第29話

 アシュレーの巧みな手綱さばきで馬車が快走する中、ヒューは訊いた。

「で、話ってなんなんだ?」

 御者台のアシュレーの横にヒューが、荷台の中に、猫の匂いなど気にしないエドガーが乗っている。これはいつかのロンドン近郊の水車小屋から街道を帰って来た時と同じ配置である。

「君たちが言っていた例の〈静かな溺死〉の件さ。ずっと引っかかっていたんだ、前にどこかで似たようなことを耳にした気がして。そして、思い出した」

「ハハァ、またアイルランド人お得意の、妖精の悪戯ってやつか?」

「今回の話に妖精は登場しない」

 真顔で宣言すると銀色の髪の青年は語り出した。

「ある日、僕の店に若い娘がやって来て殺鼠剤を買って帰って行った。別に珍しいことじゃないから気にも留めなかったが、翌日の早朝、男が怒鳴り込んで来た。『貴様、妹に何を売った? おまえから買った毒を飲んで自殺を図ったぞ!』

 僕は男に引き摺られて男の家へ行った」

「そして? どうなったのさ?」

 馬車の荷台の小窓越しにエドガーが訊く。アシュレーはチラとそちらを振り返ってため息をついた。

「こういうことは薬屋をやってると何度か経験せざるを得ないんだよ」

 鞭を軽く打って、先を続ける。

「僕が家へ入ると既に医者が呼ばれていて、娘は絶命していた。医者は僕に言った。

『何を売ったんだね? 警察に届けるために記しておかなければならないからね』

『殺鼠剤です』

 すると医者は言うんだ。

『やはりな。哀れなオフィーリヤ病か』

『恋に破れて自死したからそう言うんですね?』

 僕は最初、娘が失恋のせいで自殺したから医者はそう言ったのだと思ってこう訊いたんだ。だが医者は首を振った。

『違う。以前看取った、殺鼠剤を飲んで死んだ人と同じ死に方だからさ。胸に水が溜まっている。まるで水死したみたいに見えるんだ』……」

 長いこと走る馬車と蹄の音だけが響いていた。誰も口をきかなかったせいだ。

 最初に口を開いたのはヒューだった。

「アシュレー、そのこと――〝殺鼠剤の死に方が水死に似てる〟と言うのは良く知られた事実なのか?」

「さあな、薬屋の僕もその時初めて聞いた」

 ヒューは、今度は違うことを訊いた。

「アシュレー、屋敷で水死した4人を、君はそれだと思うかい?」

「でも、4人は池に浮かんでいたんだよ!」

 思わず叫んだのはエドガーだ。

「そうだな、『最後の仕上げは神がなさる』」

「よせよ、アシュレー、もうシェイクスピアはたくさんだ!」

「いや、僕が言いたいのは――この場合は神ではなくて『最後の仕上げは悪魔がする』ってことさ」

 薬屋は静かな声で続けた。

「実は水死ではなく毒(殺鼠剤)で殺しておいて、その後で池に沈めたとしたら? 静かな溺死の出来上がり。これぞ悪魔の仕業だろう?」

「確かに、あそこの庭の池は装飾的で狭くて浅い。典型的な英国庭園流の人工池だ。形はきっちり長四角で喫水線が芝生と同じ高さなんだ」

 唇を舐めながら、自分自身に言い聞かすようにゆっくりとヒューは言う。

「病身だった先代奥方はともかく、あそこで大の大人が三人、あっさり死ぬとは思えない。自殺するなら他の手段を選ぶはずだ。何故って? 彼らは最高級の教育を受けた貴族階級なんだぞ」

「なるほど」

「え? どういう意味?」

 またしても自分だけわからない。ヒューとアシュレー、この二人の話にはいつも飛躍がある。エドガーが眉間に皺を寄せて訴えた。

「僕にもわかるように説明してくれよ」

「貴族階級は皆泳げる――学校パブリックスクールで水泳を学んでいるって意味だよ」

 ヒューのこの指摘は正しい。19世紀末まで高等教育を受けた者だけしか水泳は出来なかった。ほとんどの庶民は顔を水につけることさえ怖がった。水を恐れないこと、これもまた特権階級の誇らしい勲章だったのだ。

 ヒューとエドガー、新しい世代の勤労少年の二人はベスナル・グリーンにできた水泳場に通って水泳を身に着けていたが。

「泳げる人間があの池で自殺するには両手両足を縛らなければ無理だ。反射的に泳いでしまうだろうから。殺そうとして突き落としたなら、その場合は抗って騒ぐだろう。屋敷の者に気づかれてしまう。だから、もしどうしても溺死させたいなら殴ったり意識を無くさせなきゃならないはず」

 だが遺骸にその痕跡はなかった。

「先代もエドワード氏も、最近のアンソニー氏の時も警察は暴行の痕を認めていない」

 (何かがおかしい。)

 ヒューは心の中で思った。

 だから・・・、薬屋が示唆したように他所で殺されて池に運ばれたと考えたほうがしっくりくる――

「そうなると、他の疑問も湧いてくるな。何故、池なんだろう?」

 口に出して呟いたヒューの疑問にアシュレーが即座に答える。

「偽装工作のため? 衝撃的過ぎて情景に目を奪われて他の些末なことに気が回らなくなる?」

「他にも効果がある。見せしめというか警告、ディスプレイとして」

 ヒューは明白になった新事実を薬屋の青年に説明した。

「池で死んだ先代と次の当主は二代に渡り脅迫されていて、一族の所有する宝を要求されていたのがわかったんだ。もし、殺したのがこの脅迫者だとしたら、『こうなりたくなかったら言うことを聞け』『早く宝を寄越せ』と脅かす意味で効果がある」

 更にヒユーは言い足した。

「屋敷内の池に遺体が浮かんでいた理由として他に考えられるのは、利便性。そこに捨てるのが一番楽だったから。ソレを遠くへ持ち去る時間や労力がない場合、一番近い場所を殺人者は選ぶのではないだろうか?」

「待てよ、ヒュー、今言った最後の理由――」

 エドガーはギョッとして小窓から顔を突き出した。

「それ、屋敷内に住んでる人間が殺したって意味? 君、本気でそんな馬鹿げたことを考えてるの?」

「『可能性で消去していって残ったものこそ、どんなに馬鹿げていようとそれが真実なのだ』」

「またシェイクスピア?」

「……コナン・ドイル。シャーロック・ホームズだよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る