第26話

 待ちかねた朝がやって来た。

 ケネスの素晴らしい朝食を、この日ばかりは気もそぞろに食べ終えるとリチャードはヒューとエドガーを伴って昼間モルガンが在中する場所――曰く執務室のドアをノックした。

「モルガン、お願いがあるんだ。庭の日時計の壊れた欠片がどこにあるか、教えてほしいんだよ」

「お庭の? 日時計? お待ちください」

 早速モルガンは棚から分厚い帳面を取り出した。既に目星はついているらしく素早くページを繰る。

「ありました。これですね。1845年、9月12日、破損――これは私の父の字ですよ。懐かしいですな。父はこの5年後、20歳の私に後を託して引退しました」

 暫し思い出に微笑んでから、執事は実務に戻った。

「えーと、日時計は、直ちに修理するつもりが先代が急ぐ必要はないとおっしゃられ、そのまま放置されたようです。破損した部分の断片は取ってあります。場所は三階の武具室の鎧櫃よろいびつの中……」

「なんで、鎧櫃なんかに入れてあるのさ?」

「不要不急の品はそこに納めるのが当家の習わしです。無用といっても何かの折、そう、籠城した際などには貴重な物になるとも限りません」

 帳面を閉じると執事は腰を上げた。

「では、ご案内いたしましょう」

「いや、いいよ。僕と友人だけで大丈夫だ」 

 リチャードは壁越しに隣室の〈控えの間〉を指差す。

「エメットが言っていた。ホール医師はウェルにかかりきりでまだ朝食を摂っていないそうだ。ホール医師が朝食をとる間、おまえはウェルの傍にいてやってくれ」

「坊ちゃま……なんと頼もしくなられまして……」

 目頭を押さえた執事から目を逸らして、慌ててリチャードは言った。

「どうした、モルガン? エメットの泣き虫病がおまえにも伝染うつったのか?」


 こうして――

 再び三人はリチャードを先頭に秘密の階段を昇った。今度は上へ。

 (上へ上へか……)

 先を行くリチャードからまた風が吹き過ぎる気がする。

 ヒューはハッとした。

(そう言えば、この間、夢で似たような光景を見たな)

 どん尻を歩いていたエドガーが頭を左右に振って呟く。

「迷路のようだね? 僕は、今、どこら辺を歩いてるのか全くわからないよ」

「細くて暗いものな。正式の大きな階段を使えばもっと明るいんだけど、遠回りになるからね。この隠し階段なら武具庫の真ん前に出られる――」

 リチャードはクスッと笑った。

「隠し階段は僕の遊び場だったんだよ。だから、目をつぶっていても、屋敷中どこへでも速攻で行ける」

 ちょっと声がよどむ。

「僕にはここしか遊び場がなかったのさ。父上は母上がいなくなってから、極度に僕やジョイスを屋敷の外に出したがらなくなったからね。小さなジョイスはメイドたちが相手してくれたからいいけど、9歳の僕はそうはいかないだろ? 走り回りたいし冒険がしたかった。もう少し大きくなってからは読書に楽しみを見出したけど。そう言うわけで一時期の僕は屋敷中の隠し階段を縦横無尽に上り下りしたものさ」

 陽気な口調に戻って貴族の少年は背後に続くメッセンジャーボーイたちを振り返った。

「暗い階段は人を大胆にさせる。そう思わないか? 僕は闇に潜んでいるドラゴンを何百匹も串刺しにしたぜ」

 その通りだ。暗くて細い通路は洞窟と同じ、人を大胆にする。だから、ヒューはその問いを口に出して訊くことができたのだ。

「ねぇ、リチャード、お母上の失踪後やって来た家庭教師ガヴァネスは何故いなくなってしまったんだい? 世間では失踪とまで表現されているけど」

 リチャードの息を吸い込む音が笛の音のように響いた。

 沈黙が永遠に続くと思われたが、意外にもすぐにリチャードは言葉を継いだ。

「僕のせいさ。あれは僕が悪かったんだ」

 いつものヒューじゃない、とエドガーは思った。いつものヒューならこんなことを訊いただろうか? 訊かない。

 暗い洞窟でヒューはドラゴンになっている。あるいは、これは串刺しにされたドラゴンの逆襲かもしれない。

 エドガーの緊張をよそに15歳になったリチャードは出現したドラゴン(またはヒュー)を串刺しにする代わりに、静かに答えた。

「ヒュー、エド、このことを話す相手がいるとしたら君たち以外にはいないから、話すよ」

 微塵のためらいもなく、物語を読むようにリチャードは話し始めた。

「母上が突然いなくなって彼女はやって来た。名はアイルサ・スカイ。僕は混乱していて母上の失踪前後のことはよく憶えてないんだけど、でも、とにかく、僕は一目で彼女が気に入った。すぐに打ち解けて大好きになった。彼女は僕の勉強だけでなく、生まれたばかりのジョイスのこともリジーと一緒に真心を込めて面倒を見てくれた。僕たち兄弟は彼女なしにはやっていけないくらい、母上の不在を忘れるほど深く、彼女を愛した。でもある日、僕は見てしまった」

 少年は一気に言った。

「父上が彼女と口づけをしているのを」

 更に素早く、間を開けずに言う。

「僕は狂ったみたいになって大声で喚き散らした。父上をなじり彼女を罵倒した。僕の泣き声は屋敷中に響き渡ったよ。でも、屋敷中の誰も僕を止めることはできなかった。翌日、彼女の姿は消えていた」

 リチャードは足を止めずにどこまでも階段を上り続けた。

「今ではわかっている。父上に投げつけた言葉は僕自身へ向けたものだった。僕は怖かったんだ。彼女に夢中になって母上を忘れてしまうのが。たった一人の大切な母上なのに。実際、その頃の僕はほとんど母上の顔を忘れかけていた。思い出そうとしてもぼやけて、身近にいる家庭教師の顏に重なってしまうんだ。現在は、そのどちらも混じり合って、霧がかかってよくわからない……」

 旧メイドのリジー・アッシャーが家庭教師についてほとんど語ろうとしなかった理由がわかった、とヒューとエドガーは思った。

「さあ、着いた!」

 バン――

 リチャードが隠し階段の扉を開けるとドッと光が差し込んだ。

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