刑事のルーツ

「自分、小学生の頃に両親が離婚してね。母親が自分と妹を引き取って育てたんだ。唯佳ちゃんと同じシングルマザーだよ。当然、生活は楽じゃなくて、お小遣いは誕生日とクリスマスの時にもらえるくらいだった。だから欲しいものは全然買えなかったけど、大して不満はなかったんだ。母親が頑張って働いてるのを知ってたからね」


「そうなんだ? 木場さん偉いんだね。ユイなんかついおねだりしちゃうよ。沙絢と同じコスメが欲しいとかいろいろ」


「まぁ、女の子はそうかもしれないね。妹も、同級生の子が可愛い筆箱とかポーチを持ってるのを見て羨ましかったみたいだし。

 ただ……4年生の時かな。新しいクラスで一緒になった奴らが、自分の家が貧乏だってことを知ってちょっかいをかけてくるようになったんだ。買ってもらった物をわざわざ学校に持ってきて、見せつけてきてさ。

 そうやってからかわれるのは正直辛かった。自分が物を買えないことより、母親をバカにされるのが嫌だったんだろうね」


 話しているうちに、当時の記憶が少しずつ蘇ってきた。毎日登校するたびに、お決まりのメンバーがにやにやして自分の机の周りを取り巻いては、これ見よがしにいろいろな物を見せつけてくるのだ。

 見ろよ木場、これ、〇〇シリーズの最新作なんだぜ。発売日に買ってもらって、今日帰ったら遊ぶんだ。え、お前まだ買ってないの? あぁそっか、お前ん家金ないもんな。ごめんごめん、忘れてたよ……。

 彼らの言動には明らかに悪意が込められていたが、当時の木場はそれに抗う術を持っておらず、ただ俯いて彼らが飽きるのを待つしかなかった。


「そんなことが半年くらい続いて……秋くらいだったかな。自分、すごく好きなシリーズの漫画があって、その最新刊が発売されたんだ。

 それまでの巻は買ってなかったんだけど、最新刊は表紙がすごく格好良くて、どうしても欲しいって思ったんだ。誕生日までは買えないってわかってたけど、せめて見るだけでもって思って、毎日のように書店に行っては、ずっとその表紙を眺めてた。

 でも……ある日、いつものように書店に行って、表紙を眺めてから帰ろうとしたら、いきなり店員に呼び止められたんだ。『万引きしただろう』って睨まれてね……。

 それから事務室みたいなところに連れて行かれて、鞄の中身を全部出せって言われたんだ。でも、その時はまだ平気だった。自分は万引きなんてしてないし、中身を見せればわかってもらえるだろうって思ってたからね。

 でも……鞄をひっくり返して驚いた。本当に出てきたんだよ。さっき自分が見てた漫画が……」


 あの時の衝撃は、今も忘れることができない――。顔から見る見る血の気が引いていき、嫌な汗がじっとりと背中を濡らす不快な感覚。店員が冷ややかな視線で自分を見下ろし、地獄からの使いを招集するように、傍らの受話器に手を伸ばす。


「すぐに通報されて、近くの警察に連れて行かれたんだ。担当したのは中年の刑事で、端から自分がやったって決めつけてた。母親がシングルマザーだって聞いて、お金がないから盗んだって言うストーリーができあがってたみたいだ。

 でも、自分は釈明したんだよ。自分が書店で漫画を眺めてた時、あいつらも書店にいたことを思い出したんだ」


「あいつら?」


「ほら、自分をからかってた奴らだよ。あいつらが自分をはめたんだって、ぴんと来たんだ。

 でも、防犯カメラを見ても、あいつらが自分の鞄に漫画を入れたところなんて映ってなかった。だから結局、自分が嘘をついてるって思われたんだ。

 あの時は辛かったよ……。本当のことを話してるのに、親がシングルマザーってだけで信じてもらえないんだから……」


 灰色の狭い取り調べ室で、強面の刑事と差し向いになり、縮こまる少年時代の自分の姿が瞼の裏に蘇る。

 話せばわかってもらえると思っていた。自分は何も悪いことはしていないのだから、堂々としていればいいのだと。

 だが、そんな正義を無邪気に信じていた心はあえなく裏切られてしまった。無理解と不平等に満ちた現実社会の一端を、当時10歳の木場少年は図らずも垣間見ることになったのだ。


「自分が意外と粘るから、刑事もかなり苛立ってたみたいだね。ぽろっと言ったんだ。『まったく、親子そろって頑固だな』……って。そこで自分、母親も取り調べを受けてるってことを知ったんだ。

 母親が自分を信じてくれたって聞いて嬉しかったけど、何時間も取り調べを受けさせてることに申し訳ない気持ちもあってね。

 その時、ふと思ったんだよ。自分が万引きを認めれば、母親は取り調べから解放される。その方がいろいろと丸く収まるし、正しいことなんじゃないかって。もちろん、やってもないことを認めるのは嫌だったけど……」


 自分1人の問題ならば、木場は朝までだって粘っていられただろう。でも、母にまで同じ苦労を背負わせることはできなかった。自分が母のためにできることと言えば、母をこの陰湿な牢獄から解放してやることだけだ。そのためには、たった1つ言葉を口にするだけでいい。すみません。自分がやりましたと――。


「自分は万引きを認めようと思ってその刑事の方を見たんだ。でも、ちょうどその時取り調べ室のドアが開いて、頭髪が真っ白な、かなり年のいった刑事が入ってきたんだ。一応警官の服は着てたんだけど、縁側に座ってお茶を飲んでるおじいさんみたいな雰囲気だった。

 で、そのおじいさんが自分の方に近づいてきて、にこにこしながら聞いてきたんだ。『やぁ、君が万引きをしたっていう少年か。とてもそんなことをしそうには見えないけどねぇ』……って。世間話でもするみたいに言うもんだから、自分、びっくりしてね。

 で、そのおじいさんがまた聞いてきたんだ。『君、本当に万引きをしたのかい?』って。直前まで自白するつもりだったのに、なぜかそのおじいさんの前だと正直に言わなきゃって気持ちになって、言ったんだ。自分は絶対に万引きなんかしてないって。

 おじいさんは何回も頷いて、今度は取り調べをしてた刑事に言ったんだ。『この子のお母さんも同じことを言っていたよ。親も本人も否定しているのに、いつまでも取り調べを続ける理由はない』……って。

 その刑事もさすがにびっくりしてて、いろいろ文句を言ってたけど、おじいさんはただにこにこしてるだけだった。刑事は納得いかない顔をしてたけど、結局自分を釈放してくれたよ」


「えー、そのおじいちゃん刑事すごくない? 一言で木場さんのこと助けちゃうとか」唯佳が賞賛の声を上げた。


「うん。自分も不思議だったんだけど……ひょっとしたらすごく重要なポストの人だったのかもしれないね。そうじゃなかったら、あんなにあっさり釈放されるはずがないし」


「それで、その後どうしたの?」唯佳が興味津々で尋ねてきた。


「うん。そのおじいさんに付き添われて表玄関まで行って、母親の取り調べが終わるのを待ってたんだ。待ってる間、学校のこととか家のこととかいろいろ聞かれたんだけど、全然詮索する感じじゃなかったから、不思議と何でも話せたんだ。おじいさん、孫の話を聞くみたいにずっと目を細めてたよ。

 で、そのうち母親が戻ってきて、すごく疲れてた顔をしてたけど、自分がそこにいるのを見てほっとしたみたいに見えた。母親はおじいさんに何度もお礼を言って、おじいさんはにこにこしてそれを聞いてたんだけど、最後にちょっと真面目な顔になって、自分に向かってこう言ったんだ」


『木場君、君は今日、とても辛い思いをしたと思うけれど、それでもお母さんが最後まで君を信じてくれたことを忘れちゃいけないよ。どんなに弱い立場にあったとしても、たった1人でも自分を信じてくれる人がいることで、人は最後まで希望を失わずに済むものなんだ』


「そう言ったおじいさんの姿が、何だかすごく格好よく見えてね……。さっきまでののほほんとなおじいさんの顔じゃなくて、経験を積んだ刑事の顔をしてた。

 その時思ったんだ。自分もこの人みたいな刑事になりたいって」


 今も鮮明に焼きついている、取り調べを受けた時の記憶。身も心も凍るようなひんやりとした空気や、座り心地の悪い固いパイプ椅子。真正面から自分を睨めつける刑事の視線。被疑者の中には、そういった無言の圧力に晒されるうちに、間違った正義を確信し、罪を認める者がいるのだろう。

 だが、木場はそういう人達に寄り添える刑事でありたかった。孤立無援の状況の中で、この人だけは自分の言葉を信じてくれると思えるような存在。

 それは刑事の本分からは外れているのかもしれない。それでも木場には、自分を信じてくれたあの老刑事の言葉が今も忘れられずにいた。あの刑事が自分を信じてくれたように、自分もまた、誰かを信じられる存在でありたかった。


 木場は窓の外に視線をやった。日が落ちてきたのか、校内には日陰が増え、外から入り込む熱気が幾分和らいだように感じられる。耳障りな蝉の声も消え、心地よい静寂が教室を包み込んでいる。


「……こんな感じなんだけど、けっこう長くなっちゃったな。退屈しなかった?」


「全然! ユイ、ちょっと感動したもん」


 唯佳が頬を上気させて言った。あながちお世辞でもなさそうだ。木場は照れくさそうに頬を掻いた。


「そ、そっか。ならよかった。でも、自分も話せてよかったな。せっかく一課に配属されたのに、忙しくてあんまり思い出すこともなかったからさ」


「あの恐いオジサンは知ってるの? 今の話」


「いや、ガマさんにも話してないよ。なかなかそんな時間がないし、やっぱり照れくさいしさ」


「そうかな? すっごくいい話だし、オジサンも感動して泣いちゃうかもよ?」


 木場はその光景を想像してみた。ガマ警部がポケットからおもむろにハンカチを取り出し、鬼の目に浮かんだ涙をそっと拭い、いつになく優しい微笑みを浮かべて言う。木場、お前にそんな過去があったとは知らなかった。俺も年甲斐もなく胸が熱くなったよ――。


 いや、そんなことはあり得ない。例によって眉間に深い皺を刻み、ため息まじりに言われるだけだ。まったく、お前はやはり甘ちゃんだな。刑事の仕事は人を疑うことだと何度言ったらわかる。第一その老刑事の対応は何だ。被疑者の言葉を鵜呑みにして釈放するなど、刑事としては言語道断――。そんな風に一蹴されるに決まっている。


「でもすごいよね。そのおじいちゃん刑事みたいになりたいって気持ちだけでホントに刑事になっちゃうんだから」唯佳が感心した顔で言った。「周りに反対されなかったの?」


「いや、親戚も友達も猛反対したよ。お前は絶対に刑事に向いてないって口を揃えて言われちゃってさ。あ、でも母親だけは反対しなかったな。あの刑事さんに影響されたってわかったんだろうね。まぁ、だからって賛成もされなかったんだけど」


「そっか……。でもいいね。ちゃんと夢叶えられて」


 唯佳がふんわりと微笑んだ。木場の夢が実現したことを心から喜んでいるように見える。


「唯佳ちゃんだってこれからだよ。補習だって受けてるんだし、学校、どこも受からないってことはないよ。まずはお母さんに相談してみたら?」


「そうだね……。今日帰ったら、ちょっと話してみよっかな」


 唯佳がゆっくりと頷いた。その様子を見て木場も安堵した。進路指導はどう考えても刑事の仕事ではないが、唯佳が少しでも前向きになれたのなら何よりだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る