第32話 深淵の魔物
こんな時だというのに、リリアサの気持ちは高ぶっていた。この世界に戻ってきて早々、こんなイベントが起こるなど、現世はなんと刺激的か。
もちろん、今が深刻な事態なのは理解していた。怪我人や、もしかしたら死人も出ているかもしれない。無責任に楽しむことなど、不謹慎極まりないのはわかっている。
しかしそれでも、千年あまりの乾いた時間を潤す刺激を感じてしまうのは止められなかった。
横を走る恭之介をちらりと見る
彼がリリアサを退屈な場所から救い出してくれた。今はそう思っている。
実際は、リリアサの対応のまずさからクビになったのだが、そんなものは気にしない。無視である。きっかけは間違いなく恭之介なのだ。
時空を斬って転生の間に現れるという、想像を絶するようなことをやってのけた男。
しかし、それだけの力を持ちながらも、その人となりは自らの力の使い道に悩む純朴な青年。ばしばしと興味惹かれてしまうに決まっている。
「リリアサさん、魔法上手ですね」
「そう?ありがとう」
思わず口元がゆるむ。
周囲に残っている魔物で、それほど強いものはいない。リリアサの攻撃魔法でも簡単に対応できる程度のものばかりで、このくらいなら並の魔法使いでも容易くこなすだろう。それでも恭之介に褒められるとうれしい。
少しずつミノタウロスに近づいていく。
恭之介の手前、余裕の態度を崩さずにいるが、正直近づくにつれ、恐怖は増してきていた。
深淵の魔物など、普通に生きていればまずお目にかかれない。
一部の高ランク冒険者が、特別な理由があって行くような極地にしかいないからだ。人里に現れたという記録など、これまでの歴史であるのだろうか。
何か尋常ではない事態が起こっている、そんな予感があった。
魔物が通常と違う動きをしている点に、少しばかり気にかかることもあり、リリアサの心はざわついていた。
しかしそれを調べるのは、ミノタウロスを倒したあとだ。まずは今日という日を乗り越えなければならない。
恭之介の強さを疑ってはいない。間違いなくこの世で最強の剣士の一角だ。
しかし、ミノタウロスもとてつもなく強い。Sランクの冒険者が屠られたという話もそう珍しい話ではない。
武芸にあまり詳しくないリリアサでは、両者の差を測ることはできなかった。
不安はある。しかし、恭之介を止める気もなかった。あの場で行かないという決断をするような男ではないとわかっていたからだ。
ちょっとそこまで、といった気楽さでミノタウロスに向かう。信じられないが、それがリリアサが惹かれた音鳴恭之介なのだ。
恭之介がミノタウロスに殺されれば、自分も死ぬ。
それを理解して、一緒に外へ出てきたのだ。
もっとも、恭之介が死んだら私も生きていられないなどという、少女じみた殊勝な考えからではない。
では何か。
実はリリアサ自身もよくわかっていなかった。この世界に送り出した責任から来るものだろうか。
理由はわからないが、とにかく近くで見守らなければならない、そう思っていた。
その結果が自らの死でも後悔はない。
確かに現世は楽しいが、元々が拾った命だ。もう一度死ぬことに何ら抵抗はない。
(近くで恭之介君の活躍を見たいっていうファンの心理かしらね)
自分の考えに思わず吹き出す。この緊急事態に何とのどかな考えなのか。
恭之介が怪訝そうにこちらを見てくる。
「さ、恭之介君、そろそろミノタウロスよ。心の準備はいい?」
仕切り直すかのように言う。
「はい、いつでも」
もうミノタウロスの身体の動きや瞳の輝きが視認できるところまで近づいた。
人間では決して到達できない肉体の境地。別の物のように盛り上がった筋肉が脈動している。
気を抜けば背を向けてしまいそうになる。魔物とは言うものの、普通の魔物とは明らかに一線を画す存在感だ。リリアサ自身もこれまで感じたことがない強者の風格。
思わず身体がぶるりと震える。
「大丈夫ですよ、リリアサさん」
リリアサの恐怖を感じたのか、恭之介が優しく声をかけてくる。
ばれてしまったことは少し恥ずかしくも思うが、恭之介にフォローされたのだから、そう悪いことばかりでもない。
「私はここまでね、後ろは私に任せて。がんばってね、恭之介君」
「ありがとうございます。助かります」
いつも通りののんびりとした声。おかげで、ざわついた心が落ち着きを取り戻す。
恭之介の後ろ姿を見送る。
全く気負いのない、頼もしい背中だ。
それを見て、大丈夫だろうという確信が生まれた。
=====
リリアサのおかげで、ミノタウロスのところまで一度も剣を振るうことなくたどり着けた。
今も彼女は後方でこちらに向かってくる魔物を止めてくれている。頼もしい人だ。
ミノタウロスの息遣い。落ち着いた一定の呼吸だ。身長は2m半くらいだろうか。これまで見てきた魔物と比べても、特別大きいわけじゃない。
しかし、圧倒的な重圧。そして粗暴で大きい力ではなく、強者が纏う均整のとれた力。魔物相手でこれまで感じたことのない雰囲気だった。
目が合う。ミノタウロスが大きく息を吸った。
大きな咆哮。
地面が揺れるような錯覚を覚える。
咆哮を終えると、こちらをじっと見据えてくる。恭之介のことを探っているのだ。そしてこちらもミノタウロスのことを探る。
強い。間違いなく、これまで出会った中で最強の部類に入る。
魔物相手に尋常な立ち合いができるとは。
思わず笑みがこぼれた。こんな時だと言うのに、気持ちが高ぶる。
恭之介は暮霞をゆっくりと構えた。
それと合わせるかのようにミノタウロスも斧を掲げる。腕がぴくりと動いた。
鋭い振り下ろし。
その一撃は後ろへ飛ぶことでかわした。
地面のえぐれ方で、ミノタウロスの力と斧の重さが図抜けているのがわかる。
その斧をまるで竹の棒を振るかのように操る。
後ろに下がった恭之介に対して追撃。
今度は横へかわす。
当然だが、刀で受けるようなことはできない。その瞬間、暮霞と自分は真っ二つになるだろう。
一撃の重さに加え、振りの速度も図抜けていた。
なんとか見切れる速さではある。しかし、一切の無駄がない振り。
力任せの攻撃ではなく、こちらの動きを予想し、技とともに繰り出す攻撃だ。
時折、斧を細かく使い、突きや柄での緻密な攻撃をしてくる。
軽い一撃とは言っても、人間にとっては致命傷だ。かわすことにも神経を使う。
動きの読み合い。
前後左右、次の攻撃を予測しながら、相手の攻撃をかわす。
防戦一方。
だが、レイチェルのおかげだ。こちらの動きは軽く、相手の動きもしっかり見えた。また地面をえぐることで飛んでくる石の礫が身体に当たっても痛みや影響はほとんどない。
ミノタウロスの攻勢は一旦止まり、再び向き合う形になる。
相手の息はまったく乱れていない。まだまだ余裕が感じられた。
しかし、見切った。
もう負ける気はしない。
恭之介は暮霞を中段に構える。少し息を吸い、そのまま息を止めた。
両足に意識を集める。前に出るための布石だ。
ミノタウロスの腕が動いた。鋭い横薙ぎ。
好機。
低い体勢で前に出る。斧をかいくぐる形でかわし、そのままミノタウロスの右に抜けた。
暮霞には確かな感触。
ミノタウロスの左太ももが、きれいに切断される。
片足が無くなったミノタウロスは前のめりに倒れ、手で身体を支えた。もう片方の手で斧を振るうが、先ほどの鋭さはもうない。
こうなってしまっては満足には戦えないだろう。
もはやミノタウロスは斧をがむしゃらに振ることしかできない。
良い立ち合いの決着は、いつも一瞬だ。
儚い。
「さらば」
自分の目の前の高さにあるミノタウロスの首を、伸び斬りではなく暮霞の刀身で斬った。
アーツとは違う、肉を斬る確かな手ごたえ。
武人に対する礼儀のつもりだった。
ごとっという首が落ちる音が、やけに大きく響いたように感じる。
わずかの間、ミノタウロスの死体を眺めていた。
魔物ではあるが、立ち合いは紛れもなく武人との戦いだった。久々の緊迫感と充実感。
恭之介は大きく息をつく。
周囲を見渡すと、残った魔物たちは方々へ逃げ始めていた。ミノタウロスがやられたことで、恐怖にかられたのだろうか。魔物にもそのくらいの本能はあると聞いている。
「さっすが!」
リリアサが手を叩きながらこちらへ近づいてくる。
「良かった……本当に良かった。怪我はない?」
微笑みながらも心配そうな様子を隠そうとしない。
「はい、どこも斬られていません。リリアサさんは?」
「良かった。私も大丈夫。でもさすが恭之介君ね。見てる限りだと、楽勝だったわ」
「楽勝……う~ん、どうでしょう。強かったですよ、ミノタウロス」
「そりゃそうよ。普通は凄腕の人たちが数人がかりで倒すような魔物だからね。あんな風に正面きって、一対一で倒すなんて普通あり得ないのよ」
「そうなんですね。でも久しぶりに張りのある立ち合いで、身が引き締まりました」
「いい鍛錬でした、みたいに言わないの」
歓声。
城壁にいる人たちも、ミノタウロスが倒れたことがわかったらしい。なんとなく、そちらへ手を振る。すると更に歓声が大きくなる。
「これで恭之介君は町のヒーローね」
「困りましたね」
ミノタウロスを倒しに行くときは、こうなることを何も考えていなかった。
「目立つの苦手だものね」
「はい。このまま身を隠したらどうなりますかね?」
「きっとあのワーレン支部長が全力で探索隊を出すでしょうね」
「そうですか、仕事を増やしてしまうのはさすがに申し訳ない」
「あははは、まぁ恭之介君はまぎれもなく町を救った英雄なんだし、胸を張って帰りましょう」
「う~ん、気が重いですね」
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