第12話
「起きろ、エド!」
正午過ぎ。駆け込んで来たヒュー・バードの声にエドガーは目を開けた。
サヴィル・ロー通り3丁目、一階を服飾材料や荷物置き場の倉庫として使用している煉瓦造りのビルの三階がタッカー家の住居だ。エドガーの父はサヴィル・ローの目抜き通りにある老舗の紳士服店の腕利きの仕立屋だった。だが数年前から胸を病んで現在自宅療養中なのだ。代わりに母がリバティ百貨店の服飾部でお針子をして家計を支えている。だからエドガーはロイター卿が設立したテレグラフ・エージェンシー社のメッセンジャーボーイとして一人前に稼いでいることを誇りにしている。
三交代制夜番の仕事を終え、朝、家に帰るとエドガーは居間のソファで夕方まで眠る。妹のミミはそんな兄の傍でお人形さんと遊んで過ごす。最近では出社前に同僚のヒューが迎えに来るのは珍しくなくなった。とはいえ……
「起きてよ、お兄ちゃん! ヒューがお迎えよ!」
ミミはヒューが来訪時必ず持参する、屋台で売られている美味しいお土産――今日は白砂糖が掛かったフルーツパイだ――の袋を手に満面の笑顔で兄を揺り起こした。
「んー、なんだよ、ヒュー、まだ午後1時前じゃないか。今日はやけに早過ぎないか?」
「俺のところにさっきキース・ビー警部から知らせがあった。グッドヴィル屋敷でまた何か悪いことが起ったらしい。詳しくは本庁にてとある。とにかく、すぐにニュー・スコットランドヤードへ行くぞ!」
「!」
グッドヴィル屋敷と聞いてエドガーも跳ね起きた。
「お兄ちゃんを借りてくけど、いい子で留守番しててくれよ、ミス・タッカー」
「私なら大丈夫よ、ヒュー。でもくれぐれも気をつけてね。そうだ、ポン・フィンはちぎれてない? 私、新しいのを作ったから付けて行って!」
「ありがとう、ミス・タッカー。君のお守りは千人力だよ」
ポン・フィンはポルトガルの教会発祥の腕輪型のお守りだ。実際これでヒューは命拾いしている。色取り取りの残り毛糸で編み上げたそれを
「
勿論、そのまま夜番に出勤できるようにローラースケートを首にかけて二人は玄関から飛び出した。
「アンソニー・グッドヴィル氏が屋敷の庭の池で発見された」
両手を開いてしゃがれた声でキース・ビー警部は言った。
「死因は検視の結果、溺死と判明した。肺に水が溜まっていてね」
砂色の髪を掻き毟る。
「僕の失態だ。
「アンソニー氏は酔っぱらって池に落ちたんでしょうか?」
エドガーが訊いた。それなら有り得ると思ったのだ。
「それが、よくまだわからないんだ。実はアンソニー氏は昨日、昼過ぎに外出して一日中戻らなかった。執事が夜通し寝ずに待っていたらしい。玄関脇の、僕が捜査本部にしていた部屋の隣が執事の執務室なんだが、アンソニー氏は遂に帰らなかった。早朝、庭で遊びたがる次男に付き添って外へ出たメイドが池に浮いているアンソニー氏を発見した」
衝立から若い警官が顔を出す。
「警部、警視正がお呼びです」
「わかっている、すぐ行くよ」
体はメッセンジャーボーイに向けたままキース・ビー警部は話し続けた。
「アンソニー氏はグッドヴィル一族としては傍流だ。ヨークシャーの実家は没落して両親もとうに鬼籍に入っている。当人も株で破産してとうとう借家を追い出され、数週間前グッドヴィル屋敷に転がり込んだんだよ」
今度はヒューが訊く。
「ならばアンソニー氏の死は失意の自殺でしょうか?」
「状況から見て今の段階ではそれに近いかな。と言うのも、朝帰りした氏が酔って池に落ちたり、または誰かに突き落とされたのなら、抵抗する音や悲鳴、水音など――兎に角、物音がするはずだ。だが、屋敷内の誰一人、その種の音を聞いていないと言っている」
「それって、前にあった三件の状況に酷く似ていますね」
静かな水死……
「警部、早く! お時間です」
「クソッ、僕はこれから上層部への報告と対策会議に出でなきゃならん。その後、すぐにまたグッドヴィル屋敷に戻るつもりだ。確かに僕は屋敷の古い事件の謎を解明したいと思っていたが、こうも次々に新しい事件が積み上がったんじゃ堪らないよ。いやはやまさか、こんなことになるとは――」
頭を振り振り警部は自身のオフィスを出て行った。それでも忙しい中、最低限の情報をメッセンジャーボーイに教えてくれたのだ。
「あの尊大で横柄なアンソニー氏が自殺だって? 有り得ないよ。でも、同じくらいアンソニー氏が昼過ぎに外出ってのもピンと来ない。だっていつも夕方まで泥酔してるのに? 夜、起きても豪州からの株価通知を見るほかは酒を飲んでいたみたいだし」
エドガーが急き込んでヒューに問いかけた。
「いったいアンソニー氏に何があったんだろう? 謎だよね、ヒュー? で、これからどうする?」
「そうだな、取り敢えず――」
取り敢えず二人は屋敷へ行くことにした。こんな惨劇が起こった日に邪魔になるだけかもしれないが。
昼は無用の長物であるローラースケートを肩に揺らして屋敷に近づくと、最初にここを訪れた日同様に可愛らしい声が聞こえて来た。
「♪西から来るのは赤い夢~~じゃあ、あいつは西から来たの~赤いあいつは何処から来たの~」
巣箱の傍らで幼い次男が蜜蜂相手に歌っているのだ。
「♪でもあいつはニセモノだった~赤いあいつはニセモノだ~~僕はちゃんと知っているぅ~」
「凄く楽しい歌だねぇ、ジョイス。悪い夢が吹っ飛ぶ新しいおまじないかい?」
「あ、ヒュー! エドガー!」
少年はニコニコ顏で鉄柵へ駆けて来た。
「ねぇねぇ、〝妹〟はどこ? 〝妹〟は連れて来た?」
エドガーが申し訳なさそうに首を振る。
「ザンネン、今日はまだ連れてきていない」
露骨にがっかりして頬を膨らませるジョイス。だがすぐに機嫌を直した。
「でもいいや、本物のメッセンジャーボーイがやって来たから。やっぱり本物の灰色の君たちの方が断然優しくて面白いや」
話を続けるために少年は一旦口を閉じ、肩を揺らして大きく息を吸った。
「兄様は執事とお葬式について難しい話をしてるし、エメットは水死体を見て衝撃を受けて卒倒しちゃった。今日は、ホール医師はウェルより先にエメットを診たよ。今、元気が出るようケネスが特製スープを作ってる。お庭には警官がウジャウジャいるのに誰も僕と遊んでくれないんだよ」
蜜蜂に話すように少年はヒユーとエドガーに報告した。
「そのくせ警官は失礼だ。お池の傍のひよけいを見て、『この噴水壊れてる』って言ってるから、僕が『それは噴水じゃなくてひよけいだよ』って教えてやった」
「ひよけい? ああ、日時計か」
「まぁ、壊れてるのは事実なんだけど。時を計る三角の頭部分がポッキリ折れてもう正確な時間は測れないのさ。でもあれは噴水じゃないから水が出なくて当然だよ」
「それより、ジョイス、さっき君が歌ってた『赤い人』ってなんのことだい?」
「君たちの偽物、赤い人が来たんだよ。昨日、叔父上にメッセージを持って。でも僕は騙されなかった。そいつは偽物だ。君たちみたいに灰色じゃないし、なによりローラースケートを持ってなかった」
「それは夢の話かい?」
憤慨して少年はブンブンと首を振る。
「夢じゃなくてホントの話だよ。昨日、僕が蜜蜂と話をしてるとそいつがやって来て鉄柵越しに、叔父上に手紙を渡してくれって僕に言うんだ。僕は断ったよ。だってそいつは偽物のメッセンジャーボーイだとわかったし叔父上は酔っぱらってて怖いから近づきたくない。玄関へ廻って執事に頼めって僕は言ったのさ。そしたら、そいつは『執事には見られたくない。君なら透明人間になって執事に見つからず手紙を届けられるだろ?』って言うんだよ」
再び息を吸う。
「それで、僕は受け取ったのさ。透明人間になって、誰にも見られず叔父上の部屋へ侵入して、叔父上を起こして手紙を渡した。大成功さ。叔父上は怒り狂ったけどピューって逃げ帰ったからヘッチャラだった!」
「それからどうなったんだい?」
「叔父上が門の外まで出て来て――ほらあそこ、道の曲がった先で偽物と暫く話しをしてた。偽物は赤かったから鬼火みたいにチロチロよく見えたよ」
「叔父さんはその後、出かけたんだね?」
「それは知らない。僕はエメットに呼ばれておやつを食べにお家の中に入ったから」
「ありがとう、ジョイス。すごくいい話だった。特に君が透明人間になる所が最高さ」
「だろ?」
「僕たちは、今日はこれで帰るよ。皆、忙しそうだからね」
悲しそうに俯くジョイス。ヒューは右の手首から新しい方のポン・フィンを慎重に引き抜くと威厳ある口調で言った。
「蜜蜂の世話人、ドールハウスの管理人、そして勇気ある透明人間の伝達者。ジョイス・グッドヴィルにこれを捧げよう。ポン・フィン、最強のお守りを」
「うわあ! 綺麗!」
「おまけにそれを作ったのは、ここにいるエドガーの妹君だぞ」
「い、い、いもうと……」
「このお守りを付けていれば君は安全だ。いつだって騎士の身を守るのは姫君の贈り物だからな。君も、独りぼっちでももう大丈夫だよ」
「ありがとう、ヒュー! そして、エドガー! 君の妹にお礼の言葉を伝えてね。大事にする。絶対壊さないからね」
「いや、それは壊れた時――千切れた時、願いが叶うんだけど」
「え、そうなの?」
「でも、わざと壊しちゃ効果はないよ、念の為」
まさか早く切るためじゃないだろうが、いつもに倍して激しく手を振るグッドヴィル家の次男に見送られてヒューとエドガーは屋敷を後にした。
「凄く気になるな、ジョイスの言ってた偽のメッセンジャーボーイ……〈赤い人〉って誰だろう? 大いに謎だ」
「そんなものは謎でも何でもない」
「え? そうなの?」
出たっ、ヒュー・バードの決まり文句。瞬きをするエドガー。ヒューは既に駆けだしている。
「何ボヤッとしてる、エド! これから〈赤い人〉に会いに行くぞ!」
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