毒薬の香り

 教壇の横を通った先にある、化学実験室と連結した吹き抜けの小部屋が野中のいう執務室だった。

 部屋の奥にはこじんまりとした机が置かれ、その両側に書類が堆く積み上げられている。床はワックスでもかけたのかと思うくらいぴかぴかで、埃1つ落ちていない。部屋の右側には木造りの棚が置かれ、先ほどのアンティーク風のカップが6つほど並んでいる。その手前には、様々な銘柄の紅茶の袋が所狭しと置かれている。そこだけ見ると執務室というよりカフェの厨房のようだ。

 そしてその反対側、部屋の左側の隅に灰色の大きな棚が置かれている。これが問題の薬品棚なのだろう。


 木場とガマ警部は薬品棚に近づき、その中をじっくりと眺めた。薬品は1つ1つが透明な小瓶に入れられ、大きな文字でラベルが張られている。「塩化ナトリウム」「水酸化カルシウム」「過酸化マンガン」……理科の教科書で見た懐かしい薬品名がずらりと並んでいる。


「ここに『シアン化カリウム』もあったわけですね……。でも、薬品名だけ見て猛毒かどうかなんてわかるものなんでしょうか?」木場が疑問を口にした。


「薬品名だけではわからないと思いますよ。ただ、毒物や劇物に関しては、薬品名とは別にラベルを貼るようにしていますから……例えばこれです」


 野中がそう言って1つの小瓶を手に取った。「過酸化水素水」というラベルの下に、「医療用外劇物」と赤字で書かれた白いラベルと、「危6」と黒字で書かれた黄色いラベルが貼られている。


「これは劇物、危険物第6類という分類を意味します。劇物というのは、少量で人体に影響を及ぼす物質のうち、医療目的以外で使われるものを言います。危険物第6類というのは消防法上の分類で、その物自体は不燃性ですが、可燃物の燃焼を促進する液体のことを意味します」


「は、はぁ、そうですか……」


 急に授業を受けるような格好になり、木場は困惑気味に過酸化水素水の小瓶を見つめた。理科は苦手だったんだよな。硫酸と硝酸とか、アルミニウムとマグネシウムとか、似た名前が多くて全然覚えられなかったっけ。


「つまり、薬品の効能を知らなくても、そのラベルを見ればそれが危険なものかどうかはわかったということだな?」ガマ警部が尋ねた。


「そうですね。問題のシアン化カリウムには、『医療用外毒物』という赤いラベルが貼ってありました。劇物に比べて毒物は数が少ないですから、シアン化カリウムが危険性の高い薬品であることは一目見ればわかったと思いますよ。ああ、ちなみに毒物と劇物の違いは……」


「あ、結構です! 要は毒なんですよね!? 危険なんですよね!」


 木場が慌てて遮った。野中に悪気はないのだろうが、これ以上薬品について講釈を垂れられてはたまったものではない。


「ふむ……それで、青酸カリの小瓶がなくなっているのに気づいたのはいつのことだ?」


「それが……はっきりしないのです。今は夏休みですから、薬品を使用する機会もありませんし、棚の中を毎日確認する必要はないんです。児島さんの死因がシアン化カリウムだと聞いたときにはすぐに棚を確認しましたが、その時点では瓶は棚の中にありました。

 ただ……中身を調べたところ、その量は10グラム減っていました」


 木場は手帳を捲って渕川から聞いた情報を確認した。被害者の水筒に含まれていた青酸カリも10グラム、量は一致する。


「事件当日よりも前に青酸カリが減っていた可能性はないのか?」


「それはないと思います。毒物や劇物の管理には特に気を遣っていまして、台帳で量を管理しています。事件が判明した後、台帳に記載された量と、瓶に残っていたとシアン化カリウムの量を比べましたが、減っていたのはちょうど10グラムでした」


 野中が断言した。日頃から薬品を管理している野中のことだ。まず間違いないだろう。


「ふうむ、その台帳はどこに?」


「こちらのファイルです」


 野中はそう言ってA4サイズの薄いファイルを差し出した。「医療用外毒物・劇物受払簿」という表題があり、日付、薬品名、使用量、残量を品目ごとに記載するようになっている。


「ふむ、台帳によれば、シアン化カリウムが最後に使われたのは半年前か……。残量はその時点で250グラム。現在残っているのは240グラムというわけだ」


「はい……。シアン化カリウムは猛毒ですから、わずか0.2グラムを経口するだけでも死に至るとされています。それなのに、今回の犯行では10グラムもの量が使われている。それを飲んだ児島さんの苦しみを思うと……」


 野中が顔を歪めた。被害者が受けた辛苦を自分のことのように感じているのだろう。


「高校生を相手に多量の毒を盛るとは……許しがたい凶行だな。青酸カリの現物はすでに押収しているんだな?」


「はい、指紋の鑑定をするとおっしゃっていたように思います」


「そうか。鑑定結果は渕川にでも確認しておくか」


 ガマ警部がそう言って今一度室内を見回した。何か見落としたものがないかを確かめているのだろう。


「あの、ところで、野中先生から見て、児島さんはどういう生徒だったんですか?」


 木場が思いついて尋ねた。ガマ警部が無言でこちらに視線を向ける。


「どう、と言いますと?」


「その、性格とか、クラスでの立ち位置とか……。先生から見てどうだったのかなって」


 唯佳が言っていた『世渡りの術』という言葉を木場は思い出していた。沙絢が日頃からそれを駆使していたのなら、先生にも気に入られているのではないかと思ったのだ。


「そうですね……。先ほども申しましたように、児島さんはクラスでも人気者でした。明るくて、常にクラスの中心にいるような子でしたね」


「特に手を焼いてたってことはないんですか?校則違反が多かったって古賀さんが言ってましたけど」


「あぁ……確かにそれは多かったですね。髪を茶色く染めたり、ピアスを開けたりといった服装違反から、授業中のお喋りなど……。

 僕も担任という立場上、何度か指導はしていたんですが、なかなか改善は見られませんでした。彼女、どうも我々教師の指導をかわす方法を心得ているようでしてね。こちらが強く叱ろうと思うと先に謝ってきて、出鼻をくじかれたかと思うと、今度はこちらの機嫌を取るようなことを言って、注意する気をなくさせてしまうんです。教師が生徒に振り回されているようではいけないと思うんですが、どうも児島さんを相手にすると、皆さんペースを乱されてしまうようで……」


「つまり、先生から見ると、児島さんは扱いにくい生徒だったってことですか?」


「まぁ、正直に言ってしまえばそうですね。ですが、僕も匙を投げていたわけではありませんよ。何度も面談を重ねて、彼女を素行を改善しようと努力してきました。残念ながら、効果が表れる前にこのような結果になってしまいましたが……」


「そうだったんですか……。でも大変ですね。言うことを聞かない生徒を相手にしなきゃいけないなんて」


「どのクラスにも指導に従わない生徒は必ずいるものです。ですが、難しいからといって対応を諦めてしまったら教師は務まりませんよ」


「そういうものですか?」


「はい。どんなに難しい生徒でも、きちんと教え諭して正しい方向へと導くのが教師としての役目ですから。生徒達が正しい方向に進めるよう、僕は手を尽くして職務を全うするつもりです」


 野中が聖職者のような微笑みを浮かべた。自分の役目を放り出さず、生徒一人一人ときちんと向かい合おうとする。教師の鑑のようなその姿勢に木場はじんと胸が熱くなった。自分もこんな教師に出会えていたら、今とは違った道が開かれていたかもしれない。

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