奪われた青春
2階分の階段を上り、2人は現場である3年1組の前に到着した。付近には黄色いテープが張られ、鑑識がせわしなく行き交っては、写真を撮ったり指紋を採取したりしている。
何十人もいる捜査員の中から、木場は例の人物を探し出そうと辺りを見回した。いつもいち早く事件現場に駆けつけているあの人物。事件の全体像を把握するには彼から話を聞くのが手っ取り早い。
目的としていた人物はすぐに見つかった。トレードマークの黒縁眼鏡をかけ、白いワイシャツの上に、赤地に白の水玉のネクタイを巻きつけている。刑事にしては派手なネクタイの色と柄を見て木場は頭を捻った。あのネクタイの趣味はどうなんだろう。お洒落な人なら様になりそうだけど、あの人がやると漫才師みたいに見えるな。
そんなどうでもいいことを木場が考えていると、ネクタイの人物がこちらに気づき、ぴんと背筋を伸ばして近づいてきた。
「警部殿! ご苦労様であります! それに木場巡査殿も!」ネクタイの男が敬礼しながら言った。
「渕川、『ご苦労』は部下に使う言葉だ。お前はいつから俺の上司になったんだ?」ガマ警部が冷ややかに言った。
「め……滅相もない! ほんの言葉の綾であります!」
渕川と呼ばれた刑事が慌てふためいた。
彼の名は
「それで、渕川さん。今回はどんな事件なんですか?」
木場が口を挟んだ。木場とガマ警部が現場に行った際には、まず渕川から情報収集をすることが恒例になっていた。渕川も心得ているのか、ぴしっと敬礼をして説明を始めた。
「はっ! 殺害されたのは、3年1組の
「被害者の死因は?」ガマ警部が尋ねた。
「毒殺のようです。体内からシアン化カリウムの成分が検出されました」
「シアン化カリウム?」木場が首を傾げた。
「俗にいう青酸カリですね。化学実験室で保管してあったものを使用したようです」
「青酸カリって……そんな猛毒が学校にあっていいんですか?」
「普段は化学実験室にある薬品棚に鍵をかけ、厳重に管理されていたようです。ただ……その鍵が3日前から紛失していたようで」
「え、それってつまり、誰でも青酸カリを持ち出せたってことですか?」
「そのようです。薬品棚の鍵は実験室の鍵とセットになっていて、化学教師が管理していました。紛失届は3日前に提出したとのことですが、事務員の夏休み等が重なって処理が遅れ、上まで報告が上がっていなかったようです」
「つまり、この3日間は誰でも自由に実験室に出入り出来たというわけか。まったく……この学校の管理体制はどうなっとるんだ?」
ガマ警部が忌々しそうに言った。その対応の杜撰さには木場も眉を顰めるしかない。
「それで、毒の混入方法は?」ガマ警部が気を取り直すように尋ねた。
「はっ! 被害者が所持していた水筒のお茶から、青酸カリの成分が10グラム検出されました。このお茶を飲んで死亡したとみて間違いなさそうです。あ、水筒に毒が混入されていたことは内密に願いますよ。警察関係者しか知りませんので」
「わかった。それで、死体はこの教室で発見されたのか?」
「そのようです。教室の鍵は開いていたとのことでした。どうも施錠を忘れていたようですね」
「死亡推定時刻はいつなんですか?」木場が割り込んだ。
「死後硬直がかなり進んでいましたから、昨日死亡したものと見て間違いなさそうです。被害者は昨日の午前中、補習を受けるために学校に来ていました。その後、午後から担任の面談を受けましたが、以降の行動は判明していません」
「つまり、死亡推定時刻は昨日の午後ということだな。他に何か情報は?」ガマ警部が尋ねた。
「はっ! 昨日補習を受けていた生徒の中には、被害者と関係の深い生徒が数名おりました。また、今朝死体を発見した生徒も被害者と同じクラスでした。全員進路指導室で待機させておりますが、話をお聞きになりますか?」
「そうだな。後はその、被害者と面談をした担任にも話を聞いてみたい。担任はどこにいる?」
「はっ! 実はその担任というのが先ほど申しました化学教師でして、今、化学実験室の捜査に立ち会っているところです。実験室に行けば会えると思います」
「そうか、それだけわかればいい。"ご苦労"だったな、渕川」
「はっ! 光栄であります!」
渕川が鼻の穴を膨らませて敬礼をした。木場は今聞いた情報をメモに書きなぐった。
[木場の捜査メモ]
・被害者 児島沙絢。3年1組の生徒。
・死因 毒殺。被害者の水筒のお茶に青酸カリ10グラムが混入されていた。毒は化学実験室から持ち出された。実験室の鍵は3日前から紛失していた。
・死亡推定時刻 7月30日の午後。
・死体発見現場 3年1組の教室。
・死体発見時刻 7月31日9時頃。
・第一発見者 被害者と同じクラスの生徒。
その時、教室の扉が勢いよく空き、中から担架を持った警官がどやどやと出てきた。担架の上には白い布をかけられたものが横たわっている。検死を終えた死体を運び出すところなのだろう。担架を運ぶ警官達は一様に陰鬱な表情をしている。
「……あの!」
自分でも意識しないうちに木場は叫んでいた。警官達が足を止めてこちらを見やる。
「それ……被害者の子の死体ですよね。ちょっと見せてもらってもいいですか」
ガマ警部がちらりと木場を見やった。警官達が怪訝そうに顔をしかめる。
「自分、まだ写真でしか死体を見たことがないんです。正直抵抗ありますけど……今回は見ておかなきゃダメな気がするんです。ほんの一瞬でいいので、お願いします!」
木場が勢いよく頭を下げた。警官達は困惑した様子で顔を見合わせている。
「俺からも頼む。後学のためにも、殺人事件の生々しさを教えてやってくれ」
ガマ警部が口を挟んだ。警官達は再び顔を見合わせたが、やがて担架を床に置いた。次いで左右の廊下に並んで立ち、周囲から見えないよう壁を作る。
「あ……ありがとうございます!」木場が叫んだ。
「喜んでいる暇があったらさっさと確認を済ませろ。いつ野次馬が押しかけてくるかもわからんからな」
ガマ警部に釘を刺され、木場は慌てて指示に従った。死体の元に屈みこみ、3秒ほど合掌してからそっと顔にかけられた布を取る。
次の瞬間、瞳孔の開いた瞳が視界に飛び込んできて木場は大きくのけぞった。初めて見る生の死体を前に、身体中から汗が噴き出すような気がしたが、木場は必死に震えを抑えて死体を観察しようとした。マスカラを塗った二重の目は驚愕に見開かれ、ニキビ1つない顔は蒼白になって歪められ、リップグロスを塗った口元からは舌が不格好にはみ出している。生きていればさぞ可愛かったであろうその少女の無残な姿は、自分が体現することになった不条理を必死に訴えているように見えた。
少女が死の間際に受けた苦悶を再体験するように木場は顔を歪めた。もちろんそんな顔をしたところで、彼女の受けた壮絶な苦しみの一欠片でも理解できるはずがない。でも、少なくともその少女の姿は木場に決意を抱かせた。こんなにも若くして命を奪われることになった、彼女の無念を晴らさないわけにはいかない。
「……もういいです。ありがとうございました」
木場は呟くように言うと、少女の顔に白い布をかけ直した。警官達はくるりと向きを変えて担架の傍に屈み込むと、素早くそれを持ち上げて廊下の奥へと駆けていった。後に残されたのは項垂れた木場と、その傍らに仁王立ちするガマ警部、それに渕川の3人だけだ。
「ふん、珍しいこともあるもんだな。死体の写真を見てはげえげえ吐いてばかりいたお前が、自分から生の死体を見たいと言い出すとはな」ガマ警部が意外そうに言った。
「……そうですね。正直、見なきゃよかったって気持ちもあります。でも自分、ここであの子の死体を見ておかなかったら、一生被害者の死と向き合えないような気がして……。特に今回の被害者は高校生ですから、余計にこう、感情が入っちゃってるのかもしれません」
高校3年生と言えば17歳か18歳。まだまだ人生を楽しみたい盛りで、やりたいこともたくさんあっただろう。それを突然奪われた不条理が、木場にいつにない憤りを感じさせているのかもしれなかった。
「ふん、いつも言っているが、捜査に私情を挟むのは禁物だ。被害者に同情するのは勝手だが、感情に捕らわれて目的を見失うなよ」
「……わかってます。自分、今回はいつもと違いますから」
木場がそう言って立ち上がった。闘志を燃やしたその目は確かにいつもとは違って見える。ガマ警部は少しだけ感心して息を漏らした。一見何の進歩もないようで、こいつも少しは成長しているのかもしれないな。
「よし、さっそく関係者に話を聞きに行きましょう! 進路指導室でしたね!」
木場は気合いを入れるように言い、猛然と身体を回転させて来た道を引き返そうとした。が、すかさず渕川に呼び止められた。
「あ、進路指導室なら東側の階段から行った方が早いですよ。ここの真上ですから」
木場は一瞬固まったが、すぐに振り返って気まずそうな笑みを浮かべると、再び猛然と身体を回して東側の階段を駆け上がっていった。
ガマが額に手を当ててため息をつく。前言撤回、やはり木場は木場のままだ。
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