捜査 ―2―

白衣の天使

 階段を降り、1階の渡り廊下を通り、再び3階分の階段を上って2人は化学実験室へと向かった。南側の校舎に映った途端に窓から直射日光が差し込み、自分が鉄板の上で焼かれているような気分にさせられる。拭っても拭っても汗が滴り落ちるのでタオルを使っても際限がない。実験室に着く頃には木場はとっくに汗を拭うのを諦めており、額には汗玉が浮かび、Yシャツは背中に貼りついてしまっていた。


「ふぅ……やっと着いた。結構距離がありましたね」


 木場が手で汗を拭いながら言った。途中まで使っていたタオルはしとどに濡れてとっくにお役御免になっていた。


「校舎の端から端まで歩いたわけだからな。普段動かない分いい運動になっただろう」


 ガマ警部が平然と言った。木場と同じくシャツに汗を滲ませているが、呼吸は全く乱れていない。さすがは現場一筋30年のベテラン、この程度の運動は朝飯前なのだろう。


「ここが化学実験室、か」ガマ警部が教室の表示板を見ながら言った。「俺の時代にはこんな名前の教室はなかった。最低限の器具が置かれた理科室があるくらいでな。今の高校は設備も充実しているんだな」


「そうなんですか? 自分が高校生の時はどうだったかなぁ……。自分、理科の実験は苦手だったんですよね。ビーカーやフラスコを何回も割ってよく先生に怒られてました。あ、先生の白衣にヨウ素液を零したこともありました」


「お前は昔から変わらんな……。まぁいい、とにかく入るぞ」


 ガマ警部は呆れ顔で言って引き戸を開ける。扉が空いた瞬間にむわりとした熱気が顔に吹きつけ、木場は思わず仰け反って叫んだ。


「うわっ、暑い!」


 扉を閉めていたせいで熱気が籠もっていたのだろうか。今いる廊下も相当暑いが、実験室の中はここ以上に灼熱のようだ。


「ここは3階だからな。日当たりもそれだけいいんだろう」ガマ警部が動じた様子もなく言った。


「だからって暑すぎませんか? クーラー点いてないんですか?」


「今はエアコンは運転していない。事件のせいで朝から点けていないようだ」


「そんな……。これじゃ暑すぎて部屋を調べる前に死んじゃいますよ」

 

 木場がうんざりした顔でため息をつく。室内に入れば少しは暑さから免れると思ったのに、まるで当てが外れてしまった。これだから公立高校は、と変なところで言いがかりをつけたくなってしまう。


「では、扇風機をおつけしましょうか? 少しは暑さが和らぐと思いますよ」


 不意に前方から知らない声がしたので木場は驚いて顔を振り返った。実験室の奥の部屋から白衣を着た男性がこちらに歩いてくる。

 年齢は30代半ばくらいだろうか。白衣の下に水色のワイシャツと若草色のネクタイを合わせ、黒いスラックスのズボンを履いている。体格はマッチ棒のように細く、何かにぶつかっただけで折れてしまうのではないかと心配になるほどだ。ワンレングスの短い黒髪にはきちんと櫛が入れられ、白い肌や柔らかな物腰がどこか女性的な印象を与える。物憂げな二重瞼の瞳は何かを夢想しているようで、教壇に立つよりも、揺り椅子に腰かけながら詩を書いている方が似合いそうだ。


「ええと……あなたは?」


 木場が当惑しながら尋ねた。熱気漂う部屋にいたにもかかわらず男性の顔には汗玉1つ浮かんでいない。白衣の下のYシャツも新品のように綺麗で、どうしたらこんなに涼しげでいられるんだろうと木場は少し羨ましくなった。


「ああ、失礼いたしました。私、児島さんの担任をしておりました、野中誠のなかまことと申します」野中が穏やかに言って会釈をした。


「あ、どうも……。自分は警視庁捜査一課の木場と言います。こちらは上司の蒲田警部です」


 ガマ警部を紹介しながら木場は自分も会釈を返した。この学校に来てから初めて常識的な挨拶をする人間と出会い、安心するどころかますます面食らってしまっていた。


「木場刑事に、蒲田警部ですね。このたびは私の管理不行き届きで大変な事態を招いてしまい……本当に申し訳ございません」


 野中が沈痛な表情を浮かべて深々と頭を下げた。鍵の紛失の件を言っているのだろう。自分の不注意が事件を起こしてしまったことに責任を感じているのかもしれない。見るからに善良そうな野中が心を痛めているのを見て木場は何だか気の毒になった。


「いや、先生が気にすることじゃないですよ。紛失届はその日に提出されてましたし、やるべきことはやってたんですから」木場は慰めるように言った。


「おい木場、安易に擁護するんじゃない」ガマ警部が厳しい口調で言った。「この教師の管理意識の甘さが被害者の死を招いたのは事実だ。下手に責任を軽くするようなことをいうんじゃない」


「そうですけど……先生だけを責めるのも気の毒な気がして」


「人が1人死んでいるんだぞ? しかも相手は自分が受け持つクラスの生徒だ。相応の責任を感じるべきだと思うが?」


「それは……」


「お気遣いなさらなくても結構ですよ、刑事さん」野中が穏やかに口を挟んだ。「僕が児島さんを死なせてしまったことは事実です。その罪は一生背負っていくつもりですよ」


 野中が悲しげに眉を下げて言う。責任逃れをするつもりは端からないようだ。


「さて……あんたは確か、この部屋の捜査に立ち会っていたということだったな」ガマ警部が本題に入った。「捜査員はどこにいる?」


「先ほど帰られました。この部屋での捜査は終了したようですので」


「では、俺達が調べても問題はないということだな?」


「ええ……。あぁ、でもその前に、お茶を1杯いかがですか?」


「何?」


「僕は紅茶にこだわりを持っていましてね。ここに来てくださった全員にご馳走することにしているんです。先ほどの捜査員の方々にも評判だったんですよ」野中が凪いだ海のような微笑みを浮かべた。


「いや、別に俺達は……」


「あの、化学の先生の入れる紅茶ってことは、やっぱりビーカーで沸かすんですか!?」木場が興奮気味に叫んだ。


「いいえ、ごく普通に、ポットで沸かしたお湯を使っています。この部屋の奥にちょっとした執務室がありましてね。そこに細々としたものが置いてあるんですよ」野中が実験室の奥にある部屋を指差しながら言った。


「なんだ、漫画でよく見かけるからちょっと期待してたんですけど、実際にはないんですね」木場ががっかりして頭を垂れた。


「おい木場、俺達の目的を忘れてないか? 俺達は何も紅茶を飲みに来たわけじゃ……」


「わかってますよ。紅茶を飲みながら野中先生の話を聞いて、それから実験室の捜査をしましょう!」


 話は決まったとばからに木場は1人で頷いている。野中はと言えば、紅茶の準備をするために早くも執務室に引っ込んでしまった。

 ガマ警部は疲れた顔でため息をついた。ようやくまともな人間に出会えたことで安堵していたのだが、結局この男も変わり者だったようだ。

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