第25話
警部が去っていくや、こんな騒動があったにもかかわらずケネスが夜食を用意したと言うのでリチャードとともにヒューとエドガーも食堂でそれを味わった。
湯気の立つ
体が温まったところでヒューは改めて周囲を見回した。
思えば夜間にこの食堂へ入るのは初めてだ。二面の窓にはカーテンが引かれ昼とは
テーブルに置かれた銀の燭台の朧な光に浮かび上がった右側の壁――
ヒューとエドガーにとっては真正面にあるその絵にヒューはハッとした。
「ひょっとして、これは〈タウトンの戦い〉を描いている?」
「そうだよ。なんだ、今、気がついたのかい?」
燭台を一つ持ってリチャードが絵の前に立った。
「我が国史上、最も多大な死傷者を出した薔薇戦争中の凄惨な戦いさ」
〈タウトンの戦い〉は1461年3月29日、降りしきる雪の中、ヨークシャーのタウトン村とサクストン村の境にある高原で繰り広げられた。
「幼い頃からこの戦いについては幾度も父上が教えてくれた。膨大な犠牲者を出した理由は国を二分するヨーク派・ランカスター派が互角にぶつかり合ったからだと。貴族のほとんどがどちらかの軍に参加して戦った……」
集結した兵は両軍合わせて総数5万とも10万とも伝わっている。死傷者は3万。
「この絵はその最も劇的な光景を描いている」
甲冑を纏った兵たちの重みで崩れ落ちる橋、凍る川に投げ出される兵、兵、兵。
兵たちは流され溺れ、そこへ斬りかかる敵兵によって次々と川底へ沈んで行く。
だが、悲劇はこれで終わりではない。さらにその先、川を渡った向こう側に広がる草原を見よ。今はまだ静寂に包まれている対岸。幸運にも何とか川から這い上がり、そこに辿り着いた兵も、追って行った兵も、後世〈血まみれの牧草地〉と呼ばれることになるその地でお互いの血を浴びて斬り結ぶ――
しかし、ここもまだ終着の地ではなかった。凍る川から這い登り、血濡れた草地を抜け、友か敵かも定かではない累々たる死体を踏み超えて到着した村、タッドキャスターで兵たちは、ほぼ全滅する未来が待っている――
「君の家はどちら側だったの?」
「勿論、ヨーク派。この戦いの直前に英国王と認定された若き王エドワード4世……常に前線で戦い続けた新王とともにいた。だが、この戦いに勝者はいただろうか?」
そのくらい血で血を洗う凄まじい戦いだった。
「モルガンに聞いてみるといい。彼の先祖は同じくヨーク公の弓兵だった。彼の家は代々このタウトンの戦いとそれに至る午前の前哨戦を口伝して来た。例えば僕が憶えているものでは――」
ダドリー・モルガン14歳、初陣
朝方から遠矢を射続けて優勢だった我が方(ヨーク派)は弓矢がつきた。我は、撤退して無人となった前方敵陣へ矢を回収に行けとの命を受けた。楽々と、地面に落ちている矢、あるいは屍骸に突き刺さっているが使えそうな矢を回収して思いのほか前進した時、ふいにゾクリと皮膚が粟立つ。右横に広がる木立が黒々として嫌な感じだ。と思う間もなくそこからランカスター軍の兵がドッと襲い掛かって来た。剣を抜く間もない。手にしていた矢を敵の目に突き刺す。同時に血が噴き上り我の視界が赤く塗り潰された。これは
「で、でも、そのモルガンの先祖は無事生き延びたんだよね?」
ブルッと身震いしてエドガーが訊く。
「エド」
悲し気に微笑んでリチャードが答えた。
「今を生きる僕らは皆、生き延びた誰かの子孫だよ」
パチンとヒューが指を鳴らした。
「言えてるな」
ここでエメットが入って来た。
「リチャード様、お申し付け通り書斎に寝具をお運びました。でも」
珍しくエメットは不服そうに頬を膨らませた。
「本当に書斎でよろしいんですか? どの客室にでもベッドをご用意いたしますのに?」
「ありがとう、エメット。いいんだよ、僕らにとっては書斎が一番快適なんだ。そうだろう、ヒュー、エド?」
書斎に着くと貴族御用達の最高級羽毛布団に包まれる幸せをヒューとエドガーは味わった。
とはいえ、少年たちはすぐに眠ったりはしなかった。何故なら、秘密の謀議――戦略会議はここからが本番だ。
「聞いてくれ、リチャード、実は俺はさっきあの場で皆に話さなかったことがひとつあるんだ」
エドガーに目配せしてからヒューは明かした。
「ウェルさんは意識を無くす前に俺とエドの手を掴んで言ったんだ。『悪魔はブーツの中にいる』って」
――ああ、ようこそ、天使様! 悪魔はブーツの中です……
悪魔はブーツの中に……
「これをどう思う? 新しい謎だろう?」
ヒューは一本、指を突き立てた。
「俺が、ウェルさんがモールス信号の発信者だと推理した一番の理由はこのことがあったからだ。屋敷内に潜む不穏な何かを彼女なりになんとか外へ知らせようとしたんじゃないだろうか?」
灰色の眼をキラッと輝かせるヒュー・バード。
「〝ブーツの中〟と言うのも、いかにもおまじないや古い言い伝えを尊ぶ家政婦長らしいと俺は思った。13世紀のバッキンガムシャーのジョン・ショーンという神父は悪魔を長靴の中に飼っていたという伝承があるんだ。彼女はそれに習ったのかもな」
「凄い! ウェルが君たちにそんな言葉を残していたとは! ウェルは僕たちが思っているほどボケてはいないのかもしれないな」
ここまで言ってリチャードは首を傾げた。
「君は何故そのことをキース・ビー警部に話さなかったのさ? 他の人はともかく、警部には伝えるべきだったんじゃないのか?」
「警部はきっと言うと思ったからさ。『まだ不十分だ。その程度のネタでは我々ニュー・スコットランドヤードは動くことはできない』」
警部の口調を再現して見せるヒュー。エドガーが訳知り顔に付け足した。
「いつものことさ。警察って奴は融通が利かないものなんだよ、リチャード」
「謎の城塞は俺たちがこの身を持って切り崩さなければならない。いつだって俺たちこそが謎解きの尖兵なんだ」
食堂の絵を思い出して貴族の嫡男はニヤリとした。
「いい表現だ、ヒュー。血沸き肉躍るよ。ならば――」
羽毛布団をマントのようにハラリと脱ぎ捨ててリチャードは立ち上がった。
「僕も君たちと別れて以来ずっと考えていたことがある。父上の残した言葉、謎の文言〈WATCH DEATHWATCH〉についてだ」
リチャードは肌身離さず持っている父の懐中時計を取り出した。
「あの言葉を、死んだ時計、止まった時計、壊れた時計と読み解くなら、この父上の残した懐中時計だけじゃなく、他にも該当する物があるのではないかと僕は気づいたんだ」
「面白いな、続けてくれ」
「そう考えると、すぐに僕は思い当たった。実は〈死んだ時計〉がもう一つ、屋敷内にあるんだよ」
「それは何?」
「日時計さ」
書斎の中からその方角を指し示しながらリチャードは説明した。
「庭の一画、左側の東屋の近くに日時計がある。かなり古いものでお祖父様が結婚を祝して設置したんだ。お祖父様とお祖母様が若かりし頃、屋外で行われる
「そう言えばジョイスも言ってたな」
――あれは
「それで、僕は思ったんだ。あの日時計を修復してみようって。何か謎を解く
「凄いよ、リチャード!」
「名案だ! やってみる価値はある!」
「君たちのおかげだよ。君たちがこんなに親身になってあれこれ協力してくれてるのに、当主の僕が何もしない役立たずではいられないだろ? これ以上、この屋敷で恐ろしいことが起こらないよう、僕が積極的に行動を起こさなくてはと思ったんだ。気づかせてくれたのは君たちさ!」
「水臭いことを言うなよ! 力を貸して当然だ」
「俺たちはメッセンジャーボーイ・ルールで結ばれた仲間だろ!」
勤労少年に賞賛がわりにポカポカ叩かれて貴族の嫡男は心底嬉しそうだった。頬が薔薇色に染まっている。
「ああ、早く朝が来るといい!」
「うん、謎の解明に一歩近づく明日が……」
「どうしよう、待ち遠しくて、僕、今日はとても眠れそうにないよ」
そんなことを言い合いながら三人はいつしか寝入っていた。
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