対峙

 実験室は水を打ったように静まり返った。部屋に立ち込めるむわりとした熱気も、外から聞こえる耳障りな蝉の鳴き声も別世界のもののように感じられる。この化学実験室だけが世界から切り離され、自分達3人以外の人間が消失してしまったかのようだった。


 野中はきょとんとした顔で木場を見返した。何を言われているのか、本気で理解できないといった表情をしている。曇り一つないその目に真正面から見つめられると、木場はだんだん自信がなくなってきた。その気持ちを代弁するかのように突きつけた人差し指が下がっていく。


 本当にこの人が犯人なのだろうか? 木場は改めて自問した。こんな見るからに善良な顔をして、生徒のことを一心に考えている野中が、その生徒を殺し、生徒に罪を着せるなどということがあるのだろうか?

 だが、唯佳は確かに言っていた。木場が見せた青酸カリの写真に対し、確かにこれは、自分が野中に渡した“胃薬”だと。唯佳が嘘をついているとも思えず、木場はひとまず自分の推理を話すことにした。野中の方に向き直り、呼吸を整えてから口を開く。


「あなたは面談当日、わざと教卓の上に青酸カリの小瓶を置いておいたんですね。荷物置きを教卓の近くに置くことで、松永さんが鞄を置いた際に小瓶が目につくようにした。あなたはその時、瓶を机の方まで持ってきてほしいと頼んだそうですね。それによって、瓶に彼女の指紋を付けることに成功した」


 野中は答えなかった。表情を消したまま、まんじりともせずに木場を見つめていたが、不意に苦笑を漏らして言った。


「……刑事さん、さすがに御冗談が過ぎますよ。確かに僕は面談の日、胃薬を教卓の上に置き忘れていました。松永さんにそれを取ってもらったのも事実です。ですが、それだけで犯人にされてしまってはたまりませんよ」


「では、あなたの“胃薬”と、青酸カリの小瓶が同じだと言った松永さんの供述をどう説明されますか?」


「毒物と言っても見た目は普通の薬瓶と変わりありませんからね。たまたま似た容器に入っていたので、同じものだと勘違いしてしまったのでしょう」野中があっさりと言った。


「それに、刑事さん達もご覧になったと思いますが、毒物や劇物にはラベルが貼っており、一目で危険な物だとわかるようになっています。松永さんが見た僕の“胃薬”にも、そんなラベルが貼ってあったとおっしゃるんですか?」


「それは……」


 木場は言葉に詰まった。確かに3日前、自分達が薬品棚を見た時にも、過酸化水素水の小瓶に『医療用外劇物』と赤字で書かれた白いラベルが貼ってあった。あれだけ目立つものを見逃したとは思えない。


「ふん、ラベルなんぞどうにでも工作できる」それまで黙っていたガマ警部が助け舟を出した。


「別の薬瓶からラベルを剥がし、『毒物』というラベルの上から貼っておいたのかもしれん。あの娘が『毒物』のラベルを見ていなかったからと言って、あんたの胃薬と青酸カリが別物だという証拠にはならん」


「では、鍵の問題はいかがでしょう?」野中があくまで冷静に尋ねた。


「刑事さんの話によれば、僕は松永さんの鞄に実験室の鍵を忍ばせたということですが、本当にそんなチャンスがあったんでしょうか?」


「面談の時、松永さんの鞄は、教卓の近くの荷物置きの中にありました」木場が答えた。


「一方、あなたが面談をしていたという机……今自分達が囲んでいる机ですが、これは部屋の一番奥、入口から見るとちょうど対角線上にあります。これだけ離れた場所にあれば、あなたが松永さんの隙をついて、鍵を鞄に入れることは十分に可能だったと思います」


 ガマ警部の援護射撃を受け、木場は少しだけ自信を取り戻していた。だが、野中はやはり納得のいかない表情で首を傾げた。


「本当にそうでしょうか? 面談の時、この部屋には僕と松永さんの2人しかいなかった。僕が不審な行動を取れば、すぐに松永さんに気づかれたはずですよ。僕が面談もせずに部屋をうろついているのを、松永さんが黙って見ていたとでもおっしゃるんですか?」


「それは……」


 木場はまたしても言葉に詰まった。昨日の取り調べの際も、面談時の野中の行動について木場は唯佳に尋ねてみた。だが、野中が席を外したのは、最初に紅茶を入れるために執務室に行った1回きりで、執務室に入っていく姿も、紅茶を持って出てくる姿も唯佳は目撃していた。それ以降はずっと机で面談をし、野中が席を立ったことはなかったという。


「刑事さん、あなたが犯人を見つけたいお気持ちは痛いほどわかります。ですが……そのために無理やりな理屈をこねて、無実の人間を犯人に仕立て上げようとするのは感心しませんね」


 野中が眉を下げて息をついた。聞き分けの悪い生徒を前にした教師の顔だ。

 木場は焦りを感じて身体を捩らせた。ダメだ、こんな序盤で詰まっていてどうする。とはいえどう反論すればいいのだろう。唯佳に不審感を抱かせずに彼女の鞄に近づく方法など――。


「……ふむ、少し暑くなってきたな」


 ガマ警部が出し抜けに呟いた。木場は虚を突かれて振り返った。


「ここのところ、どうも暑さが堪えてならん。年のせいかもしれんな……。悪いが、やはり扇風機をつけてもらえるか?」


「あ、は、はい。わかりました……」


 突然の申出に野中も困惑した表情を浮かべながら、立ち上がって入口の方へと向かった。

 木場はその姿をぼんやりと見つめながら、木場は3日前のことを思い出していた。あの時も部屋はうだるような暑さに包まれていて、野中に扇風機をつけてもらったのだ。確か野中が紅茶を運んできて、自分がその香りを堪能している間に、野中が扇風機を取りに行って――。


「……あ!」


 天啓のようにその考えが閃き、木場は思わずガマ警部の方を見た。ガマ警部が無言のまま木場の方を見て頷く。そうだ、暑さの中でも熱帯植物なみにぴんぴんしていたガマ警部が、急に扇風機が欲しいなどと言い出すはずがない。


「野中先生……わかりましたよ。あなたが松永さんに怪しまれずに、彼女の鞄に近づいた方法が」


 木場が野中の背中に向かってゆっくりと言った。教卓の隣にある巨大な扇風機を動かそうとしていた野中がはたと動きを止める。


「あなたは教卓の近くに荷物置きを設置していた。てっきりそれは、“胃薬”を松永さんに見つけさせるための方策だと思っていましたが、目的はもう1つあったんですね……。同じく教卓近くにあった扇風機を取りに行く際、鞄に鍵を忍ばせるという目的が」


 野中は答えなかった。扇風機から手を離し、木場の言葉を背中で受け止める。木場は続けた。


「3日前、自分達がここに来たのは13時頃でした。事件当日、松永さんが面談を受けていたのも13時から、部屋には同じように熱気がこもっていたはずです。あなたが扇風機を取りに席を離れたとしても、松永さんは不思議には思わなかったでしょう。実験室の鍵は、最初から紛失なんかしていなかった。ずっとあなたの手の中にあったんですよ」


 野中は扇風機から手を離すと、ゆっくりと木場の方を振り返った。ビー玉のように透き通った2つの目が、じっと木場を見据えている。その瞳からは何の感情も読み取れず、得体の知れないものを前にしたざわめきが木場の胸の内に広がっていった。この男はいったい何を考えているのだろう?


「……刑事さんは、どうあっても僕を犯人にしたいようですね」


 やがて野中がぽつりと言った。白衣のポケットに手を突っ込み、人類の堕落を嘆く神のような表情で深々とため息をつく。


「……少し頭を使って考えれば、僕が犯人などではないことは自明の理だと思います。ですが……あなたがどうしても僕を犯人に仕立て上げたいというのなら、致し方ありません。付き合って差し上げますよ。刑事さんの推理にね……」


 野中はそう言うと、木場達のいる実験台の方までゆっくりとした歩調で戻ってきて、机の下から椅子を引っ張り出した。そこに腰かけて足を組み、臍の前で手を組み合わせ、悠然と笑みを浮かべて木場を見上げる。警察から尋問を受ける人間特有の怯えは見られず、むしろ挑戦を受ける王者のような風格すら漂わせていた。


 木場はごくりと唾を飲み込んだ。野中の表情は、先ほどまでとは全く違っていた。秋の野に揺れるススキのように穏やかだった表情は消え、今そこに浮かんでいるのは、木場のような間の抜けた男に自分の犯行が暴かれるはずがないという、絶対的な自信と蔑みだった。

 彼の圧倒的な余裕を前に、木場は足が震えそうになるのを感じたが、努めて動揺を悟られまいとした。唯佳や沙絢のためにも、ここで負けるわけにはいかない。

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