第34話

「警部はどうしてここへ?」

 メッセンジャーボーイの率直な疑問に、まず警部は答えた。

「靴磨き協会の少年たち、マードゥ・ウォードとトム・ボローから通報があった。彼らは今日アンソニー氏へのメッセージを託した〈頬髭の紳士〉と遭遇し追跡した。但し、ベルグレービア地区の住居まで尾行した後、一人を門前に残して見張らせ一人が僕に知らせに戻っている間に当人は馬車で何処かに出かけてしまったとのこと。だが充分に大手柄だよ!」

 その家こそホール医師の自邸だったのだ。

「それで、僕は再び警察馬車を走らせて一目散にここへやって来たというわけさ」

 キース・ビー警部は屈んで医師の死体をあらためた。きちんと剃られた頬を見て、

「やはり、頬髭はやはり付け髭だったのか。ん?」

 首筋の小さな穴を確認する。

「これは書斎でリチャード君を襲った正体不明の死体と同じ傷痕だ。では、あれもあなたが、エメット?」

「私の名はイザベル・グッドヴィル。エドワード・グッドヴィル夫人、旧姓はイザベル・ド・ブロワです」

「げっ」

 凍りつく警部。これは無理もない。夫人は立ち上がった。

「凶器はこれです。いつも身に着けていました」

 それは、腰に吊り下げたシャトレーン、その中の一つ、優雅な裁縫道具の小さな鋏だった。

「最初の騒動が起こったあの夜、物音を聞いて書斎に駆けつけると、男が息子の首を絞めていました。咄嗟に私は後ろから刺しました」

 死体を見つめながら警部が唸る。

「むむ、一撃で急所を突いた見事な腕だとホール医師自身が言っていたが……」

「私、たしなみとして娘時代にワインド調練を身に着けています」

 ワインド調練とはこの時代普及した貴族や富裕子女のための護身術である。主に棒や杖を操る――

「冊子を書棚に戻したのも私です。嘘をついて申し訳ございません。でも、ついた嘘はこれだけではありません。復讐が成し遂げられた以上、今こそ、全てをお話します」

 毅然と顎を上げイザベル・グッドヴィルは言った。

「これは長い長い物語です――」


「夫、エドワードの母君、先代奥方が亡くなってエドワードは悲しみを癒すためパリを訪れました。その地で私たちは出会い恋に落ちました。私は幸福な花嫁として海を渡り、その際、船上で知り合ったケネスも一緒にこの屋敷にやって来たのです。

 屋敷には同じ年頃のリジー・アッシャーがいて私たちはすぐに大の仲良しになりました。何の苦労も不幸も知らない黄金の日々……私たちは何て若かったんでしょう! 当時、私は16歳、リジーは15歳、ケネスは14歳でした」

 (リジーも同じことを言っていたな。)

 ヒューは思い出した。温かな台所でそれを聞いた時、元メイドが語っているのは彼女自身と料理人のことだと思ったのだが。若奥様・・・も含めての話だったのか……

「翌年、長男が生まれた時、夫は、将来爵位を継ぐ新しい命を間に挟んでグッドヴィル一族の詳細な来歴を私に話してくれました。そこには当然、栄華のみならず悪しき真実もありました。由緒ある貴族には必ずある負の遺産、呪わしい影の歴史です。また、古い伝承だけでなく新しい恐怖も含まれていました。それこそ、先代の奥方亡き後に始まった脅迫に関することでした」


 ―― 我が家は一族の歴史をネタに強請ゆすられている。父上を脅迫する輩がいるのだ。


「今にして思えば、その卑劣な人物こそ、このホール医師だったのです。でも当時は、いえ、今日まで脅迫者の正体はわからなかった。そのことが一層不気味で私たち家族は恐怖を募らせました」


 ―― イザベル、君は僕の最愛の妻であり嫡男の母である以上、全てを話しておくよ。


「この脅迫が始まったため、万一を憂慮して先代が隠した一族の〈宝〉の場所を夫は私に教えてくれました」

「それがここ、今僕が掘った日時計の示す場所なんだね?」

 一斉にさざめく兄弟。

「でも、母上、箱は空っぽだったよ、宝はなかったじゃないか!」

 若い母親は息子たちを愛おしげに見つめて頬を染めた。

「そのことをこれから話します。あなたたちを叱れないわ。私は馬鹿で浅はかな振る舞いをしてしまったの」

 イザベルは警部に視線を戻した。

「ふいに思いついて私は生まれた長男を連れて初めて里帰りをする際、宝を掘り起こしてこっそり持ち出したのです。宝が不吉の象徴のように思えてならなかった。こんなものが屋敷内にあるからいけない、誰も知らない遠いところにおいて来れば悩みは消えてしまう、そんな風に思ったんです。

 実際、その後何年も穏やかに時が過ぎました。内心私は、平穏な日々は私が宝を持ち去ったせいだと半ば本気で思っていました。呪われた宝を放逐して邪悪な魔法が解けたのだと。でもそれは間違いでした」

 段々声が細くなって行く。イザベルは一端口を閉ざした。再び話し始めた時、その声はしっとりと美しかった。

「次男が生まれた年でした。喜びもつかの間、先代の遺体が庭の池に浮かんだ朝、夫は私に明かしました。先代は脅迫者から私たち家族を守るために一人で盾になっていてくれたのだと。先代は脅迫者に一族の真の宝以外の宝――グッドヴィル家が所有する財宝を幾度も渡していたそうです。けれど脅迫者は引き下がらなかった。そして今、先代を殺めて標的を変えて来た。つまり、次の当主となった夫を脅し始めたのです。一族の秘密の暴露のみならず卑劣にも私の名を上げて、妻の身の安全を得たければ宝を渡せと。

 先代の屍骸を目の当たりにした夫は、取り敢えず私を安全な場所に避難させました。世間に失踪と告げたのは誰にも居場所を探らせないため、夫自身も居場所を知らないと脅迫者に思わせるためでした。そのために偽の埋葬までした――」

 イザベル・グッドヴィルは一気に言い切った。

「でも、私は二人の息子を持つ母です。長男はわんぱく盛り、次男はまだ乳飲み子、離れ離れになど暮らせませんわ。それで私は姿を変えてこっそり戻って来たのです。家庭教師ガヴァネスアイルサ・スカイとして」

「え」

 リチャードが息をのむ。

「あれは……母上だったの?」

「そうよ、騙してごめんなさい、リチャード。でも、どうしてもあなたたちの傍にいたかったの」

「このことを知っていたのは従者でもごく一部の者でした」

 ここでモルガンが一歩、進み出る。

「エドワード様、私、ウェルとケネス、そしてリジー・アッシャーです」

「僕は全然気づかなかった!」

「僕も!」

 割り込んだ弟に兄は苦笑して、

「いや、おまえは赤ん坊だったから」

 優しく頷いて兄弟に微笑んでからグッドヴィル夫人は先を続けた。

「この奇策は成功したように思えました。けれど、別の誤解を招く結果になってしまいました。かけがえのない大切な息子に父と母として最も不名誉な印象を与えてしまったのです。夫、エドワードは言いました。息子に父が妻以外の女性と恋仲だと思われたくはない。私も――本当は私自身なのですが――妻である私以外の誰かを夫が愛しているなどと息子の心に記憶されたくない。私は再び屋敷を去りました」

「そうか! 僕が見たのは父上と母上だったのか! だからあんなに幸せそうだったんだね? あまりに幸せそうで、だから、僕は……僕……」

 溢れる涙をグッと拳で拭って、少年は母に詫びた。

「ごめんなさい、母上。僕は酷い言葉をあなたに浴びせました」

「全て私がいけないのよ。余計な、辛い思いをさせて本当にごめんなさい、リチャード」

 詫び返す母。だがすぐに視線をキース・ビーに戻すと告白を再開した。

「でも、このことが結果的に夫を決断させたようです。屋敷を離れた私の元に夫は手紙をくれました。脅迫者の言われるまま従うのは辞めると」


 ―― 自分の家庭生活をこれ以上、破壊させるものか。僕は脅迫者に対峙して、はっきりと申し渡すつもりだ。一族の秘密を暴露すればいい。宝は渡さない。その上でなお強請り続けるなら警察に全てを明かす。


「夫の屍骸が池に浮かんだのは手紙をもらったすぐ後でした。私は時を移さず行動に出ました。姿の見えない脅迫者が次の交渉相手にするのは私、正妻であるイザベル・グッドヴィル夫人のはず。息子たちはまだ幼いですし、きっと脅迫者は、かつて夫に対して私を脅す材料にしたように、今度は息子たちの命を人質に、私が現れるのを待って交渉を求めて来るでしょう。ですから先を読んですぐさま私は屋敷に戻ったのです。幸いリジーが結婚を控えていたのでその後を引き継ぐ同郷出身のメイドとして」

 真っ青な空をイザベルは見上げた。

「どんなことをしても息子たちの命は守る決意でした」

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