第28話

 ヒューとエドガーは日時計を近くで見るのは初めてだった。場所は屋敷の左側の庭園。

 やや小高くなった一画にそれはあった。高さは1.2mほど。上部が丸い純白の石柱だ。

 日時計の周囲は丸く空間をとってあり――家政婦長なら『妖精の踊り場』と表現するだろう――外側に丈の低いアザレアやセージなどが植えられている。さらにその外縁にはランブラーローズ。この木立はそのまま石の階段へと続き東屋や池へ導いてくれる。そぞろ歩きにピッタリの見事な造園である。

「なるほど、警官たちが噴水と間違えたのも無理はないや。ジョイスは怒ってたけど」

「元々この場所には英国庭園式のタイル張りの噴水があったらしいよ。円形の平らな部分がその名残さ。お祖父様は結婚を記念して、タイルを剥がし噴水を撤去して日時計に変えたんだ」

 屋敷の嫡男は両手を背中で組んでちょっと得意そうに言う。

「お祖母さま――その時は若い花嫁だった!――はスコットランド生まれだから彼女を喜ばせるためにお祖母さまの実家の庭に似せたんだよ。なんでも、向こう、スコットランドの庭は噴水じゃなくて日時計が好まれるらしい」

 僕は行ったことはないけど、と断った上でリチャードは教えてくれた。

「父上は子供の頃、里帰りするお祖母様に連れられて頻繁にお祖母様の実家を訪れたってさ。お祖母様の実家の日時計の向こうに湖があって小さな島と古城を眺めることができる。その城には一時期、メアリー女王が閉じ込められていたそうだ」

「息子に玉座を奪われ、逃げ出して、我が国のエリザベス1世に助けを求めたあの・・メアリー女王のことかい?」

「他に誰がいる? そう、スコットランドのメアリー女王だよ。でも、結局、女王はロンドン塔に幽閉されて処刑されるんだけどね」

「ブルル、貴族は家族の思い出話もおちおちできないんだな。実家の庭の話がそのまま英国史に繋がって来る」

 冗談めかしてヒューが揶揄からかった。

 日時計の台座に視線を戻してヒューは言った。

「ふーん、この三角形型の指針をこの台座のてっぺんに乗せるんだな? 固定するのは針金よりも膠の方がいいな」

「ケネスに頼んでみるよ。彼なら用意できるはずだ」

 駆け出そうとするリチャードをヒューが止めた。

「待てよ、どっちにしろ、夜にならなきゃ修復は無理だ」

「どうして?」

「正確に時刻を表したいなら、この三角形の指針を北極星に合わせなくてはだめなんだよ」

 リチャードは目を瞠った。

「まったく! エドが自慢する通り、君はホントに博学だな!」

「友達は二人しかいないけどな」

「アハハハハ……!」

 久しぶりに三人は心から笑い合った。

「じゃ、ぼくが今夜ケネスに手伝ってもらって修復しておくよ。明日、君たち、仕事が終わったらまた来てくれるかい?」

「来るとも。じゃ、俺たちはこれで帰るよ」

 ヒューは上着のポケットを叩いた。

「テレグラフ・エージェンシー社に出社する前に警察へ寄って、君から預かったこの脅迫状を届けることにする」

 エドガーが額に二本指を当てて敬礼をする。

「今日は、僕たちは君からのメッセンジャーボーイってわけさ!」

「君たちは誰よりも信頼できる、最高のメッセンジャーボーイだ。知り合えて良かった!」

 リチャードが握手の手を差し出した。

 ヒューがその手を握り返した時、グッと引き寄せてリチャードは言った。

「ガヴァネスに暴言を吐いて辞めさせた僕を、君は見損なっただろ? 軽蔑したかい?」

 手を離さず、強く握ったままヒューは答えた。

「俺は恋に関わる謎についてはまだ解いたことがない。俺自身、恋をしたことがないから、そっちは未知の領域なんだよ。だから――この件は10年後のパブでエールか炭酸水割りのウィスキーでも飲みながら結論を出すとしようじゃないか」

「僕たちが恋の話をする……そんな未来の日が来ると君は本気で思っている?」

「勿論さ」

「10年後か!」

 エドガーが勢いよく空を仰いだ。

「その頃はもう20世紀だな! 僕たちはどんな大人になっているだろう?」

 リチャードは笑って指を差す。

「ヒューはホール医師が予言した通り、警部だな。エドは」

「こいつは意外にロマンチストだからな、詩人か小説家になって世紀末の少年たちの冒険譚を書きまくって稼いでるかもな」

「それはいい! 大いにあり得るな。僕は……」

 遠い目をする貴族の少年にヒューは言った。

「君は何にでも、望んだとおりの者になれるよ!」 

 ヒューとエドガーは屋敷を後にした。


「脅迫状を発見しただと? よくやった、メッセンジャーボーイズ!」

 ニュー・スコットランドヤードの自室オフィスでキース・ビー警部は椅子からずり落ちるくらい驚いて叫んだ。

「これこそ、超一級の情報だ!」

 ヒューがポケットから出し、括っていたリボンを解いて提出した脅迫状を受け取る時、キース・ビーは眼をしょぼしょぼさせて呟いた。

「クソ、ホール医師は君がやがて僕のライバルになると予言したが――僕は知っているよ。今でも既に君は正真正銘の僕のライバルさ」

 椅子にしっかりと座り直し、手紙の中身に目を通す警部の顔がどんどん熱を帯びて行く。

「むむむ、こうなったら一刻も早く、ヒズ・マジェスティーズ劇場前で靴磨きにアンソニー氏へのメッセージを託した人物を見つけ出してやる! 間違いない、そいつこそ脅迫状を書いた当人だ。消印にはウエストミンスター局とあるじゃないか! 脅迫物の受け渡しの指定場所がトラファルガースクエアのライオン像? なんてこった、全て屋敷近くの地域に限定されている……」

 武具庫の甲冑武者のブーツに隠されていた脅迫状がどういう経緯で発見されるに至ったか、それについて警部は訊かなかったのでヒューとエドガーも語らなかった。

 ロンドンに夜の帳が降りた。

 ヒューとエドガーは〝本職〟のメッセンジャーボーイに戻ってローラースケートの音を響かせて縦横無尽に市内を駆け廻った。

 夜明けの終業とともにそれぞれの自宅へ戻る。

 昨日の長い一日の疲れが出て、二人ともそれぞれの寝床で泥のように眠りこけた。


「あちらは東、そしてジュリエットは太陽なのだ。昇れ、麗しの太陽よ!」

 ロミオの名台詞とともに体を揺すぶられてヒューは跳ね起きた。

 視界いっぱいに覆い被さるように立つ二人の人物は――

 隣家の小劇場の団長アレン・ディアスと薬屋アシュレー・タルボットだ。

「な、なんだ、この悪夢は? 何故あんたたち・・・・・がここにいるんだ?」

 薬屋は言った。

「安心しろ、黒猫はいないから」

 劇団長が言った。

「なによ、このハンサムな薬屋さんがあんたんちの扉を叩き続けているのに、あんたが一向に起きてこないから、見かねて私が開けてやったのよ。感謝してちょうだい」

「……団長、あんた、俺んちの鍵持ってたっけ?」

「オホホホホ、では、ごきげんよう!」

 質問には答えず劇団長はドレスの模裾を引いて投げキスとともに男らしく退場した。

 団長が去るとアシュレーは真摯な表情で言った。

「脅かして悪かったな、ヒュー。でも、君とエドガーは今日も例の屋敷に行くんだろ? だからその前に伝えておこうと思ったのさ」

 黒い瞳で灰色の瞳をまっすぐに覗き込む。

「この前、君たちから聞いた話で気になっていたことについて、思い出したんだ。今日は店の販売用の馬車で来たからエドガーを拾ってグッドヴィル邸まで送るよ。道々話をすることにしよう」

 即座にヒューは拒否した。

「あんたの馬車? 猫の匂いが沁みついてるから、俺は嫌だ!」

 十数分後、エドガーの意見は違った。喜々として荷台に飛び乗ると弾む声で、

「ワー、嬉しいな! 僕、この馬車大好きさ! 乗り心地満点だし、猫市を思い出すよ。今日は、詰め込まれている猫たちが居なくて、ホント、残念」

 薬屋の青年は月に一回、近隣の村を巡って薬を売るついでに、ロンドン市内で保護した野良猫や捨て猫を、希望する人たちに分けてやっているのだ。田舎では猫を欲しがる人たちが思いのほか多い。ヒューやエドガーもそれを手伝ったことがある。エドガーにとっては素敵な思い出、ヒューには身の毛のよだつ恐怖体験として心に刻まれている。それはさておき――

 薬屋が鞭を一振りして、馬車はグッドヴィル屋敷へ向かって走り出した。

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