笑顔の理由

 木場が薙高校を後にし、署に到着した頃には15時半を回っていた。書類を持った警官があちこちをバタバタと走り回っている。何か重大な事件があったのだろうか。

 木場がそんなことを思いながら廊下を歩いていると、急に脇から腕を掴まれた。驚いて振り返ると、同僚の男性刑事の般若のような顔が眼前にあった。


「木場! お前どこ行ってたんだよ! 探したぞ!」


「あ……ごめん。ちょっと現場までお使いに行ってて。ガマさんから聞いてない?」


「聞いてたけど、それにしたって遅いだろ! 眼鏡1つ渡すのに何時間かかってんだよ!」


「ごめんごめん。ちょっと手間取っちゃってさ。あ、そうだ、ガマさん知らない? 報告したいことがあるんだけど」


 ガマ警部の名前を出すと、同僚はますます不機嫌そうな顔になった。


「そのガマ警部がお呼びだ。何でもお前に頼みたいことがあるとかで。……ったく、あの人は何だかんだでお前に甘いよな」


「ガマさんが自分に? 何だろ、報告書が追加になったとか?」


「さぁな。取り調べ室の前で待ってるって話だった。さっさと行ってこい」


 同僚は面白くもなさそうに言うと、乱暴に木場の腕を離して去って行った。

 木場は訳もわからぬまま、同僚に言われた通り取り調べ室へと向かった。


 


 木場が取り調べ室のある廊下に到着すると、ガマ警部が壁に背をつけ、番犬のように前方の扉を睨みつけているのが見えた。木場が近づいていくのに気づくと、ガマ警部は顔を上げてじろりと視線を寄こした。


「木場。遅かったな。“お使い”は上手くいったのか?」


「あ、それが……いろいろと話を聞いて回ったんですけど、目新しい情報は見つかりませんでした」


「ふん、大方そんなところだろうとは思っていたがな。それで? 納得のいく結論は出たのか?」


「いえ、まだです。それで自分、出来れば唯佳ちゃんの取り調べをさせてほしいと思ったんですが……」


 木場はガマ警部の背後にある取り調べ室の方へ視線をやった。覗き窓から、項垂れた唯佳と彼女に向かい合う3人の刑事の背中が見える。


「そのことだがな。実は俺も、お前にそれを頼みたいと思っていたんだ」


「え?」


 ガマ警部の言葉に木場が目を丸くする。てっきり聞き違いかと思ったが、ガマ警部は苦虫を噛み潰したような顔のまま続けた。


「お前が現場に行った後、俺もあの娘の取り調べに立ち会っていたんだが、何を聞いても黙秘していて一向に進まんのだ。俺としても、こんな中途半端な状態で事件を引き渡すのは気が進まん。そこでだ、木場、お前にあの娘の取り調べをしてもらいたい」


「自分がですか!? でも自分、捜査からは外されて……」


「わかっている。だから上には極秘だ。中にいる連中には、お前が戻り次第交代するということで話をつけている」


「でも……どうして自分なんですか? そりゃ、唯佳ちゃんの取り調べをしたいとは思ってましたけど……」


「あの娘はお前に懐いていた。他の人間に話せんことでも、お前には話すかもしれんだろう?」


 木場はまじまじとガマ警部の顔を見つめた。捜査を外された自分を現場に行かせただけでなく、取り調べまで許可してくれるとは、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。

 木場の困惑を見て取ったのか、ガマ警部が気の進まなさそうに息を吐いて言った。


「……正直なところ、俺も今回ばかりは、あの娘はシロじゃないかと睨んでいる。普段の俺なら、被疑者がどんなに犯罪とは無縁の人間に見えようが、証拠が出てきた時点で有罪と断定する。被疑者に対する私情など、捜査においては無用の長物でしかないからな。

 だが……今回は妙だ。証拠ははっきりとあの娘の犯行を示しているのに、何故かそれが腑に落ちん。相手が高校生の娘だからといって私情を挟んでいるつもりはないんだが……」


 自分でも理解できない感情を前に、珍しくガマ警部が困惑した表情を見せている。その葛藤が、上に見咎められる危険を冒してでも、木場に真実を見つけさせようとする計らいに繋がったのだろう。

 思いがけず懸けられた期待を前に、木場は胸の内から熱いものが込み上げてくるのを感じた。それと同時に、自分がこの事件の解決を託されていることを実感し、その重責に身が引き締まる思いがした。


「……わかりました。自分、唯佳ちゃんと話をしてきます」


 木場は表情を引き締めると、取り調べ室の扉をノックして中へと足を踏み入れた。


 


 木場が姿を見せると、取り調べ室をしていた3人の警官は顔を見合わせた後、渋々といった様子で立ち上がって部屋から出て行った。彼らからすれば役目を取り上げられたも同然だから面白くはないだろう。

 だが、今は彼らに構っている暇はなかった。同僚の非難がましい視線を背中で受け止めながら、木場は呼吸を整えてパイプ椅子に腰かけた。


「……唯佳ちゃん、大丈夫?」


 病人を労るように木場はそっと声をかけた。この2日間で唯佳はすっかり憔悴してしまったようだ。すべすべとした肌は疲労が滲んでボロボロになり、マスカラを塗ったぱっちりとした目はまぶたが腫れて真っ黒になってしまっている。ふんわりと巻かれた長い髪は強風に吹かれたように乱れ、直す気力もないように見えた。あの人形のように可愛らしかった唯佳の面影はどこにもない。


「……大丈夫、じゃない」


 唯佳がうつむいたまま呟いた。声がひどく掠れている。


「……刑事さん、ひどいんだよ。ユイは何にも知らないってずっと言ってるのに、ユイがやったんだって決めつけて……」


 木場は無言で頷いた。本当のことを話しているのに自分の言葉を信じてもらえない。その痛みは身に染みてわかっている。


「一応確認したいんだけど、唯佳ちゃんは青酸カリの瓶についた指紋のことも、化学実験室の鍵のことも全く知らないんだね?」


「知らないよ! っていうか、ユイが沙絢を殺すわけないじゃん!」唯佳が顔を上げて木場を睨みつけてきた。


「ユイ、沙絢のこと大好きだったんだよ? 卒業してもずっと友達でいようって約束してたんだよ!? なのにいきなり沙絢が死んじゃったって聞いて……。ユイ……、ユイ……」


 あふれだした感情を抑えることができず、唯佳は目にぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。木場は痛ましそうに目を細めてその姿を見つめた。この2日間、唯佳は何度この言葉を口にしてきたのだろう。大切なものを奪われた悲しみと憤りを胸に、報われない涙を流してきたのだろう。


「他の刑事は……それを聞いても信じてくれなかったの?」


「うん。『親友を亡くした割には、不自然に明るかった』とか言われて……。そんなこと言われても知らないよ!」


「実際、唯佳ちゃんはどんな気持ちだったの? 児島さんが亡くなったって聞いた時……」


 唯佳は何度もしゃくり上げながら、手の甲でごしごしと目元を拭った。自分の顔がどうなっているのか、気にも留めていないようだ。


「……正直、最初は全然実感なかった。っていうか、ずっと実感なかったんだ。先生がユイに冗談言ってるんだって思ってた。

 でも……警察の人とかいっぱい来て、沙絢のこと聞いて回ってるの見て、やっと沙絢がもういないんだってわかった。

 悲しかったよ。すっごく悲しかったよ。でも……泣いちゃダメだって思ったから、ずっとガマンしてたんだ」


「どうして泣いちゃダメだって思ったの?」


 木場が努めて優しく尋ねる。唯佳は再びしゃくり上げたが、懸命に嗚咽を堪えようと胸に手を当てると、何度か呼吸を繰り返してから続けた。


「……沙絢と約束したんだよ。ユイは笑った方が可愛いんだから、いつも笑顔でいなきゃダメだよって……。沙絢……ユイの笑った顔、好きだって言ってくれたから……」


 そこでとうとう感情の防波堤が決壊したのか、再び瞳から涙があふれ、唯佳は両手に顔を埋めて声を上げて泣き始めた。


 木場は言葉を失った。天真爛漫に見えたあの言動は、沙絢との約束に基づくものだった。どんな時でも笑顔でいなければと、唯佳はその約束を律義に守り、親友の死という現実を突きつけられてもなお、明るい自分のキャラクターを貫こうとした。

 ひょっとしたら、そこには一種の期待があったのかもしれない。いつも通りに振る舞っていれば、この悪夢のような現実を冗談にしてしまえるという期待が。沙絢がどこからかひょっこりと姿を現して、唯佳を騙せたことにくすくす笑って、それを見て唯佳が頬を膨らませて、そんな当たり前の光景が戻ってくると信じていたのかもしれない。


 人目も憚らずに泣きじゃくる唯佳の姿を見ながら、木場は今度こそ確信した。唯佳が沙絢を悼む気持ちは決して演技などではない。彼女は罪を着せられたのだ。彼女と、そして沙絢に対して悪意を抱く、真犯人によって――。


「……唯佳ちゃん。これから自分が言うことをよく聞いてほしい」


 木場の改まった口調で言った。唯佳が手から顔を上げて木場を見る。


「自分も、唯佳ちゃんが児島さんを殺すはずがないと思っている。でもそのためには、今ある証拠が偽物だってことを証明しなきゃダメだ。

 今回唯佳ちゃんに疑いが向いたのは、青酸カリの瓶についた指紋と、鞄から発見された鍵の2つがあったからだ。つまり犯人は、どうにかして瓶に唯佳ちゃんの指紋をつけ、鞄に鍵を入れたんだ。

 唯佳ちゃん、何か心当たりはない? 知らない瓶に触ったとか、どこかに鞄を置き忘れたとか」


「えー、そんなこと言われても……」


「よく思い出してほしい。唯佳ちゃんの無実を証明するためには絶対に必要なことなんだ」


 木場に促され、唯佳も真剣な表情になって考え込み始めた。事件当日の行動を思い出そうと必死に頭を回転させている。


「……鞄を忘れたってことはないと思う。それしたらさすがにユイでも気づくし」


「じゃあ、目を離したってことは?」


「うーん、補習の時は机の横にぶら下げてたから、誰かが何か入れたら気づくと思うんだけど」


「お昼休みや面談の時はどうだろう?」


「昼休みは……ベンチに置いてたと思う。ずっと見てたわけじゃないけど、沙絢も一緒だったし、誰かが近づいたらわかるんじゃないかな。

 面談の時は……えっと、どこに置いたっけな。あぁそうだ。部屋入ってすぐのとこに教卓があるんだけど、そこに荷物置きみたいなのがあったから中に置いたんだよ。でも、途中で誰も入って来なかったし、鍵入れるタイミングとかなかったと思うんだけど……。あ」


 唯佳が急に何かを思い出した表情になった。木場が弾かれたように身を乗り出す。


「どうしたの?」


「あ、えっと……。鞄のことじゃないんだけど、ユイが教卓に鞄置いた時、近くにセンセーの胃薬が置いてあったなって思って」


「胃薬?」


「うん、透明な瓶に入ってるやつでね。センセー、ご飯食べる時に置きっぱなしにしてたみたいで、ユイが教えたげたら、机の方に持ってきてって言われたから、持ってったげたんだ」


「ふうん……。胃薬っていったら個包装されてるイメージだけど、瓶入りのもあるんだね」


「ユイも思った。錠剤だったらお母さんもたまに飲んでるけど、センセーのは粉だったし、飲む量わかりにくそうだなーって」


 唯佳が何気なく発したその言葉が木場の頭に引っかかった。瓶に入った粉薬。唯佳の指紋の付いた青酸カリ。


(……まさか)


 その考えが頭に浮かんだ時、凍えるような悪寒が木場の背筋を貫いた。部屋はうだるような暑さに包まれているのに、周囲の気温が一気に下がったように感じられる。

 あり得ない。いやでも、それしか考えられない。でも、どうしてあの人が――?


「……木場さん? どうしたの? 顔、真っ青だよ?」


 唯佳が心配そうに木場の顔を覗き込んでくる。木場ははっとして顔を上げた。


「あ……あぁ、ごめん。ちょっと……変なことを考えちゃって」


「そうなの? 何か気づいたことあったの?」


「うん……ちょっとね」


 続ける言葉を見つけられずに木場は黙り込んだ。唯佳はなおも不思議そうに木場を見つめている。


「唯佳ちゃん……野中先生のこと、どう思ってる?」


 木場が出し抜けに尋ねた。唯佳がきょとんとした顔で首を傾げる。


「え? 何で急にセンセーのこと聞くの?」


「ちょっと、気になることがあって……それで、どう?」


「んー、いい先生だと思うよ? ユイにも何回も面談してくれて、いろんな話聞いてくれたし。

 あ、でも、ユイが沙絢と仲良くしてるのは嫌だったみたい。沙絢と一緒にいるとユイまで悪い人間になるとか言われて。ユイ、センセーのこと嫌いじゃなかったけど、沙絢の悪口言われるのは嫌だったから、あんまり言うこと聞かなかったけどね?」


「そう……なんだ……」


 心に鉛が沈んでいくような感覚を抱きながら、木場はゆっくりと息を吐いた。

 人の悪意を疑いもしない唯佳を前に、真実をどう伝えればいいのか、わからなかった。

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