第9話

「ヒュー?」

「シッ」

 ヒューはエドガーの肘を掴んで書斎に滑り込んだ。何しろ広い屋敷だ。幸い警官たちは何処か遠くで捜索を続けているらしく周囲には全く姿が見えなかった。

 しっかりとドアを閉める。

 書斎は整然と片付けられていた。テーブルの上に戻された壊れたランプとその破片、インクが散って汚れた筆記道具類――

 これらだけが僅かに残る惨劇の痕跡だ。

「キース・ビー警部は真っ先にここを調べると言っていたものね。もう、ここは調査し終わったんだな」

 エドガーの問いかけには答えず、ヒューはきちんと元通りの場所に置かれた丸テーブルとイスに近づくと屈み込んだ。絨毯には零れた緑色のインクの染みが点々とついているだけ。死亡した男から出血がほとんどなかったため血の痕は見当たらない。

 絨毯をずらして覗き込む。

「やっぱりな」

「なんなのさ?」

「これを見ろ、エド」

 絨毯の下の床にうっすらと細い金色の線が引いてある。それはテーブルと椅子の周囲を円形に廻っていた。

「犯行現場を示すために警官が付けた痕?」

「馬鹿な。警察がこんな優雅な金粉の線を引くものか。それに、これは昨日今日刻まれたんじゃなくてもっとずっと古い痕だよ」

 ヒューはテーブルの背後の書棚に歩み寄った。並んでいる書籍を次々に引き抜くと、中を開くのではなく本のへり、上下左右を繁々と眺める。何冊目かで小さく叫んだ。

「これだ!」

「何、何?」

 飛びついてエドも叫んだ。

「ねぇ、説明してよ。僕にはちっともわからない。君は何を捜して、何を見つけたのさ? そしてそれは何を意味するんだ?」

「まず、キース・ビー警部を連れて来よう。『全て蜜蜂に告げよ』だ」

 ちょうどその時、書斎の窓から一台の馬車が門を出て行くのが見えた。御者台に座っているのはビクター・ホール医師。早朝、屋敷の料理人に呼び出され自ら手綱を取って駆けつけた医師が今、引き上げて行くところだった。

「うまいぞ、ちょうどいいタイミングだ」

 ヒューはエドガーを引っ張って書斎を飛び出し階段を駆け下りた。

 果たして、一階の玄関の前で医師を見送った警部と出合うことができた。

「おう、メッセンジャーボーイズ! 今帰るのかい? ご子息はどんな様子だった? 僕はこれから話を聞きに行こうと思うんだが」

 警部は肩をすくめて、

「老衰の家政婦長はともかく、又従兄弟は酷い有様さ。そっちもホール医師が付き添ってくれたんだが執事の言う通り泥酔状態で全く話にならない」

「警部、伝えたいことがあります。一緒に書斎へ来てください」

「書斎? あそこは真っ先に捜索は終えているぞ。残念ながら凶器は発見できなかった。今警官たちは侵入・脱出箇所を特定すべく一階の部屋と廊下、窓という窓を徹底的に調べている最中だ」

 そこまで言ってキース・ビーは言葉を切った。

「おい、まさか、君たち、何か見つけたのか?」

 クルリと背を向け階段を駆け上がるヒュー・バード、続くエドガー。警部は慌てて少年たちの後を追った。


「まず、これを見てください」

 ヒューは先刻エドガーにそうしたように丸テーブルの下の絨毯をめくって床に刻まれた細い金の印を指差した。

「最初、僕がこの書斎に入った時、室内は滅茶苦茶な状態だったので気づきませんでした。さっき帰り際に整然と片付けられたここを目にして、ハッとしたんです。それで、もしやと思って確認したら、予想通りこれを発見しました」

 ビー警部は全く腑に落ちない、という風に首を傾げた。

「この丸い線が何だと言うんだ?」

 エドガーが小声で同意する。

「ね? 僕も同じことを訊いたんですよ」

「警部、あなたがこれについて知らなくて・・・・・僕は嬉しいです」

 やや皮肉を込めてヒュー・バードは言った。

「丸テーブルと2脚のイス、その周囲に引かれた金の線――この線は円規コンパスを使ってかっきり直径5フィートで刻まれているはず」

「君は、長さまで正確に言えるのか?」

「言えます。だって、これは降霊装置だから」

 長い沈黙が室内に満ちた。

「この世紀末の今、一部の人たちの間で降霊会やそれに関わる儀式が大流行しているのはご存知ですよね? あなたの敬愛する名探偵の生みの親も熱心なひとりだ」

 言わずもがな、コナン・ドイルも幽霊を呼び出す心霊サークルの会員だった。これは全英国人周知の事実である――

 それについては言わないでくれ、というようにキース・ビーは大きく手を振った。

「そりゃ知ってるが、僕はコチコチの現実主義の合理主義者だ。幽霊なんて信じちゃいない」

「僕もです」

 力強くヒューは頷いた。

「父もそうでした。だからこそ、客観的な情報としてその種の書物や研究書を沢山所有していて、息子の僕も多少なりとも知識を得ました。ご存知ですか? 霊魂や幽霊関係の聞き取り調査書や報告書は聖職者や牧師の手になるものが圧倒的に多いんです。最も古いものは1767年に出版された『ウェールズに於ける霊の出現の話、付サンダーランドの亡霊奇譚』著エドマンド・ジョーンズ牧師、かな。それはともかく――今僕たちの眼前にあるのは明らかに降霊セットです。直径5フィートの円、内側に配したテーブルとイス、卓上にはランプと筆記道具。だが、欠けている物がある」

 ヒューは書棚に歩み寄った。

「だから、僕は探したんです。そして見つけた。これです――」

 ヒューが抜き取ったのは一冊の冊子だった。

 やや小ぶりの、オークと思われる木の装丁。高雅で優美だが古いものらしくところどころ虫喰いの痕が見受けられた。

「何故、それだと思うんだ?」

「降霊装置にはノートが必須だから。呼びだした霊の話を書きとめるためです。これがなくては完璧とはい言えない」

「いや、僕が訊いたのは、どうしてその冊子だと断定したかってことさ。この多くの書物の中で」

「簡単ですよ。ご確認ください、この本には縁に飛び散った緑色のインクの染みがある。丸テーブルが倒された時、上に乗っていたランプや筆記道具もろとも一緒に落ちた証拠だ」

 その通りだった! 差し出された冊子に付着した緑の染みをつくづくと眺めて警部は唸った。

「うーむ……」

「侵入者に襲われた時、リチャードはこれを読んでいたってこと?」

 エドガーの問いにヒューは首を振る。

「それはわからない。慣例として常に卓上においてあったのかもしれないから。唯、問題なのは、誰がこれを書棚に戻したか、だ」

 自分自身に問うようにヒューは呟いた。

「インクの染み痕から、これが一緒に床に落ちたことは間違いない。それなのにこれだけ書棚に突っ込んであった。誰が、何のためにそんなことをしたのだろう?」

 灰色の目がゆっくりと書斎を見回す。

「リチャードは首を絞められて失神した。首を絞めた男は背後から刺されて絶命。となれば、男を刺した第三番目の人物のしわざだろうか?」

「執事やメイドは何も触れていないと言っているものね」

「――」

 キース・ビー警部は改めてパラパラと冊子を捲った。数頁にびっしりと文字が書き連ねてある。記された文字は緑色だった。

「書かれている内容はじっくり調査するとして、まずはこの冊子について、襲われた時読んでいた物がこれなのかどうか子息に聞いてみる必要があるな」

 警部は二人に向き直った。

「君たち、もう一度僕と一緒に来てくれるかい? 友人の君らが傍にいたほうが彼も色々と話しやすいと思うんだ」

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