紡がれし絆

 唯佳が待ち合わせに指定してきたのは2年1組の教室だった。敦子や貴弘から事情聴取をし、唯佳の進路相談に乗った場所。偶然にも何度も足を運ぶことになり、木場は不思議とこの場所に懐かしさを覚え始めていた。

 教室の扉は閉じられていた。木場が引き戸を開けると、中にいた生徒3人が一斉に振り返った。唯佳に貴弘、そして敦子だ。


「あれ、的場君に古賀さんまで……。どうしたの?」


 木場がきょとんとして3人の間で視線を左右させた。個別には事情聴取をしたとは言え、見た目も性格もバラバラな3人が並んでいる姿は何だか奇妙に思える。


「あのね、ユイが今日木場さんに会うって言ったら、貴弘と委員長も会いたいって言ったんだよ!」


 唯佳が両手を合わせながら言った。健康的につやつやと光る肌、ぱっちりとした目元、愛らしい頬を彩るオレンジ色のチーク、ふんわりと巻かれた髪、いずれも初めて会った時の唯佳と同じものだ。少なくとも外見上は普段の姿を取り戻したようで、木場は少し安心する。


「そうなの? でも2人ともまだ夏休みなのに、わざわざ来てもらっちゃって申し訳ないな」


「まぁ……アンタのおかげで唯佳は助かったわけだし、一応、挨拶くらいしといてもいいかと思って」


「私も同じです。刑事さんにはいろいろとお世話になりましたから、一言、お礼を申し上げておきたいと思いまして」


 貴弘がばつが悪そうに後頭部を掻いて言い、敦子が眼鏡を吊り上げてそれに続く。木場はそこで改めて敦子の方を見たが、ふと、彼女の姿がいつもと違っている印象を受けた。


「……どうかされましたか? 私の顔に汚れでもついているのでしょうか?」


 木場がまじまじと見つめているからか、敦子が訝しげに目を細めて尋ねてきた。木場が取りなすように慌てて首と手を振る。


「あ、ごめん。古賀さん、何かいつもと違うなーと思って。ちょっと雰囲気が変わったっていうか……」


「あ、それ、髪形変えたからじゃない?」唯佳が口を挟んだ。「ほら、委員長っていっつも髪の毛ぎゅっ! って縛ってるけど、最近違うんだよ。イメチェン? みたいな」


 言われてみれば、事件当時の敦子は髪をひっ詰めていたが、今日はハーフアップスタイルにしている。それで以前よりも印象が柔らかくなったのだろう。


「へぇ、髪型1つで変わるものなんだね。でもよく似合ってるよ」


 木場は心から言ったが、敦子はかえって居心地が悪そうに眼鏡の縁をいじくった。腕組みをして木場から視線を外し、少しためらう素振りを見せてから続ける。


「……刑事さんに言われたこと、私なりに考えてみたんです。委員長としてのイメージを払拭するにはどうすればいいのだろうと。考えた結果、まずは形から入るのがいいだろうという結論に至りまして、一番手近な箇所に手を入れてみた次第です」


 堅苦しい口調は相変わらずだが、その発想は何ともいじらしい。木場は思わず相好を崩したのを見て、敦子がますます居心地悪そうに頻りに眼鏡の位置を直した。


「いっそ眼鏡もコンタクトにしちゃえば? ギャップですごいモテたりして」唯佳が茶化すように言った。


「その意見には同意いたしかねますね。これは私の一部のようなものですし、人相が判別できなくなってしまいますから」


 敦子がばっさりと切り捨てる。眼鏡には相当なこだわりを持っているようだ。渕川と引き合わせれば、何時間にもわたって眼鏡トークを繰り広げるかもしれない。


「改めまして、刑事さん、この度は本当にありがとうございました」敦子が深々と頭を下げた。「私……刑事さんのおかげで、いろいろと吹っ切れたような気がします」


 敦子の礼儀正しい態度は相変わらずだが、初めて会った時のような取り澄ました様子は見られない。見た目だけでなく、内面も少し変わったのかもしれないと木場は思った。


「うん、自分も偉そうにアドバイスしちゃったけど、古賀さんがそれで楽になったのならよかった。自分、古賀さんの真面目さっていうか、学級委員長として1人で頑張ってきたとこは本当にすごいと思ってる。そういう古賀さんのいいところは、これからも大切にしていってほしいな」


「ええ……ただこれからは、何かにつけて学級委員長という言葉を持ち出すのは止めにするつもりです。イメージに捕らわれていても何1ついいことはありませんし……私を認めてくださった野中先生も、もういらっしゃいませんからね」


 敦子がふっと寂しげな表情を浮かべる。学級委員長として煙たがられていた敦子にとって、野中は唯一の味方であり、クラスを良くするために共闘する存在だった。その野中が殺人犯だと知り、彼女の受けたショックは計り知れないだろう。


「……古賀さんは、野中先生のことを慕っていたんだもんね。でも、野中先生が犯罪者だったからって、古賀さんの存在まで否定されるわけじゃない。古賀さんがクラスを良くするために頑張ってきたことは、何も間違ってないよ」


「そうでしょうか……」


 木場の慰めを受けても敦子の心は晴れないようで、頬に手を当てて憂鬱そうにため息をついた。信頼していた野中に裏切られ、心の拠り所を失ったように感じているのかもしれない。


「あのさ、委員長。ちょっと言ってもいい?」


 口を挟んだのは唯佳だった。敦子が怪訝そうに唯佳の方を見やる。


「委員長はひょっとしたら、ユイや沙絢のこと嫌いだったかもしんないけど、ユイは委員長のこと嫌いじゃないよ? 掃除当番とか、センセーのお手伝いとか、めんどくさいこと委員長全部やってくれるし、そういうのみんな嬉しいんじゃない?」


 唯佳がいつになく真面目な顔で言う。敦子は呆気に取られて唯佳を見返していたが、すぐに咳払いをすると憮然として腰に手を当てた。


「……そう言ってくださるのはありがたいですが、掃除当番は自分でしてください。あなたや児島さんが何度もサボるから、私は自分の時間を削って……」


「あーごめんごめん。つい忘れちゃって。今度からはちゃんとやるから」


 唯佳がえへへ、と言って自分の頭を小突く。敦子は呆れ顔でため息をついたが、その表情には安堵が浮かんでいるように見えた。


「……じゃ、俺も便乗して言っとこうかな」


 机に腰かけ、静観を決め込んでいた貴弘がそこでのっそりと腰を上げた。ポケットから手を出し、改まった様子で木場に向き直る。


「俺、最初にアンタに会った時、こんな奴にホントに刑事が務まんのかよって思ってたんだ。背もちいせぇし、頼りなさそうだしさ。でも……アンタがもっかい学校に来て、唯佳を信じたいって言った時、俺、ちょっとアンタのこと見直したんだ。

 アンタは他の刑事とは違う。本気で唯佳のこと助けようとしてくれるんだってわかって、俺、アンタに懸けてみたい気持ちになった。俺……この事件を担当したのがアンタでよかったって思ってる。だから……その」


 貴弘がそこで言い淀んだ。こめかみを掻き、気恥ずかしそうな表情を浮かべた後、ほとんど聞こえないくらいの小さな声で呟いた。


「……ありがとな。唯佳のこと、助けてくれてさ」


 柄にもなく感謝の言葉を口にした貴弘の姿を、木場は目を丸くして見返した。あの捻くれ者の彼がこんな素直な態度を取るなんて、地球上の誰が想像できただろう。


「えー、貴弘どうしたの!? お礼言うなんて珍しい!」


「今晩は雨が降るかもしれませんね。私、傘を持ってきていたかしら?」


 唯佳も相当驚いたのか、口に両手を当てて仰天した声を上げる。敦子にまで真顔で同意され、貴弘は不機嫌そうに2人を見やった。


「……お前らなぁ、俺を何だと思ってんだよ」


 3人のやり取りを見ているうちに可笑しさが込み上げてきて、気がつくと木場は笑みを漏らしていた。一見するとバラバラな3人だが、この様子だと意外といい友達になれそうだ。


「ね、木場さん。今回、ホントありがとね。ユイ、木場さんに助けてもらったこと、一生忘れないから!」


 唯佳が明るい口調で言った。初めて会った時と同じ、眩しいほどの笑顔。だがその笑顔の裏に、どれほどの悲しみが押し隠されていたかを木場は知っている。


「……唯佳ちゃん、本当に大丈夫?」


 思いがけず心配そうに尋ねられ、唯佳がきょとんとして木場を見返した。木場は神妙な顔になって続けた。


「唯佳ちゃんが児島さんとの約束を守って、ずっと笑顔でいたこと……。それは本当に偉いと思う。でもさ……唯佳ちゃん。悲しい時は素直に悲しがっていいし、泣きたい時は素直に泣いていいんだよ」


 唯佳はまじまじと木場を見つめた。そのまま床に視線を落とし、何かを考える表情になる。会話の途切れた教室は静寂に包まれ、自らの存在を主張するような蝉の鳴き声だけが空白の時間を埋めていく。


「……ホントはね、今も悲しいんだよ」


 やがて唯佳がぽつりと言った。床に視線を落としたまま、どこか虚ろな表情で続ける。


「センセーが犯人だって聞いて……ユイ、すっごくショックだった。ユイ、センセーの言うことあんまり聞かなかったけど、センセーのこと、けっこう好きだったから……。

 いっぱい泣いたよ。やっと泣き止んだって思っても、すぐまた涙出てきて……。沙絢もいないし……ユイはこうやってずっと泣いたまま、1人で生きてかなきゃいけないんだって思ってた」


 木場は眉を下げて頷いた。沙絢を失った哀しみが、野中に裏切られた痛みが、真っ白なハンカチのようだった唯佳の心を黒く染め上げていく光景が目に浮かぶ。


「でもね……ユイが1人で泣いてたら、貴弘から電話かかってきたんだ。貴弘、自分から電話くれるの初めてだったんだけど、ユイのこと心配してくれてたみたいで、大丈夫かって聞いてくれたんだ。ユイ……それ聞いてちょっと安心しちゃって」


 木場は思わず貴弘の方を見た。貴弘がポケットに両手を突っ込み、ばつが悪そうな顔で視線を背ける。


「それとね。お母さんもちょっと変わったんだよ。ユイが1人で家にいるの心配して、パートの日減らしてくれたんだ。ユイは最初いいって言ったんだけど……正直、お母さんが家にいてくれてホッとした。

 お母さんといるの久しぶりだったから、ユイ、いろんな話したんだよ。保母さんになりたいって話したら、お母さん、びっくりしてたけど喜んでくれて。頑張って早く元気にならなきゃって言ってくれた。ユイ……それ聞いて嬉しかった。みんなユイのこと……見守ってくれてるんだって思えたから……」


 唯佳の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。だが、唯佳はそれをそっと拭うと、精一杯の笑顔を作って言った。


「沙絢がいなくなったことは、今もずっと寂しいよ。でもユイ、立ち止まっちゃいけないって思ったんだ。みんながユイのこと支えてくれたんだから、ユイも頑張らなきゃいけないって。沙絢だって、ユイがいつまでもめそめそしてるより、笑ってほしいって思うはずだもん。

 だからね、ユイはもう平気なんだ。ユイは1人じゃないってわかったから……」


「唯佳ちゃん……」


 少し無理をしたような、それでも悲しみを断ち切ろうとする笑顔。そんな唯佳の笑顔を前にし、木場はじんわりと視界が滲むのを感じた。

 この子は何て強いんだろう。野中の悪意によって親友を、そして未来を奪われそうになりながらも、それに屈することなく立ち上がり、再び前に進もうとしている。

 それが若さゆえの逞しさなのか、それとも唯佳自身の気丈さなのかはわからない。ただ1つ確かなのは、彼女はもう打ち萎れた花ではないということだ。


「あら、松永さんが保育士を志望されているとは存じ上げませんでした」敦子が口を挟んできた。「ですが、確か高校卒業の学歴では保育士試験は受けられなかったはずですが?」


「うん、だからね、大学か専門学校行こうと思って。学費は奨学金使えるからいいんだけど、問題は試験なんだよねー。ユイ、全然勉強してこなかったから受かる自信なくて」


「そうですか。でしたら、私が勉強を教えて差し上げましょうか?」


「え、ホント!?」唯佳がぱっと顔を明るくした。


「ええ、学級委員長として……と言いたいところですが、今回は個人的に、です。松永さんには、いろいろと不快な思いをさせてしまいましたからね」


 何の話をされているかわからないのか、唯佳はきょとんとして敦子を見返した。だが木場には、敦子の気持ちがわかる気がした。敦子はきっと、唯佳を犯人として疑い、彼女に不利な証言をしたことに責任を感じているのだろう。勉強を教えるのは、その罪滅ぼしのつもりなのだ。


「ふーん? なんかよくわかんないけど、委員長が教えてくれるんだったらユイも勉強頑張る!」唯佳がガッツポーズをした。「あ、そうだ、委員長って呼び方なんか他人ギョーギだし、これからあっちゃんって呼んでいい?」


「あ、あっちゃんですか……。それはいささか親しみが過ぎているのでは……」


 文字通り諸手を上げて喜ぶ唯佳と、当惑した表情の敦子。事件を通して結びついた2人のやり取りを、木場は微笑ましそうに見つめた。


「唯佳ちゃん、頑張ってね。あ、でも無理はしちゃダメだよ?」


「うん、大丈夫! もし保母さんになれなかったら、ユイ、木場さんのお嫁さんになってあげるから!」


 いきなりそんな宣言をされ、木場は思わずずっこけそうになった。机に腰かけていた貴弘が机から落ちかけるのが見えた。


「唯佳、お前何言ってんだよ? 相手はオッサ……いや、刑事だぞ?」


 体勢を立て直した貴弘が唯佳に詰め寄ってきた。顔に焦りが浮かんでいるのがおかしい。


「だってホントに思ってるんだもん。木場さんはユイのこと助けてくれた、カッコいい刑事さんなんだから!」


 カッコいい刑事さん、その言葉に木場は背中がむず痒くなった。日常的に刑事らしくないと言われ続け、へまをやらかしてはガマ警部に叱られ、自信のなさに打ちのめられそうになった日々。そんな苦悩の日々も、その言葉だけで一瞬で報われたように感じられた。

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