悩める年頃

 1階の廊下を抜け、木場が進路指導室へ向かっているとちょうど前方で教室の引き戸が開く音がした。見ると、引き戸の前に立つ警官と唯佳が何やら話している。警官は唯佳に何かを言い聞かせているようで、唯佳が片手を上げて笑顔でそれに応えている。警官は彼女の反応に困惑しているようだ。


「まつ……いや、唯佳ちゃん!」


 木場が呼びかけた。苗字と名前、どちらの呼び名が正しいのかだんだんわからなくなってきた。

 唯佳は木場の方を振り向くと、ぱっと顔を明るくした。


「あ、木場さんだー! どうしたの? あの恐いオジサンは一緒じゃないの?」


 唯美の物言いに木場は苦笑した。彼女にかかれば、鬼の警部も“恐いオジサン”で一括りにされてしまうらしい。


「調べることがたくさんあるから、手分けして聞き込みをしてるんだ。それで、ま……唯佳ちゃんにももう一度話を聞かせてほしいんだけど、いいかな?」


「うん、いいよ! あ、じゃあこの部屋使う? 委員長も貴弘も帰っちゃったし、誰もいないからちょうどいいかも。ね、刑事さん、いいでしょ?」


 唯佳が部屋の前に立っていた警官に話しかけた。警官は黙って木場の方を見た。その目が「早くこいつを追い払え」と語っている。


「えーと……いや、そっちの空いてる教室を使わせてもらおう。この階は捜査には使ってないみたいだし、邪魔にはならないと思う」


「あ、そうなの? ユイはどっちでもオッケーだよ!」


 唯佳があっけらかんと言って親指と人差し指で丸を作る。その横で警官が安堵したように息をつくのが見えた。


 


 木場が借りた教室は2年1組。さっき事情聴取をしたのと同じ教室だ。すでに現場の捜査は済んだのか、上階から聞こえる警官の足音も少なくなっている。


 窓際にある、一番前の席の椅子に唯佳を座らせ、木場もその向かいに腰かけた。どう話を切り出そうか迷ったが、ここは単刀直入に尋ねることにした。


「えーと、実は児島さんの水筒のことなんだけど。唯佳ちゃんは、児島さんが1組に水筒を忘れてからは水筒を見てないんだよね?」


 木場はそう切り出して唯佳の反応を観察した。敦子の言葉を全面的に信じたわけではないが、唯佳が意図的に水筒の件を隠していた可能性は否定できない。

 だが、木場の予想に反して、唯佳はあっさりと頷いて言った。


「ううん、そんなことないよ。ユイ、教室行った時に沙絢の水筒のこと思い出して、沙絢に返そうって思ってずっと持ってたんだ」


「あれ、そうなの? でも、さっき聞いた時は水筒のことは一言も……」


「言ってなかったっけ? ごめん、忘れてたかも。ユイ、水筒がそんなに大事って知らなかったし」


 あまりにもあっさりと認められ、木場は拍子抜けして唯佳を見つめた。本当に忘れていただけなのだろうか? 水筒に毒が混入されていたことは警察関係者しか知らない。だから、唯佳が水筒のことを重要だと思わなかったとしても不自然ではないが――。


「えーと……その水筒だけど、ずっと1組にあったのかな」木場が気を取り直して尋ねた。


「たぶんそうじゃない? ユイが教室行った時も沙絢の机ん中にあったし」


「でも、唯佳ちゃんは児島さんには会わなかったんだよね? 結局水筒はどうしたの?」


「うん。沙絢を待ってる時はずっと持ってたんだけど、沙絢が全然来ないからユイ、心配になっちゃって。何回か教室出て探しに行ったんだ。水筒は重いから置いてったよ。

 でも沙絢見つかんなくて。3回くらい探した後にもういいやってなっちゃって。そのまま帰ったんだ」


「えーと……つまり、水筒を置きっぱなしにして帰ったってこと?」


「うん。10分くらいしてから気づいたんだけど、明日も沙絢来るしいいかなって思って」


 木場は口元に手を当てて考え込んだ。唯佳は面談終了後に1組に行き、そこで沙絢の水筒を手にしていた。それが何を意味するのかーー。


 木場はいつになく難しい顔をして考え込んでいた。

 だから、唯佳がこっそりと立ち上がり、自分の方に近づいてきたのに気づいた時には、すでに目の前で大きく手を打ち鳴らされていた。


「うわっ!」


 木場は驚いて仰け反り、体勢を崩して椅子から落っこちた。木の床に勢いよく頭と背中を打ちつけ、痛みに涙が出そうになる。


「あっ、ごめんなさーい! ちょっとやり過ぎちゃった!」


 唯佳が胸の前で手を合わせて頭を下げた。木場が後頭部をさすりながら上体を起こす。


「な、何……? 唯佳ちゃん、今何したの?」


「木場さんが難しい顔してるから、ちょっとびっくりさせちゃおうと思って、顔の前で手叩いてみたの。でもさすがに椅子からこけるとは思わなくて。木場さん、けっこうドジなんだ?」唯佳がけろりと言った。


「うん……自分でもそう思う」


 木場が椅子に手を突いてよろよろと身体を起こした。まったく、女子高生に驚かされて椅子から転落するとは、ガマ警部が見たらまたため息をつかれるに違いない。


 緩慢な動作で床から立ち上がる木場を唯佳は面白がるような目で見つめていたが、不意に思いついたように尋ねてきた。


「ね、木場さんってさ、全然刑事っぽくないよね?」


「うん、警察署内を歩いてても、1日1回は一般人と見間違われるよ」


「ふーん。じゃ、そんな刑事っぽくない木場さんに、ユイ、ちょっと相談してもいい?」


「相談? いいけど、どんなこと? 恋愛相談だったら他を当たった方が……」


「もー、違うよ。もっと真面目な話だよー!」唯佳がむくれて頬を膨らませた。


「真面目な話って言うと……進路とか?」


「そう! ユイ、今3年生でしょ。こう見えていろいろ悩んでるんだ」


 悩んでいるという割にその口調はあっけらかんとしたものだ。さほど重大な相談というわけでもないのだろう。木場は少し考えてから答えた。


「そうなんだ。どんなこと? 自分でよければ話くらいは聞くよ」


「よかった! 木場さんならそう言ってくれると思ってた!」


 唯佳がはしゃいだように手を打ち鳴らした。この子は自分を何だと思っているのだろう。少なくとも、刑事と思われていないことは確かだ。


「あのね、ユイ、保母さんになりたいんだ」


「保母さん? へぇ、いいね。唯佳ちゃんなら子どもからも好かれそうだ」


 木場が心から言った。子どもと一緒になってはしゃぐ唯佳の姿が容易に想像できる。


「うん。ただね、保母さんなろうと思ったら学校行かないといけないんだよ。でも大学とか専門学校とかって授業料超高いから、どうしよっかなって迷ってるんだ」


 意外と真面目な話が飛び出してきたことに木場は面食らった。だが話を聞くと言った手前、何かアドバイスをしないわけにはいかないだろう。


「学費か……。確かに高いよね。でも奨学金が使えるんじゃない? 自分もそれで大学に行ったし」


「そうなんだ? でも、お金の問題だけじゃないんだよ。ほら、ユイバカだから、受験しても受かんないかなとか考えちゃって」


「それは……志望先の大学にもよるんじゃない? 保母さんの学校のことはよくわからないけど、何校か受けたらどこか引っかかるんじゃないのかな?」


「うーん、そうなのかな。でも、受験するのもお金かかるんだよね? ユイの家、シングルマザーだからあんまりお金ないんだよ」


 今度は家庭の話まで出てきた。もはや『ちょっと相談』のレベルではない。


「うーん……難しい問題だね。お母さんには相談したの?」


「ううん、まだ。お母さん夜に仕事してるから、ユイとすれ違いなんだよ。だからあんま話する時間なくて」


「でも、進路のことなんて大事なことなんだし、ちゃんと話した方がいいんじゃない?」


「そうだけど……お母さん、ユイが卒業したら働くって思ってるっぽいんだよね。だから何か言い出しにくくって」


 なるほど、ようやく話が見えてきた。唯佳は保母さんを目指してはいるが、受験料や学費のことで遠慮して母親に言い出せずにいるのだ。なぜそんな大事な話を自分に、という思いは相変わらず拭えなかったが、話を聞くと言った手前、木場は何とかアドバイスを考えようとした。


「お母さんは応援してくれるんじゃない? 自分の子どもに夢があるんなら、叶えてやりたいって思うのが親だと思うよ」


「うーん、そうかなぁ……」


 唯佳はなおも気が進まない様子でいる。自分の進路が母親の負担になることを考え、決心がつかずにいるのかもしれない。


「でも、何でその話を自分に? 野中先生の面談で相談しなかったの?」


「うん、ユイはしたかったんだけどね。沙絢が止めとけって言ったんだ」


「児島さんが? どうして?」


「わかんない。沙絢、先生のことあんまり好きじゃないみたい。ギゼンシャ? みたいに見えるんだって」


 偽善者、また唯佳には似つかわしくない言葉だ。だが、沙絢が野中をそんな風に思っていたという事実は気になった。物腰柔らかで、常に生徒のことを気にかけて、そんな教師の鑑のような野中の内側に沙絢は何を見出していたのだろう。


「もー、木場さんてば、また難しい顔してる。ダメだよ、今はユイがお悩み相談中なんだから!」


 木場が自分の世界に埋没してしまったことに気づいたのか、唯佳が不満げな声を上げた。


「あ、ごめん。でも、自分も保母さんのことなんて全然詳しくないし、あんまりアドバイスできることがないよ?」


「うーん。じゃ、代わりに木場さんのこと教えてよ」


「え、自分?」


「うん。木場さんは何で刑事になったの? ドラマ見て憧れたと? お父さんが刑事だったとか?」


「いや……どっちも違うけど。それ、唯佳ちゃんの進路に関係ある?」


「ないけど、気になるもん。木場さん、全然刑事に向いてなさそうなのに、何でわざわざ刑事になったのかなーって」


 痛いところを突かれ、木場は思わず顔をしかめた。唯佳に悪気はないのだろうが、槍で心臓を一突きされた気分だった。


「えーと……そこそこ長い話になるんだけど、本当に聞きたい?」


「うん、聞きたい!」


 唯佳がぴょこんと木場の方に向き直る。正直気が進まなかったが、目をきらきらさせて自分を見つめている唯佳を前にすると、適当にあしらうことは憚られた。

 木場は頭を掻くと、記憶を辿ってぽつりぽつりと話し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る