第13話
やってきたのはチャリング・クロス駅。
屋敷から一番近い駅というだけでなく、ここは18世紀以降、ロンドンの中心と認識されている。その証拠に道路標識や地図にはチャリング・クロスを起点とした距離が掲示される。また1839年から
チャリング・クロスという名の由来は13世紀の国王エドワード1世が病死した妻エリナ・オブ・カスティルの亡骸をウェストミンスター寺院まで運ぶ際、12カ所で棺を止めその場所ごとに十字架の塔を建てた。その最後の場所がここ――当時チャリング村――だったからだ。とはいえ1864年に開業したサウス・イースタン鉄道のフレンチ・ルネサンス様式の華麗な駅舎の前には既に十字架はなく、代わりにエドワード1世の銅像が立っている。
構内は今日も行合う人々で混雑していた。
人波を縫ってヒューはまっすぐに目指す相手に近づいて行った。真正面に立ってヒューは言った。
「訊きたいことがあるんだ」
顔を上げ、帽子の鍔を摘まむと靴磨きの少年は吐き捨てた。
「営業の邪魔だ。あっちへ行きな、メッセンジャーボーイ」
赤い上着に黒いズボンと革靴、頭にも赤い帽子――これが〈ロンドン靴磨き協会〉公式の制服だった。
身寄りがなかったり貧困にあえぐ少年たちを救済するために靴磨きの技術を教え社会参加を促そうと1850年に発足した。以来、その精神と制服は変わることなく受け継がれている。かのロンドン万博では24名の精鋭を派遣して完璧な靴磨きの
グッドヴィル家の次男が言った『偽のメッセンジャーボーイ』『赤い人』とはまさに彼らのことだったのだ! ロンドンで一目でそれとわかる制服姿の少年集団、違いと言えばロイター卿のテレグラフ・エージェンシー社が〈灰色〉なら靴磨き協会は〈赤〉という色の問題だけである。
「そう言わず教えてくれ。君、一昨日の昼頃、グッドヴィル屋敷へ行ったかい?」
「まさか! 俺はずっとここ、自分の持ち場に張り付いてるよ。それこそ燦燦と陽の照る夏の日も雪の舞う冬の日も――あ、いらっしゃいませ!」
「じゃ、次だ」
次の角でヒューはそこにいた靴磨きに同じように声を掛ける。
「訊きたいことがある」
「向こうへ行けよ、
「そう言わず教えてくれよ。君、一昨日の昼、グリーンパークにあるグッドヴィル屋敷へ行ったかい?」
「馬鹿言うな。おまえら尻軽じゃあるまいし。俺たちは毎日きちんと地面に腰を据えて稼いでる。足じゃなく腕でな。あ、ようこそサー、どうぞ、こちらへ」
「次へ行くぞ」
こんな風にヒューは駅から始めて、まっすぐに伸びるピカデリー大通りを次から次へと目に着く限りの靴磨きたちに声を掛け続けた。
「これで何人目だ、エド?」
「多分、次で11人目だよ、ヒュー」
「まだまだ行ける。続けるぞ、エド。あいつらが言う通り俺たちには自慢の足がある。こうなったら必ず見つけ出してやるからな、ん?」
「おい、そこの灰色の鳩ポッポども」
気づくと、二人はグルッと周りを赤い壁に取り巻かれていた――
「天高く空を飛ぶならいざ知らず、地上を走り回るばかりか、深夜は我慢ならないローラースケートの軋んだ音を撒き散らすロイター卿のメッセンジャーボーイズ」
真ん中の一人、抜きんでて背が高く、腕っぷしの強そうな少年がズイッと一歩前へ出た。
「さっきから俺たちの仕事の邪魔をしてるってのは、おまえらか?」
身長は6フィート、金髪碧眼、大胆不敵な面構え。鼻の形が美しいのは、喧嘩で負け知らずと言うこと。その形の良い鼻を親指で撫でながら、
「お互い縄張りがあるだろう? 大人しくしといた方が身のためだぜ。それとも――おまえら、ヘマして自慢のアンヨを痛めてこっちへ鞍替えしたいのか?」
唇を真一文字にして笑う、脅し方も完璧だ。
「だとしたら、お断りだ。生憎だが俺たちの仕事には
ヒューは一歩も引かなかった。
「それを言うなら――先に俺たちの仕事に憧れて真似したのはおまえの仲間だぜ?」
「なんだと?」
「但し、落ち着けよ。ここは取引と行こう。おまえがリーダーなら話が早い」
額に落ちていた黒髪を搔き上げて帽子を被り直すとヒューはゆっくりと言った。
「俺は喧嘩をしたい訳じゃない。だって俺たちは兄弟だから。俺たちはともにロンドンが世界に誇る勤労少年だよ。走り回るか、腰を据えるかの違いがあるだけだ。風の猟犬か地の番犬か、だが天の名犬であることに変わりはない」
「……上手いことを言うじゃないか。おまえ、名は?」
「俺はヒュー・バード、こっちは相棒のエドガー・タッカー」
「俺はマードゥ・ウォードだ」
「マードゥ、力を貸してほしい。俺たちはとある人物を捜している。それはおまえの仲間で――何故なら、その赤い制服と帽子を身に着けていたからさ。一昨日の昼、そいつはグリーンパークのグッドヴィル屋敷へメッセージを届けに来た」
マードゥ・ウォードの両目が吊り上がる。
「俺たち靴磨き協会所属の者が? メッセージを配達した? そんなはずはない。副業は禁止されている。何より俺たちはこの仕事に誇りを持っている。靴磨き以外になりたいなんて思う奴はいない」
「まぁ、単にお客に頼まれただけの、その場限りの善意のサービスだと俺は思っている。それにメッセージを運んだことに文句を言いに来たんじゃない。俺はその人物と会いたいんだ。訊きたいことがある。とても重要なことなんだ。直接会って話がしたい。だから、そいつが誰か、捜してほしいのさ」
「わかった」
頑丈な顎を揺らして少年はうなづいた。
「もしおまえの言ってることが事実なら、常習的にそんな真似してるのか、一回きりの行為なのか、その点を、仲間を束ねる俺としても確認しなくてはならないからな」
マードゥ・ウォードは通りの時計屋の壁に掛かっていた絡繰り大時計を振り返った。
「30分後に、そうだな、落ち合う場所は――エロスの像の前でどうだ?」
エロスの像は正確にはエロスの弟アンテロスの像である。ここもロンドンの新しい名所の一つ。1892年、博愛主義の慈善家シャフツベリー伯爵を讃えてピカデリーサーカスのど真ん中、噴水の上に据えられた。今では待合いの場所として重宝されている。これなら行き違う心配はない。
「了解、恩に着るよ! では、そこで」
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