盲点
「……ここは1つ、順を追って考えていくことにするか」
ガマ警部が不意に呟いた。木場が虚を突かれた顔で警部の方を見た。
「奴の犯行計画、そして、実際に起こった犯行を一から見直す。そこに何か綻びを見出すことができるかもしれん」
普段から猛禽類のようなガマ警部の眼光が鋭さを増している。彼としても、何としても野中を逮捕して裁きを受けさせたいのだろう。
木場は神妙な顔になって頷くと、これまでの経過を辿るために手帳を捲り始めた。
「まず……野中は事件の3日前に、実験室の鍵の紛失届を提出した。でも、実際には鍵は盗まれていなかったんですよね」
「あぁ、鍵が紛失したと見せかけることで、外部の人間が青酸カリに近づいたと思わせようとした。事務員の夏休みのために処理が滞っていたようだが、すぐに処理されていたとしても、奴以外の人間に青酸カリに近くづくチャンスがあったという点は変わらんからな」
ガマ警部が頷きながら言った。木場は手帳を1枚捲った。
「次に事件当日、野中は13時からの面談に児島さんを呼び出し、青酸カリ入りの紅茶を提供した。児島さんはその紅茶を飲んで死亡し、野中は執務室に死体を隠し、何食わぬ顔で唯佳ちゃんの面談をした……。その際、青酸カリを胃薬だと偽って唯佳ちゃんに指紋をつけさせ、扇風機を取りに行く振りをして、唯佳ちゃんの鞄に実験室の鍵を入れた……。うう、考えるだけで許せません!」木場が拳で宙を殴った。
「俺も同意見だが……今は感情的になるな」ガマ警部が窘めた。
「そして夜、人が出払うのを見計らい、奴は死体を1組の教室まで移動させた。搬送先に1組を選んだのはたまたま鍵が開いていたからだろう。奴とすれば、実験室以外の場所であればどこでもよかったわけだ」
「で、死体を運んだ際に、児島さんの水筒を発見したんですね。野中は水筒を利用することを思いつき、青酸カリを入れるために実験室に持ち帰った。それを的場君に目撃されたわけですね」
「あぁ、的場が水筒をはっきり目撃していれば、奴の尻尾を掴むこともできたんだが……」
ガマ警部が唸った。水筒の件について詳細を思い出せず、恥じ入ったような顔をした貴弘の姿が木場の脳裏に浮かぶ。野中が水筒を持っていたと断言できず、一番悔しい思いをしているのは貴弘自身だろう。
「野中は水筒に青酸カリを入れ、それを児島さんの死体の傍に戻した。そうしておけば、児島さんが水筒のお茶を飲んで死亡したと見せかけることができる……」
「あぁ、奴は事件当日教室に近づいていないからな。自分から疑いを背けるのに好都合だったというわけだ。
だが……もしかしたら、そこに突破口があるかもしれん」
「どういうことですか?」
「被害者の水筒を利用することは、奴の犯行計画には含まれていなかった。奴が水筒を利用したことで、何かボロを出していたとしたら?」
「あ、そうか。そこを追及すれば!」
「うむ。奴の尻尾を掴める可能性はある」
ガマ警部が頷いた。ようやく光明が見えてきたことで木場の心臓はいつになく波打った。手帳を捲り、水筒に関する手がかりを血眼になって探す。
「ええと……まずはその的場君の目撃証言ですね。事件当日の20時半頃、野中が水筒を持って歩いているのを目撃した」
「だが、その証言には確証がない。そこから追及するのは難しいだろう」
「そうなると……もっと遡って、今度は唯佳ちゃんの証言ですね。唯佳ちゃんは面談が終わった後、児島さんと1組で待ち合わせをしていた。その際、児島さんが水筒を忘れていたことを思い出して、水筒を持って待っていた。
でも、野中が青酸カリを入れたのが夜だってことは、昼間水筒がどこにあったかは重要じゃないってことですよね?」
「そうなるな。まぁ、松永が水筒を所持していたことで、疑いが強まる結果になったわけではあるが」
「となると……あと関係あるのはこれくらいかな。野中自身の証言です。事件発覚後に薬品棚を調べた際、青酸カリの中身が10グラム減っていた」
「うむ、渕川の話では、水筒から検出された量も10グラムだ。不審な点はない」
「そうですか……。でも困ったな。他に水筒に関する情報なんて……」
「刑事さん、もうそろそろよろしいでしょうか?」
背後から野中の声がして木場は振り返った。野中は椅子から立ち上がり、白衣の裾についた糸くずを手で払っている。
「大変興味深いお話でしたが、僕もそろそろ仕事に戻らなければなりませんので。この続きは、また日を改めてじっくりとお聞かせください。その時は、今度こそ紅茶をご馳走しますよ。天国にも昇るような、特性のブレンドを……ね」
野中はそう言うと、いっそ美しいと言えるほどの笑みを浮かべて見せた。こんな状況でなかったら見惚れてしまっていたかもしれない。だが、その裏にある本性を知った今では、天使のようなその微笑みも悪魔の嘲笑にしか見えない。
「くそっ、何か……何かないのか!?」
木場はページが曲がるほど手帳を強く握りしめた。そこに刻まれた文字を親の仇のように睨みつける。
「……あれ?」
不意に疑問が浮かび、木場は手帳を握る力を緩めた。一見些細なことに思える疑問。だが、もしかしたらこれは――。
「どうした? 木場」
ガマ警部が目ざとく尋ねてきた。木場は何度か目を瞬かせると、ゆっくりと言った。
「ふと思ったんですけど……児島さんが飲んだはずの青酸カリはどこに行ったんでしょう?」
「何?」
「水筒から検出された青酸カリは10グラム。瓶から減っていたのも同じく10グラム。誰が見ても正しい数式です。
でも……よく考えたらおかしい。ここには児島さんの体内にあるはずの青酸カリの量が含まれていないんです」
「それが何だと言うんです?」野中が小馬鹿にしたように口を挟んだ。
「確かに彼女の体内にあるシアン化カリウムの量を合わせれば、使用された量は10グラムを上回るのかもしれん。でも、そんなものは微々たる違いでしょう? 私の犯行の証明にはなりませんよ」
「それは……」
「いや……そうとも限らんぞ」
ガマ警部がおもむろに口を開いた。野中が鋭い視線を警部の方に向ける。
「あんたは3日前に言っていたな。事件が発覚した後、台帳に記載された残量と、瓶に残っていた青酸カリの量を比べ、10グラムという使用量を割り出したのだと」
「ええ、それが何か?」
「だが実際には、10グラムよりも多くの量が犯行に使用されていた。普通に見比べるだけなら、そんな勘違いはしなかったはずだ。なのにあんたは、犯行に使われたのは10グラムだと断言した。なぜだ?」
「それは……きっと見間違えたのでしょう」
「見間違えた? 通常の薬品よりも取扱いに神経を使い、台帳まで用意して管理を徹底している毒物の数値を見間違えただと?」
ガマ警部の追及を受けて野中が眉根を寄せる。端正な顔に初めて焦りの色が浮かんだのを見て、木場はふと考えつくことがあった。
「もしかして……野中先生は、わざと10グラムという数字を持ち出したんじゃないでしょうか」
木場が顎に手を当てながらおもむろに口を開いた。野中が刺すような視線を向けてきたが、木場は臆さずに続けた。
「水筒に入った青酸カリの量と、瓶から減っている量が同じだとわかれば、児島さんが水筒のお茶を飲んで死亡したことは疑いがなくなる。それ以外のものを飲んで死亡したなんて誰も思わない。つまりあなたは、児島さんが紅茶を飲んで死亡したと思われないよう、わざと犯行に使われたのは10グラムだということを強調したんです」
野中は答えなかった。だが、その表情には先ほどまでの余裕は失われている。
「でも……考えてみれば、あなたがその数字を知っていること自体おかしいんです。水筒に混入されていた青酸カリの量が10グラムだったという情報は、警察関係者しか知りません。なのにあなたはその情報を知っていた。瓶の残量を確かめただけでは、あなたがこの数字を知ることはできません。あなたはどこで、水筒に混入された青酸カリの量を知ったんでしょうね?」
野中がはっと息を呑む気配がした。それを見て、木場は畳み掛けるように言った。
「その答えは1つです。あなたは自分の手で瓶から青酸カリを10グラム取り出し、それを水筒に入れたんです。それ以外に、あなたが水筒に混入されていた青酸カリの量を知る方法はありません。
でも迂闊でしたね。化学者の性とでもいうのか、量をきっちりと図ったことが、結果的にあなたの犯行を証明することになってしまった。もし反論があるなら……化学者らしく、証明してもらえますか? 野中先生」
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