裏切られても
警察に連行された唯佳は、直ちに身体検査と事情聴取を受けることになった。その結果、行方不明となっていた化学実験室の鍵が彼女の鞄から発見され、彼女への疑いは一気に強まることになった。
刑事達は唯佳を厳しく追及したが、彼女は決して罪を認めず、青酸カリの指紋も鍵も全く知らないと言い張った。それでも決定的な証拠を2つも前にしては疑惑の目を逸らすことはできず、急遽逮捕状が請求された。請求は直ちに認められ、唯佳はそのまま留置場で勾留されることになった。
唯佳の逮捕の知らせを受け、木場が受けたショックは計り知れなかった。つい直前まで進路の相談に乗り、自分の過去を打ち明けた相手が殺人容疑で逮捕されたのだ。彼女のあの無邪気な態度は、やはり演技だったのだろうか? 保母さんになりたいと語ったことも、自分の昔話に感動したと言ってくれたことも、全ては自分を懐柔するための策に過ぎなかったのだろうか? 木場は彼女の言動を思い返しては真意を探ろうとしたが、結局演技だったかどうかはわからずじまいだった。
改めて唯佳と話をするべく、木場は唯佳の取り調べを志願した。だが、被疑者と距離が近すぎるという理由で要望は聞き入れられなかった。唯佳を名前で呼んでいたことや、教室で個人的な話をしていたことが他の捜査員にも知られていたのかもしれない。同時に現場での捜査からも外され、木場には署内での書類仕事が命じられることになった。
唯佳が逮捕された2日後、暦は8月に入り、外の暑さはますます苛烈なものになっていた。古い庁舎内はクーラーの効きが悪く、署内の捜査員たちは額に汗玉を浮かべ、団扇でなけなしの冷風を起こしながら手元の書類に目を落としている。
熱気と停滞した空気が漂う署内で、木場は自分のデスクに座り、パソコンの画面を見やりながら頬杖を突いていた。画面には何も入力されていない報告書のフォーマットが表示されている。この報告書は今日が提出期限で、1時間前から取りかかっているのだが作成は全く進んでいなかった。早く進めなければ自分の首を締めるだけだとわかっているのに、つい唯佳のことが頭に浮かんでしまい、作業が手につかずにいた。
木場は15分に1度は立ち上がっては、トイレに行く振りをしてこっそりと取り調べ室の前を通り、覗き窓から室内の様子を観察した。唯佳は男性警官3人とテーブルを挟んで指し向かいに座っている。警官が何かを言うたびに唯佳はびくりと肩を上げ、俯いて背中を丸めてしまっていた。声は聞こえずとも、厳しい追及を受けていることがわかる。数日前までの溌剌とした様子はすっかり失われ、萎れた花のように悄然としていた。
唯佳のそんな姿を見るたびに木場は胸が痛んだ。騙されていた可能性があることはわかっていたが、いざ唯佳の姿を見るとどうしても彼女を信じたい気持ちが湧いてきてしまっていた。
だけど、いずれにしても自分の力ではどうすることもできない。自分は今や捜査を外された身で、唯佳と話をすることもできないのだ。
木場は自分の無力さを恨んだ。あの老刑事のように颯爽と取調べ室に入り、鶴の一声で唯佳をこの薄暗くて埃っぽい部屋から連れ出せたらどんなによかっただろう。どれだけお人好しだと笑われようとも、木場は唯佳のことを助けてやりたかった。
相変わらず進まない報告書を前に木場はぼんやりとパソコンを眺めていた。報告書の中身よりも、画面下に表示された時刻の方が気になって仕方がない。さっき席を経ってからもうすぐ
15分になる。そろそろ本日5回目になる視察へ向かうことにしよう。
木場は周囲を窺い、誰も自分の方を見ていないことを確かめてから立ち上がった。足音を立てないようにつま先立ちになってこっそりと廊下へ向かう。だが、執務室を出て廊下を曲がろうとした時、曲がり角の向こうからのっそりと現れたガマ警部と危うくぶつかりそうになった。
「うわっ、ガマさん! 急にどうしたんですか?」木場が仰け反りながら声を上げた。
「どうしたもこうしたもあるか。さっきから見ていれば全然仕事が進んどらんじゃないか。そのくせ頻繁に席を立ちおって……」ガマ警部がじろりと木場を見やった。
「す、すみません。自分、最近トイレが近いもんで……」
「そんな言い訳が俺に通用すると思うのか? 大方、あの松永という娘の様子が気になって取り調べを見に行っていたんだろう?」
木場は叱られた子どものように項垂れた。ガマ警部には何でもお見通しというわけだ。
「すみません……。つい、気になっちゃって……。彼女、今どんな状況なんでしょう?」
「俺も直接立ち会ったわけじゃないが、全面的に否認しているようだな。だが、状況は決定的にあの娘に不利だ」
「それってやっぱり、瓶の指紋と、鍵の問題があったからですよね?」
「あぁ。野中が鍵を紛失した当日、松永は補習で学校に来ていた。それに事件当日、水筒を所持していたのも松永だ。状況からして、もっとも疑わしいと言わざるを得ない。このまま行けば夕方には送検されることになるだろうな」
「やっぱりそうですか……」
木場は肩を落としてため息をついた。唯佳が勾留されたのは一昨日の17時頃。警察が被疑者を勾留できるのは逮捕から48時間が経過するまでで、それを超える場合には、被疑者の身柄は検察官の元に移されることになる。そうなれば警察は手出しをすることはできない。
「木場、毎回言っていることだが、お前は1つの事件に肩入れし過ぎる。俺達の抱えてるヤマは他にもあるんだ。手を離れたヤマのことは忘れて目の前の仕事に集中しろ」
「……わかってます。でも自分、唯佳ちゃんが犯人とは正直信じられなくて……」
好みの服や男性のタイプが何から何まで同じで、沙絢と双子のようだったという唯佳。何かにつけて沙絢の名前を出し、彼女を心から慕っていたように見えた唯佳。そんな彼女が沙絢を毒殺したという事実が、木場にはどうしても受け入れられなかった。
「木場、特定の被疑者に肩入れするのはお前の悪い癖だ。お前はあの娘に懐かれていたようだが、それがあの娘の策略だった可能性は否定できんだろう? お前が付け入りやすい性格なのを利用して、わざと相談とやらを持ちかけたんじゃないのか? 捜査員を味方につけておけば、万が一逮捕されたとしても釈放される見込みがあると踏んでな」
「違いますよ! 唯佳ちゃんはそんな子じゃ……」
「お前はあの娘の何を知っている? たかだか数時間話をしたくらいで、相手の本性を見抜けるような千里眼がお前にあるのか?」
木場は黙り込んだ。悔しいがガマ警部の言う通りだ。確かに自分は唯佳のことを大して知っているわけではない。彼女のあの無邪気さが演技でないと断定できる証拠はどこにもないのだ。
「ともかく、これ以上取り調べ室に近づくのは禁止だ。さっさと自分の仕事に戻れ」
「……はい」
ガマ警部に促され、木場は落胆した顔で回れ右をした。現時点では唯佳の無実を示す証拠は何もない。あるのは自分の直感だけだが、そんなものは何の抗弁にもならない。
項垂れて席へと戻っていく木場をガマ警部はじっと見つめていたが、やがて独り言のように言った。
「……そう言えば、渕川の奴がさっき現場に行ったんだが、眼鏡を忘れていったようだな」
「眼鏡? いつもかけてる黒縁のやつですか?」木場が振り返った。
「あぁ。よほど急いでいたんだろうが、あれがなかったら奴も困るだろう。誰か届けに行く奴がいるといいんだが」
「本人に連絡すればいいんじゃないですか? 車で20分もあれば戻ってこれると思いますし」
木場がきょとんとした顔で答える。ガマ警部がいかにも不服そうに舌打ちをした。
「……眼鏡1つで現場の手を煩わせるまでもないだろう。木場、お前が届けに行ってやれ」
「え、自分ですか!?」
「15分ごとに仕事をサボっているくらいだからな。暇なんだろう? だったらちょうどいい。外の灼熱地獄で根性を叩き直してこい」
「いやでも、自分、今日中に作らないといけない報告書が……」
そこまで言ったところで、木場はようやくガマ警部の意図に思い当たった。信じられない思いでまじまじとガマ警部の顔を見返す。
ガマ警部はばつが悪そうに視線を逸らすと、ぼそりと言った。
「……いつまでも気もそぞろでいられては周りが迷惑だ。どうしても事件のことが気になるなら、徹底的に調べてこい」
「あ……ありがとうございます! ガマさん!」
木場が床に打ちつけんばかりの勢いで頭を下げる。だがガマ警部はますます顔をしかめた。
「大きな声を出すな。上に知られたら面倒なことになる。それと言っておくが、報告書の作成を免除したわけじゃないからな」
「大丈夫です! 必ず夕方までには戻りますから!」
木場は大きく頷いて言うと、砂煙が上がらんばかりの勢いで廊下を猛ダッシュしていった。すれ違った警官が何事かという顔でガマ警部の方を見たが、ガマ警部は無言で首を横に振っただけだった。
「……やれやれ、あいつの暴走に手を貸すことになるとは……俺も甘くなったもんだな」
警官が去った廊下でガマ警部はため息をつくと、溜まりに溜まった心労を解すようにこめかみを揉んだ。
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