事の重大さが伝わっていなかったのでしょう。処理が後回しになってしまい、それでこんなことに……」


 野中が額に手を当てて息を吐いた。この世の不幸を一身に背負っているような深いため息だった。


「薬品棚に危険な薬品があることは生徒も知っていたのか?」ガマ警部が尋ねた。


「はい、ここで授業を行うたびに、毎回注意喚起をしていましたから。授業で薬品を扱う際にも、棚から薬品を取り出す作業は僕が行っていました」


「鍵を紛失した当日、学校には誰が来ていたんだ?」


「さぁ……補習を受けていた生徒は大勢いましたし、他の教員も数名出勤されていましたから、全員はわかりません。僕のクラスの生徒も何人か見ましたね。古賀さんや松永さんもいたと思います」


「ううん……鍵を持ち出した人間を割り出すのは難しそうですね。ちなみに、鍵はまだ見つかっていないんですか?」木場が口を挟んだ。


「はい、警察の方が捜索してくださっています。本当に……僕の管理不行き届きでこんなことになってしまって……」野中が再び苦悶に顔を歪めた。


「いくら後悔したところで被害者が生き返るわけじゃない。あんたは今、あんたに出来ることをすることだ」


 ガマ警部が無愛想に言った。野中が顔に苦悶を浮かべたまま頷く。冷たい言葉に聞こえるが、それはガマ警部なりの慰めのように木場には感じられた。


「鍵を紛失した状況はわかった。後は……そうだな。実際に薬品棚を見てみたい。棚はどこにあるんだ?」


「……執務室の方にありますから、ご案内します」


 野中が暗い表情で立ち上がると、墓場への案内人のように重い足取りで歩き始めた。木場とガマ警部もその後に続いた。

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