末路
幕が下りた後の舞台のように、実験室はしんと静まり返った。蝉が思い出したように耳障りな鳴き声を立て始め、空間を超越してきたようにむわりとした熱気が再び立ち込める。窓から降り注ぐ日光の勢いは弱まり、代わりに影が室内に差し込んでいる。
野中はしばらく動かなかった。瞼を縫いつけられたように目を見開き、硬直した笑みを口元に浮かべている。首は不自然に曲げられ、幽霊のように両手をだらりと下げている。その姿は棚の奥にしまい込まれ、存在を忘れられたピエロの人形を彷彿とさせた。
「ふ……、ふふ……」
不意に誰かの笑い声がした。木場は思わず辺りを見回したが、部屋には3人しかいない。前方に視線を戻すと、野中が先ほどと同じ格好のまま頬を引き攣らせているのが見えた。
「ふふ……そう、この、僕が……、こんな、頭の悪そうな刑事に……、負けるとはね……」
野中は小刻みに笑い続けた。壊れかけたラジオのように、途切れながらも、延々と止むことなく声を上げ続けている。その異様な姿を木場はぞっとして見つめた。野中の独白は止まらない。
「君達にはわからないだろうね……。僕の考えることなど……。
僕はただ、自分の理想の世界を作ろうとしただけなんだ……。この学校という場で……、自らの支配下において……。
僕の実験は完璧だったよ……。僕の手にかかれば、生徒達は素晴らしい化学反応を起こし、僕の思うような結果を残してくれた……。生徒達を意のままに動かすことは簡単だったよ……。彼らは誰もが僕を信望していたからね……。
そう……何もかも上手くいっていたんだ……。彼女以外は……」
呪文のように唱え続けていた野中だったが、そこでがばりと顔を起こすと、途端に歯を剥き出しにして叫んだ。
「児島沙絢! 彼女は僕の実験において異物だった! 僕がどれだけ手を加えてやっても、彼女は全く変化を起こさなかった! それどころか、僕の可愛い生徒達を汚染し始めた!
松永唯佳……彼女がいい例だ! あの子は純粋で、どんな反応を起こせるかと僕も楽しみにしていたんだ! それを……あいつは汚染したんだ! 不良という道に引きずり込み、元に戻れなくさせた!
だから除去した! そうだ、僕は何も間違っちゃいない! 化学のため、生徒のために正しいことをしたんだ!」
野中は一気にまくし立てると、両手を広げて高らかに笑い始めた。最初に会った時の爽やかさや、追及を受けていた時の貫禄は欠片もない。あまりの変貌ぶりに、木場は言葉をなくしてその姿を眺めるほかなかった。
「……哀れな男だな」やがてガマ警部がぽつりと言った。
「奴は自分が世界の支配者にでもなったつもりでいたんだろう。教室を実験の場に見立て、そこに存在する生徒を支配することで、自らの優越性を証明しようとした……。奴の思想の愚かさを指摘する人間がいれば、結果は違っていたのかもしれんがな」
木場は再び野中に視線を向けた。野中は狂ったように笑い続けている。その姿は確かに世界を支配する王のようだが、彼が決して王になり得ないことは自分達が一番よく知っている。
木場は少し考えた後、静かに野中の方に近づいて行って声をかけた。
「野中先生……あなたに1つ、言っておきたいことがあります」
野中が笑うのを止めて木場を見た。その口元はなおも愚弄するように歪められている。
「あなたは自分が正しいことをしたと言いましたね。化学のため、生徒のために“異物”を排除したと……。
でも、そんなものはただの自己満足です。あなたは自分のくだらない思想のために、生徒を利用しただけだ。児島さんや松永さんだけじゃない、あなたを信じていた多くの生徒が……あなたによって傷つけられることになった。
あなたは教師でも化学者でも、まして王でも世界の支配者でもない。ただの偽善者であり、殺人犯ですよ、野中先生」
野中がぴくりと動きを止めた。口元を震わせ、何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。その場に膝をつき、四つん這いになってがっくりと首を垂れる。
木場は憐れむような視線を向けると、自分も野中の傍にしゃがみ込んだ。ズボンのポケットに手を入れ、見慣れた銀色の道具を取り出して野中の手首の上に翳す。
「野中誠さん……あなたを、児島沙絢さんの殺害容疑で逮捕します」
手短にそう宣告した後、野中の手に手錠が嵌められる。素早く鍵を回し、室内にかちりという音が響く。
生命を断つようなその音は、自らの歪んだ思想に耽溺し、その身を破滅させた愚かな男の、人生の終焉を告げる弔鐘のようにも聞こえた。
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