受け入れがたい真実
「野中先生、あなたは以前、こんなことを言っていましたね。どんなに難しい生徒でも、きちんと教え諭して、正しい方向へと導くのが教師としての役目だと……。だからあなたは、他の教師が児島さんの問題行動を見逃す中、彼女への指導を諦めなかった」
「ええ、その通りです」
「ですが、児島さんはなかなか思い通りにはならなかったようですね。松永さんや的場君の話では、あなたのことを“偽善者”と呼んで嫌っていたとか」
「偽善者……ですか。なかなか手厳しいですね」
野中が苦笑を漏らした。特に動揺は見られない。木場は続けた。
「あなたは何とか児島さんを正しい方向へ導こうとした。でも、児島さんは一向にあなたの指導に従う気配を見せなかった。彼女は問題行動を繰り返し、他の教師から注意されることもなく、クラスの人気者として学校生活を送っていた……。
そして、そんな彼女に影響されていた人間がいたのも事実です。誰のことか、お分かりですね?」
野中は答えなかった。人形のように無機質な眼差しで木場を見つめている。
「松永さんですよ、もちろん。あなたは彼女に言ったそうですね。『児島さんと一緒にいると、あなたまで悪い人間になる』……と。でも、松永さんはあなたの意見を聞き入れず、なおも児島さんと一緒にいて、問題行動を繰り返していた……。
そんな彼女達の様子を見ているうちに、あなたは考えついたのではないでしょうか。児島さんがいる限り、松永さんのように、悪い影響を受ける生徒が他にも出ないとも限らない……。そうなる前に、彼女を排除しなければ……と」
以前、ガマ警部が敦子を差して言っていたことを思い出す。不良生徒を排除するのが学級委員長の仕事と考えているのなら、敦子にも動機はあると。あのときは警部の笑えない冗談だとしか思えなかった。
だが、野中が本気でそう考えていたとしたら? 不良生徒の“矯正”が教師の責務だと信じ、その実行のために、手段を選ばなかったのだとしたら――?
「あなたは児島さんがクラスにいることで、他の生徒に示しがつかなくなることを怖れた。だから彼女を殺害した。指導に従わない生徒を……強硬的な手段で正すために」
そこまで言ったところで木場は推理を止め、探るような眼差しを野中に向けた。野中は組み合わせた両手に視線を落とし、思索に耽る学者のような顔をしている。その瞳は相変わらず遠い世界を彷徨っているようで、先ほどまでの嘲弄的な色は見られない。木場はだんだんこの男の本性がわからなくなってきた。
「野中先生……! 答えてください!」
木場が痺れを切らして叫んだ時、野中が不意に顔を上げた。澄みきった瞳に見つめられ、木場は思わずたじろぎそうになった。
「……刑事さん、あなたはカール・ユングをご存知ですか?」野中がおもむろに尋ねてきた。
「え、ゆんぐ? さ、さぁ……サッカー選手か何かですか?」
「……心理学者だ。それくらいは一般常識として知っておけ」ガマ警部がため息まじりに言った。
「あ、すみません……。えーと、その心理学者のユングが何か?」
「彼がこんな言葉を残していましてね。『人間関係は化学反応』だと……。どういう意味かおわかりですか?」
「化学反応? いや、よくわかりませんが……」
「化学と同じように、人間もまた、相互に作用し合って変化するという意味です。よい人間と交わればよい方向に、悪い人間と交われば悪い方に向かう……。それは自然の理のようなものです。
学校などはその典型でしてね。多くの人間が交わる中で、様々な化学反応が起こっている……。我々教師は、日々化学実験をしているようなものなのですよ」野中が講義でもするように滔々と述べた。
「は、はぁ、そうですか……」
木場が当惑しながら答えた。いきなり心理学者の話など持ち出して、野中は何を言おうとしているのだろう。
「適切な化学反応を起こすため、我々は日々努力を重ねています」野中は続けた。
「物質の純度を保ち、異物が混入しないように細心の注意を払う……。ですが、どんなに注意を払っても異物が入り込んでしまうことはあります。そんな時、刑事さんであればどうしますか?」
「え? えーと、そうだなぁ……。化学のことはよくわかりませんけど……余計なものが混ざってたのなら、実験をやり直すしかないんじゃないですか」
木場は要領を得られないまま答えたが、野中は重々しく頷いた。
「そう。異物の存在を放っておけば当然、実験は失敗に終わります。異物によって物質は汚染され、決して元に戻ることはない……。
ならば我々実験者のすることは1つです。異物の存在が判明した時点で……それを“除去”するしかない」
野中はそう言ってうっすらと笑みを浮かべた。そこに初めて垣間見えた表情――自らの正しさを微塵も疑わず、“実験”に酔心する化学者の顔を見た瞬間、ようやく野中の言わんとすることがわかり、ぞっとするほど冷たい感覚が木場の背筋を貫いた。
「……まさか、あなたは、自分の“実験”のために児島さんを殺したんですか? 児島さんはあなたの実験にとって異物だから……だから“除去”したと?」
「僕は例え話をしているだけですよ。あなたが僕の動機を尋ねてこられたから、僕の考えをお話したまでです」
野中が落ち着き払って答えた。木場を見つめる瞳には相変わらず一点の濁りもない。
――いや、違う。それはただの見せかけだ。この男は決して清廉な教師などではない。その正体は、生徒を物質の1つとしか見なさず、自らの望む“化学反応”を起こすため、生徒を支配しようする欲望にまみれた化学者の姿だった。生徒に親身になっているように見えたのは、自分の“実験”を成功させるために、生徒を懐柔しようとした結果に過ぎない。
沙絢はそんな野中の本性を見抜いていた。だから指導に従わず――殺害された。
「……許せん」
ガマ警部が呻くように呟いた。木場は隣を見たが、視界に入ったガマ警部の形相を見た瞬間にぎょっとして後じさった。ガマ警部の眉間にはこれ以上ないほど深い皺が何本も刻まれ、歯を剝いた口は唇の端がひくひくと動いている。赤味を増した顔は形相も相俟って赤鬼のようで、これほど恐ろしい顔を木場は見たことがなかった。
「……刑事になって30年、様々な犯人を見てきた。取るに足りん理由で人を殺した奴も大勢いた……。
だが……ここまで精魂の腐った奴は初めてだ。手前のくだらん思想で生徒を殺した挙句……その罪を生徒に着せるとは!」
今にも噛みつかんばかりの口調と形相でガマ警部が野中を睨みつける。ここまで感情を露わにしたガマ警部を見るのは初めてだったが、その気持ちは木場も同じだった。拳を握り、野中の方に一歩詰め寄って叫ぶ。
「唯佳ちゃんに罪を着せたのも同じ理由だったんですね……。自分の思い通りにならない生徒を、2人まとめて排除しようとした……。あんたのそのくだらない実験のせいで……唯佳ちゃんがどれくらい悲しんだか!」
声を限りに叫んだところで、沙絢の命が戻ることはない。子どもでもわかるその事実を前にしても、木場は憤りを抑えることができなかった。
野中の“実験”の代償はあまりにも大きかった。唯佳と沙絢の日常も、2人の友情も、沙絢の未来も、野中は全て奪い去った。
「……何度も申し上げるように、僕はあくまで仮定の話をしているだけですよ。僕が児島さんを殺した証拠など、どこにもないでしょう?」
野中は憎らしいほど落ち着き払っている。証拠がないとわかっているからこそ、怒りをぶつけられても平然としていられるのだろう。
「くそっ……何かないのか!? あいつを追い詰める証拠は……」
木場は頭を掻きむしりながら必死に考えを巡らせた。こんな男を野放しにしてはいけない。この男の“実験”によって別の誰かが犠牲になるかもしれない。だけど、彼を逮捕しようと必死になればなるほど考えがまとまらず、努力を嘲笑うかのように焦りばかりが募っていく。
「そうだ! 水筒の指紋を調べれば!」木場ががばりと顔を上げた。「水筒からあいつの指紋が検出されれば、あいつが水筒を持っていたことを証明できます!」
名案への反応を確かめようと木場が勢い込んでガマ警部の方を振り返る。だが、ガマ警部は渋面を作って首を振った。
「残念だが、水筒の指紋は検査済みだ。被害者と松永の指紋、それ以外は検出されなかった」
「そんな……!」
「奴が水筒を発見したのは教室に死体を運び入れた時だ。おそらく、その時に手袋か何かをしとったんだろう。そのまま水筒を持ち去ったと考えれば指紋が付いていなくても納得はいく」
「じゃ、じゃあ……執務室を調べましょう! 児島さんの死体がそこに隠されていたのなら、髪の毛か何かが落ちているかもしれません!」
「構いませんが、僕は綺麗好きでしてね。執務室の掃除は朝と晩、毎日欠かさずにやっているんですよ。何も出てこないと思いますけどね」
野中が静かに口を挟んだ。確かに3日前に入った時も、床はぴかぴかに磨き上げられていた。もし沙絢の毛髪が残っていたとしてもとっくに捨てられてしまっているだろうう。
「そ、それじゃあ……そうだ、ティーカップ! 紅茶の中に青酸カリが混入されていたのなら、何か痕跡が残っているはずです!」
「はぁ……刑事さんもしつこいですね。ご希望であればどうぞお調べください。結果は同じだと思いますがね」
そろそろ嫌気が差してきたのか、野中がうんざりした顔で言った。動揺が見られないところを見ると、殺害に使ったティーカップはすでに処分しているのかもしれない。
「くそっ! どうすればいいんだ……? 考えつくことは全部あいつに先回りされてる。このままじゃ……」
木場は頭を掻きむしった。目の前の男が犯人であることは明らかなのに、証拠がないために逮捕することができない。こんなもどかしいことがあるだろうか? 何か、何か1つでいい。野中の犯行を決定づけるような証拠があれば――。
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