唯一の人

「それで? 何か気づいたことはない? どんな小さなことでもいいんだ」


 木場が改めて尋ねた。貴弘は視線を落として黙り込んだ。木場の言葉をどこまで真に受けていいものか、図りかねているのかもしれない。


「……そう言えば、1つだけ」やがて貴弘がぽつりと言った。


「何、どんなこと!?」


 木場が飛びつくように尋ねた。貴弘は気圧された様子で身を引いたが、すぐに気を取り直して答えた。


「いや……一昨日、アンタともう1人のオッサンに呼び出されて話した時、俺が沙絢の水筒見てないかって聞いてきただろ。俺、あの時は見てないっつったけど、よくよく考えたら1回見てたんだよ」


「本当!? いつ、どこで!?」


 木場が唾を飛ばしながら尋ねた。貴弘はその勢いにたじろぎながらも答えた。


「……夜の8時半くらいだったかな。俺、その日8時までバイトだったんだけど、終わった後に携帯ないことに気づいたんだよ。たぶん部室に忘れたんだろうなって思ったから学校に取りに行って、まだ人いたから、部室の鍵開けてもらったんだ」


「うん、それで?」


「帰ろうとした時、校舎から人が出てくるのが見えたんだ。最初は誰かわからなくて、用務員か誰かかと思ったんだけど、よく見たら違って。それ、野中だったんだよ」


「野中先生?」木場が意外そうに聞き返した。


「うん、白衣着てたから間違いないと思う。あいつは俺には気づいてなくて、俺は遅くまで残業してるなって思いながら見てたんだけど、その時あいつが持ってた気がするんだよ。沙絢の水筒……」


「本当に!?」


 木場が身を乗り出した。とんでもなく重大な証言が飛び出してきたようだ。


「うん……暗かったから、絶対そうかって聞かれると自信はないんだけど……」


「大事なことなんだ。よく思い出してほしい。それ、本当に児島さんの水筒だった?」


 貴弘が腕を組んで考え込み始めた。この前のように面倒がっている様子はない。


「……ごめん、本当にわかんねぇんだ。俺があいつ見たの外だから、周りに灯りとか全然なかったし、たぶんそうだったって気がするだけで……」


 貴弘が心から申し訳なさそうに言った。期待を持たせておきながら役に立てなかったことを恥じ入っているようだ。

 木場も内心落胆したが、努めてそれを顔に出さないようにして言った。


「まぁ、夜だったんだからしょうがないよ。ちなみにそれ、どっち側の校舎だった?」


「東側。俺らの教室のある方だよ」


 木場は手帳を捲った。野中は面談が終わった後、ずっと執務室で事務作業をしていたと言い、教室に戻ったとは一言も言っていなかった。

 疑問が木場の脳内を駆け巡る。野中はなぜ、教室に行ったことを隠していたのだろう。そしてなぜ、沙絢の水筒を持っていたのだろう――。


「……なぁ、これってさ、やっぱり野中が犯人ってことなのか?」


 木場の疑念を読み取ったように貴弘が尋ねてきた。木場は急いで意識を引き戻すと、慎重に言葉を選びながら答えた。


「うーん、わからないな。確かに気になるけど、それだけで犯人と決めつけることはできない。野中先生に直接話を聞きたいところだけど、今日は来てないって言うし……」


 貴弘は顔をしかめると、視線を落として何やら考え込み始めた。木場は不思議そうにその顔を見つめた。どうしたのだろう。まだ何か話していないことがあるのだろうか。


「……こういうこと、警察に言っていいのかわかんねぇんだけどさ、俺……正直、あいつがやったんじゃないかって思ってる」


 貴弘が声を潜めて切り出した。木場は目を丸くして貴弘の方に顔を近づけた。


「野中先生が? でも何で……」


「別に理由があるわけじゃねぇんだ。ただ、他にやりそうな奴が思いつかないだけで」


「そう言われても、証拠がなかったら逮捕はできないよ? それに野中先生、すごく生徒想いのいい先生に見えたし、あんな人が自分の生徒を殺すとは思えないけど……」


 染み1つない白衣を纏い、修道士のような笑みを浮かべた野中の顔が脳裏に浮かぶ。だが、貴弘の目に映る野中の人物像はそれとは違って見えるというのか。


「確かにあいつ、見るからに“いい教師”って面してるよな。実際、あいつのクラスだって言うとみんな羨ましがってくる。

 でも俺からしたら、あいつのそういうとこが逆に胡散臭いんだよ。あんまりにも生徒に入れ込み過ぎてるっつうか……」


「入れ込んでるって、例えば?」


「沙絢のことなんか典型だよ。あいつ、唯佳とつるんでいろいろ違反してたからさ。野中もしょっちゅう呼び出して面談とかしてたんだ。他の教師は沙絢のことはそこまで気にしてなかったけど、野中はあいつを何とかしたがってるみたいだった。まぁ沙絢はあいつのこと、偽善者だって言って全然相手にしてなかったけど」


 偽善者、前にもその言葉を聞いた。あれは確か、唯佳の進路について話をしていた時のことだ。

 唯佳は最初、野中に進路の相談をしようとしていたが、沙絢に止められたという話だった。その時、沙絢が野中を“偽善者”と呼んで嫌っていることを聞いたのだ。


「でも、それでどうして野中先生が児島さんを殺したことになるんだろう? 野中先生が生徒に入れ込んでたんだとしても、児島さんを殺す理由にはならないんじゃない?」


「俺だってわかんねぇよ。何となくそう思うってだけなんだから」


 貴弘が顔をしかめる。自分でも上手く説明できないようだ。


 木場は腕組みをして考え込んだ。貴弘の供述は気になるが、それだけで野中を犯人と断定することはできない。野中が生徒想いの教師だったということは敦子の証言からも明らかだ。そんな人間が生徒を殺したと言われても到底納得できない。


 その時、懐かしいチャイムの音が校内に鳴り響き、木場ははっとして腕時計を見た。時刻はすでに15時。唯佳の送検まであと2時間しかない。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのだろう。


「ごめん、的場君。自分はそろそろ署に戻らないと。もうすぐ唯佳ちゃんの身柄が検察に移される。できればその前に本人から直接話を聞いておきたいんだ」


「わかった。あ、でも、俺がいろいろ聞いてたことはあいつには言うなよ」


「どうして?」


「どうしてって……恥ずかしいだろ。自分以外の奴のこと気にするなんて」貴弘がばつが悪そうに視線を下げた。


「そんなことはないよ。唯佳ちゃん、貴弘君が心配してたって知ったら喜ぶと思う」


「……そうかな」


「そうだよ。厳しい取り調べ室を受けてても、自分の味方になってくれる人がいるって知れば、最後まで諦めずに済むんだからね」


 木場は実感を込めて言った。貴弘は釈然としない顔で頷くと、改めて木場の方を見つめて言った。


「とにかくさ、あいつのこと頼んだぜ。俺、警察なんて、人のプライバシーに踏み込んでくる嫌な奴としか思ってなかったけど……今は違う。アンタみたいな刑事もいるんだって知って、正直ほっとしてる。アンタなら……唯佳の疑いを晴らしてくれるよな?」


 貴弘が懇願するような目で木場を見つめる。沙絢の死に対し、特に何の感情も抱いていなかったように見えた貴弘。『人間関係は替えが効く』と言い放ち、他人に執着しなかった貴弘。だが、今目の前にいる貴弘はあの時とは別人のようだ。唯佳の無実をひたむきに信じ、その想いを木場に託そうとしている。

 貴弘にとって、唯佳は『替えの効く人間』ではなかった。その唯佳が逮捕されたという事実が、氷で覆われた彼の心を溶かし、冷淡な仮面を剝ぎ取ってしまったのかもしれなかった。

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