第8話

「ヒュー! エドガー! 来てくれたのか!」

 血の気の引いた顏ながら二人の姿を見るやリチャードはベッドから跳び起きて喜びの声を上げた。

 リチャードの部屋は書斎から一部屋置いた主屋左側だ。いかにも少年貴族の部屋らしく竜を倒す聖騎士ゲオルギオスの絵が壁中に飾ってあった。

「君たちにまで心配をかけてごめんよ」

「何言ってんだ」

 憤慨したように口を尖らせるエドガー。

「友達の身を案じるのは当然だろ」

「ともだち……」

 リチャードはエドガーとヒューの顔を交互に見つめて尋ねた。

「君たち、僕を友達に加えてくれるの?」

「当たり前だ。ロンドンの街を一晩一緒に走ったら友達だよ。知らないのか、このルール」

「知らないよ。なんていうルール?」

「メッセンジャーボーイルールさ!」

「そう、たった今エドが作った――」

 少年たちの顔を秘密めいた笑顔が煌めく。

 医師が付けてくれた太った看護師の方をチラリと見てからリチャードは小声で言った。

「昨夜、何があったか、聞きたいかい?」

 ヒューが神妙な口調で首を振る。

「いや、そういうことは訊かないよう――君を刺激してはいけないって医師に言われてるから」

 リチャードのパジャマの襟から覗く細い首。そこに残る浅黒い痣からヒューはそっと目を逸らした。

「後でこの件を担当するニュー・スコットランドヤードのキース・ビー警部が来るよ。彼に話すといい」

蜜蜂ビー警部?」

 グッドヴィル家の長男は面白がった。

「『全て蜜蜂に告げよ』か」

 ヒューもエドガーもニヤリとした。

「そう言えばそうだな。蜂の一刺し、ビー警部」

「でも、僕はやっぱり一番には、蜂じゃなく・・・・・友達に語りたいよ。聞いてくれ」

 看護師が整え直した枕を背にリチャードは語り始めた。

「昨夜、僕は父様の書斎に籠っていた。眠れない夜はいつもそうしてるんだ。丸テーブルに座って本を読んでいたら妙な気配がした。顔を上げると知らない男が入って来た」

「何処から?」

「ドアからだよ。そいつはいきなり僕に飛びかかって来た。僕は逃げようとしたけど、首を絞められて気を失った。気づくとエメットが僕を抱きしめて泣いていた。男が倒れているのが見えた」

 エメットはまた泣きだした。

「僕は平気だよ、もう泣くな、エメット」

「は、はい、坊ちゃま」

 ヒユーとエドガーに視線を戻してリチャードは低い声で訊いた。

「僕を襲ったあいつは死んだんだね?」

「うん」

「怖い思いをしたんだねぇ、リチャード。でも、君は凄く勇気があるよ」

 エドガーが讃える。続けてヒューがきびきび言った。

「顔を見ることができて良かった。君が元気そうなので安心したよ。じゃ、俺たちはもう行くよ。ゆっくり休んでくれ」

「帰る前に弟にも会ってやってくれるかい? 本のお礼を言いたがってたから。エメット、二人をジョイスの部屋へ連れて行ってあげて。僕の方は看護師も付いてるし、大丈夫さ」

「はい、坊ちゃま」


「わーい、ヒュー! エドガー!」

 兄に負けず劣らず弟もメッセンジャーボーイを見て喜びを爆発させた。パジャマ姿で飛びついて来る。

「雑誌をありがとう! すぐに兄様が読んでくれたよ。寝る前にもう一度エメットも読んでくれた。スッゴク面白かった! 喋り始めた人形は生意気で腹が立つけど」

 エドガーが噴き出す。

「ミミも同じこと言ってる」

「エメットさん、それでは私はこれで――」

 付き添っていた料理人が挨拶した。

「大急ぎで食事の用意をします。皆さん、朝食もまだでしょう?」

 ヒューは吃驚した。料理人と聞いて思い描いていた感じとはかなりかけ離れていたせいだ。太って赤ら顔のおっとりと優しいコックのおじさん……と思いきや、料理人ケネス・シムネルは中肉中背で均整の取れた体つきの青年だ。黒髪に端整な浅黒い顔が黒豹を思わせる。トパーズ色の優し気な瞳――

(そう言えば、元船乗りと言ってたな)


――海を渡って来た花嫁の母上のために父上が船上で雇ったんだよ


 ということは、元船乗りの料理人は雇われた当時はもっと若かったことになる。

「ありがとう、ケネス。警察の方たちもおられるから、菓子パン類ヴィエノワズリーは多めに用意した方がいいわ。一人で大丈夫?」

「大丈夫ですよ。料理は私の仕事ですから。あなたは坊ちゃま方に気を使ってやってください」

「ひゃあ! 素敵だね! これがドールハウスか!」

 傍らで沸き起こった歓声にヒューはメイドと料理人から目を転じた。

「リバティ百貨店デパートのウィンドウの中に見たことはあるけど、こんなに間近で目にするのは初めてだ。なんて綺麗なんだ!」

「凄いだろ? 全部母上のものなんだよ」

 少年は得意げに鼻を擦る。

「母上の少女の頃からのシュミだったんだって」

「全て君のお母さんが作ったの?」

「ほとんどは。でも細かいもの――シャンデリアとか、ペルシア絨毯とか、時計とか、書籍や食器なんかは専門の職人の手作りだよ。本物以上に高価なんだぞ」

「だろうな!」

 シャンデリアはクリスタル、時計や書物も全部精巧な本物だ。ただ小さいだけで。

「オルゴールや裁縫箱、工具箱まで揃ってるじゃないか。なんだか自分が巨人になって小人の国を覗いてる気分になる。ねぇ、ヒュー?」

「意外におまえが詩人だってのはわかった。この間の〈喋る火〉といい」

「ドールハウスは女の子の玩具なのに僕の部屋にあるのはおかしいと思うかもしれないけど、これは特別なんだよ」

 もじもじしながら小さなジョイスは言い訳をした。

「これは母上の宝物だから母上が帰るまで僕が責任を持って管理してるんだ」

「わかるよ。蜜蜂の世話同様、大切な役目だ。君みたいな立派な弟を持ってるリチャードが羨ましいよ」

 ヒューの褒め言葉にこれ以上ないくらい真っ赤になるグッドヴィル家の次男だった。

「えーと、管理だけじゃなくてホントはチョッピリ遊ぶけどね。そうだ、エドガー、君の妹も遊びたいなら遊んでもいいよ。妹はこれを見たら喜ぶ?」

「勿論、大喜びするよ」

「じゃさ、君の妹を連れて来てよ、一緒に遊ぼうよ」

「ハハハ、いつか、機会があったらね」

「明日? 明後日? ねぇ、エメット、おまえからも頼んでよ。妹がここへ来るように」

「坊ちゃま、ご無理を言ってはいけません」

「いやだ、僕、今すぐ妹というものに会いたい。そうだ、毛糸を窓から垂らしたら釣れる? 毛糸の先っぽにくっついて来る?」

「まぁ、なんてわけのわからない馬鹿なことを!」

 エメットは真っ赤になってメッセンジャーボーイに謝罪した。

「坊ちゃまが大変失礼なことを申してお詫びいたします」

「〝馬鹿な〟〝わけのわからない〟ことじゃないよ」

 ヒューが微笑んで言った。

「但し、毛糸玉で釣れるのは〈妹〉じゃなくて〈妖精〉だけどね」

「え?」

「スコットランドの古い伝承にあるんです。『窓から毛糸玉を垂らすと妖精が釣れる』良く知ってたなぁ! 物知りなんだね、ジョージ」

「兄様と同じようにジョイスって呼んで、ヒュー。これはね家政婦長のウェルが教えてくれたんだよ」

「坊ちゃま!」

 メイドが体を強張らせる。構わずヒューは続けた。

「へぇ? でもウェルさんは寝たきりなんじゃないのか?」

 ジョイスは首を振った。

「ううん、ウェルはちゃんと歩けるよ。邸中をアチコチ歩き回ってる。腰に下げた鍵束のジャラジャラ言う音で『来たな』ってすぐわかるんだ。僕のこと父上の名の『エドワード様』って呼ぶのは困っちゃうけど、許すよ。だっていつも面白いお話をしてくれるからね」

 ベッドに飛び乗るとジョイスはピョンピョン飛び跳ねる。

「この間も夜、ここに寝てる僕の横に腰かけて髪を撫でながら『西から来るのは赤い夢、東からは黄金の夢、月から降る降る銀の夢』って歌ってくれた!」

「それはおまじないだね。悪い夢を見ないための」

 ヒューは寝台の守護天使が彫られた四隅の柱を眺めながら思った。この子供用ベッドに一体何人のグッドヴィル家の子息たちが夢を紡いで来たのだろう。それほど寝台は年代物だった。

「古い伝承やおまじない――そうなんですか? 知りませんでした。すみません。私、田舎者で何にも知らなくて……」

「いえ、僕も父の残した蔵書でたまたま読んだんです。その種の伝承本は聖職者や牧師が数多く書き残しています。でも、現代では知らない人の方が多いですよ」

「ヒューのお父さんは教区牧師だったんだ。だからヒューもなんでも知ってるんです」

 今までこのセリフを何回行って来たことか、だがその度にいつも自分のことのように誇らしげに胸を張るエドガーだった。

「家政婦長のウェルさんは、その、徘徊なさるんです」

 白いエプロンを両手で揉み絞ってエメットは明かした。

「一日中静かにお休みになっていることもあれば、昼だろうと夜中だろうと歩き回る日があって……何しろ広いお屋敷なので何処にいるのか見つけるのが大変です。とはいえ、ずっと側についていることもできず……私も気をつけてはいるんですが」

「あなたは素晴らしいメイドさんですよ。僕の姉も同じ仕事をしているのでその大変さは知っています。姉は自分の仕事が大好きで誇りを持ってやっています。あなたを見ていると、改めて僕は姉を自慢に思います。あなたのご家族がそうであるように」

 喋り過ぎた、というようにヒューは帽子を深く被り直した。

「それでは、僕たちはこれで」

「えー、もう行っちゃうの? また来る? ヒュー、エドガー」

「また来るよ、ジョイス」

「喋るお人形、べべ・ジュノーのお話の続きを持ってね、ジョイス」

「妹もだよ、妹も一緒に連れて来てーーー!」


 次男の部屋を出た瞬間、ヒューは言った。

「気がついたか、エド、ジョージの部屋は正面左端だ」

「うん、僕らがあの夜、喋る火を見た辺りだね」

 その左端の部屋から二人は中央の階段へ引き返した。そこを下りれば正面玄関だ。だが、ヒューは階段を下りず立ち止まった。書斎の扉は開け放たれたままだった。その前へ行って、中を覗く。

 そのままヒュー・バードは凝結したように立ち尽くした。

「ヒュー?」

 常に行動を共にしている――ずっと一緒に夜の街を走って来たエドガー・タッカーである。

 だからこそ、友の様子の変化を敏感に感じ取った。ヒューは何かを見たのだ。ヒューをここまで緊張させるものとは何だろう?

 ヒューは今、一体何を見ている?



※聖ゲオルギオス(聖ジョージ)はイングランドの守護聖人。

※『英国古詩拾遺』1765トマス・パーシー/『インゴルズビー伝説、あるいは愉快と驚異』1840~1847/『ウェールズにおける霊の話。付サンダーランドの亡霊奇譚』1767エドマンド・ジョーンズともに聖職者、牧師です。

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