論証

 木場は意を決して野中を見据えると、ゆっくりと話し始めた。


「最初に問題となるのは、あなたがいつ、どこで児島さんを殺害したかです。青酸カリは児島さんの水筒に混入されていましたから、当然、あなたは何らかの方法で児島さんの水筒を手に入れ、そこに青酸カリを入れたものと考えられます。

 ただ……そうなると1つ、不自然な点があるんです」


「不自然?」野中が長い睫毛を瞬かせた。


「はい。あなたは事件の3日前に鍵の紛失届を提出し、自分以外の人間が青酸カリに近づけたように見せかけた。つまり、この犯行は計画的なものだったと考えられます。

 でも、事件当日、児島さんが1組に水筒を忘れたのはあくまで偶然です。あなたは水筒のお茶で児島さんを毒殺するつもりはなかった。別の方法で児島さんに毒を飲ませたんです」


 野中の表情がかすかに引き攣った気がした。木場は続けた。


「あなたが児島さんに毒を飲ませた方法……それは紅茶ですね」


 木場はそう言って教卓の方に視線をやった。飲みかけらしいアンティーク風のティーカップが1つ、存在を忘れられたようにぽつんと置かれている。


「あなたは言っていましたね。この部屋に来た全員に紅茶をご馳走するんだって。面談の時もそうだったんじゃないですか? あなたは児島さんに紅茶を振る舞う際、カップに青酸カリを入れた……」


 3日前に飲んだ紅茶の味が蘇る。あの時は芳醇な味わいに舌鼓を打ったものだが、それが毒殺に使われたものだと考えると、途端に死の匂いが口の中に広がっていくように感じられる。


 野中はしばらく黙りこくっていたが、やがていかにも残念そうにかぶりを振った。


「残念ですが、刑事さんの推理にはいくつか穴があるようです。僕のような素人が申し上げるのも差し出がましい気はしますが……」


「構いませんよ。おっしゃってください。どんなことですか?」


「まずは……そうですね。死体の問題があります。刑事さんの推理によれば、僕は面談中に児島さんを殺害したことになっています。ですが、児島さんの後には松永さんの面談も入っていたのですよ? その間、僕はどこに児島さんの死体を隠したんですか?」


「それは……」


「簡単なことだ。あんたにはあるじゃないか。誰にも見つけられずに、安全に死体を隠せる場所が……」


 ガマ警部が意味ありげに言ったが、木場ははて、という顔をして首を傾げた。


「……木場、お前の目は節穴か? 目の前にあるだろうが、うってつけの部屋が……」ガマ警部が心底呆れた顔でため息をついた。


「目の前? でもここは学校ですし、隠し扉とか秘密の通路なんてないと思いますよ」


「そんな三文小説みたいな話をしているんじゃない。よく見ろ。入口からは見えないが、この部屋と行き来できる部屋があるだろう?」

 

 木場はまだ解せない様子で室内を見回したが、そこでようやくガマ警部の言わんとすることに気づいて「あっ!」と声を上げた。隠すも何も、目の前にあるではないか。


「隣の執務室は実験室から吹き抜けになっているが、中の様子までは見えない」ガマ警部が野中の方を向いて言った。「あんた以外の人間が出入りすることもないだろう。死体の隠し場所としてはうってつけというわけだ」


「なるほど、あそこは手狭ですが、足の踏み場もないほど乱雑なわけではありませんからね。死体を隠すスペースくらいは十分確保できたでしょう」野中が冷静に言って頷いた。


「でも、問題はそれだけではありませんよ。確か古賀さんの話では、1組の教室で死体を発見したということでした。教室はこの実験室とは反対側、東側の校舎にあります。この校舎の1階には職員室もありますし、誰かに見咎められる危険性も高い。そのような状況下で、僕が教室まで死体を運んだというのですか?」


 野中の言動は最初と変わらず落ち着き払っている。追及を受けて怯む様子は全くなく、木場の方がかえって焦りを感じ始めていた。


「それは……。夜まで待ったんじゃないでしょうか。あなたは事件当日、21時頃まで学校にいたと言っていた。自分が聞き込みをしたところでは、その時間まで残っていた職員は他に2、3名だけでした。それだけの人数なら、人目を盗んで死体を運ぶこともできたんじゃないでしょうか?」


「仮にそうだったとしても、僕は見ての通りの体格ですから、死体を担いで階段を昇ったり降りたりすることは難しいですよ。いくら相手が高校生の女の子だからといって、そんなことをしたら僕の方が倒れて動けなくなってしまいます」


 野中がそう言って両手を広げて見せた。少し叩いただけでもぽっきりと折れてしまいそうなほど頼りない身体つき。確かにこの体格では、死体を背負った状態で階段を昇り降りするのは難しいかもしれないが――。


「ふん、だが死体を運ぶのに、何も1階まで降りる必要はないだろう。あんたにはもっと楽な手段があったはずだ。そうだろう?」


 ガマ警部に指摘され、木場は何のことかと頭を捻ったが、すぐに合点のいった顔になって指を鳴らした。


「あ、そうか! 渡り廊下ですね!」


「うむ、2つの校舎は、2階部分が渡り廊下で繋がれている。あんたのいた実験室は西側の3階。一方、死体が発見されたのは東側の2階。階段を1階分降りるだけなら、あんたにも可能だったんじゃないのか?」


 野中は答えなかった。だが、その口元から笑みは失われている。


「死体を実験室に残したままでは、あなたが真っ先に疑われることになる」木場は続けた。


「だからあなたは校内から人がいなくなるのを待ち、渡り廊下を使って死体を1組まで運んだ。そこでおそらく、教室に忘れてあった児島さんの水筒を発見したのです。

 児島さんの水筒を見つけたあなたは、それを犯行に利用することを思いついた。水筒に青酸カリを入れておけば、警察は当然、そのお茶を飲んで児島さんが死亡したものと思い込む。あなたは事件当日、ずっと化学実験室にいて、1組に近づくことはなかった。水筒のお茶が死因だと特定されれば、あなたは自分から疑いを背けることができるわけです。

 だからあなたは、水筒を持って一旦実験室に戻り、そこに青酸カリを混入した。でも残念でしたね。あなたが水筒を持ち歩いているところを見ていた人がいるんですよ」


「ほう……誰ですか、それは」野中が抑えた声で言った。


「的場君ですよ。事件当日の20時半頃、部室に携帯を取りに行ったところ、あなたが児島さんの水筒を持って東側の校舎から出てくるのを目撃したそうです。

 野中先生……あなたはなぜ、そんな時間に教室に行っていたんですか? そしてなぜ、児島さんの水筒を持ち歩いていたんですか?」


 木場は野中に詰め寄ったが、野中はまだ平静さを保っているのか、再び口元に笑みを浮かべて言った。


「……何のことかわかりませんね。確かに僕はその時間、教室に行っていました。でも、それは死体を運んだからじゃない。忘れ物を取りに行っていたんですよ。自分の筆箱をね」


「筆箱?」


「ええ、黒い、円柱型のものです。的場君が目撃したのは、私が筆箱を手に実験室へ戻っていくところだったのではないでしょうか?」


「筆箱と水筒を見間違えたってことですか? そんなこと……」


「刑事さんはご存知ないかもしれませんが、夜の学校というのは想像以上に暗いのですよ。似たような形状のものであれば、見間違える可能性はあると思いますね」


 野中が物分かりの悪い生徒を窘めるような口調で言った。確かに貴弘自身、自信のなさそうな口ぶりではあった。これ以上の追及は難しいかもしれない。


「それに……刑事さんは一番大事なことを忘れておられるようです」野中がおもむろに口を開いた。


「大事なこと?」


「動機ですよ、もちろん。児島さんは僕の大切な生徒でした。そんな児島さんを、どうして僕が殺さなければならないんです?」


 野中がいかにも不思議そうに尋ねてきた。だが木場にとってこれは予想していた展開であり、ついに来たか、いう気持ちでその質問を受け止めた。心臓の鼓動が速まるのを感じ、咄嗟に片手で胸を押さえる。

 野仲が沙絢を殺した理由。それは木場自身、ずっと解明できずにいた疑問だった。野中が生徒想いの教師だということは敦子や貴弘の証言からも明らかだ。そんな野中が、なぜ教え子を殺害しなければならないのか? 必死に脳みそを絞った末に頭に浮かんだのが、かつてガマ警部に言われた言葉だった。


 木場は表情を引き締めると、野中をまっすぐに見つめた。この動機が真実か否か、それは野中の反応から確かめるしかない。

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