第6話

相も変わらず、宛名に記された受け取り人、兄弟が叔父と呼んでいるアンソニー・グッドヴィルの態度は横柄で尊大だった。

「遅いぞ、メッセンジャーボーイども。モルガン、こいつらにチップは与える必要はないからな。こういう連中は甘やかすと癖になる」

 チップ? もうそんなものなど期待していない。ヒューとエドガーは喋る火――すなわち明滅する信号に注意を払った。だが、この日の邸は闇に塗り潰されていた。地面から虫の音も聞こえない。今日はこれと言った異変はないようだ。帰ろうとしたその時、名を呼ばれた。

「ヒュー…… エドガー……」

「!」

 ギョッとして目を凝らす。門の側、樺の木の下に長男が立っていた。

「叔父上の酷い態度を謝るよ、ヒュー、エドガー、本当に申し訳ない。正確にはあの人は父のハトコだかマタ従兄弟イトコ――とにかく物凄い遠縁だそうだけど」

 リチャード・グッドヴィルは包みを差し出した。

「メッセンジャーの仕事は大変でしょう? 夜を徹して走り回ってお腹がすくんじゃないのか? それで、料理人に頼んで用意したんだ。ひょっとして今夜、君たちが来たら渡そうと思って――どうか、受け取ってほしい」

「うわっ、ありがとう」

 エドガーが声を上げる。満面の笑顔で受け取った。

「凄く、嬉しいよ、リチャード!」

 ヒューも帽子のひさしを押し上げて礼を言った。

「ありがとう。君、ずっと起きて僕らが来るのを待ってたのか?」

「そんなのなんでもないよ、僕は宵っ張りナイトホークだから。いつも眠れなくて本を読んでるんだ。君たちに会えて、差し入れをちゃんと渡すことができて良かった。じゃ」

「リチャード」

 引き返そうとした少年をヒューが呼び止めた。

「弟さんが言ってた、君、ローラースケートが得意なんだってね? だったら――勿論、君が良かったらだけど、明日、僕たちと一緒に走らないか?」

 閃光のようなウィンク。

「言うまでもなく、これは、悪行への誘いだぜ」

 暗闇の中で少年の弾む息遣いが聞こえた。その胸の鼓動までも。

「喜んで承諾する。ご一緒させてもらう。えーと、こういう場合、君たち生粋のロンドンっ子ならどう言うの?」

 エドガーが得意げに胸を反らせる。

「『乗った! 悪戯の仲間になる!』あるいは『その悪だくみにまぜてくれ!』さ」

「そうと決まれば、じゃ明日、この時間に迎えに来るから門の前で待っててくれ」

 クスクス笑いだけ残して疾風とともにメッセンジャーボーイたちは夜の彼方に駆け去った。


 翌日の深夜――その夜はリチャード・グッドヴィルのみならずヒューとエドガー、三人全員にとって特別の夜となった!

 ロイター卿のテレグラフエージェンシー社に出社するや、エドガーはヒューがテムズ川沿い、セントキャサリンズ・ドック近辺のメッセージを数本、慎重に選び出すのを黙って見守った。そう、今夜のメッセージ配達はカモフラージュに過ぎない。言い換えれば二人が運ぶのは孤独な貴族の少年への〈招待状〉ただ一通なのだ。

 約束した通り、リチャードは屋敷の門の傍で待っていた。

 気を利かせて狩猟用のグレイの上着ジャケット半ズボンニッカボッカーズ、ハイソックス、何よりピカピカのローラースケート。帽子はキース・ビー警部が見たら羨望で気絶しかねない最高級の鹿撃ち帽ディアハンターだ。

「帽子はこれが一番それらしかったんだよ」

 心配そうに少年は訊いた。

「どうかな、これで僕も君たちの仲間にみえるだろうか?」

「完璧だよ」

 ヒューが太鼓判を押した。

「初日のエドより堂に入っている。こいつときたら踏んじまうんじゃないかってこっちがビクビクするほどチビだったんだぜ」

「チェ、はっきり言うなぁ。そんなだから、君には僕しか友達がいないのさ」

「アハハハハ」

 笑い声を上げるリチャード。これで緊張がほぐれた。

「じゃ、行くぞ!」

 少年たちはロンドンの闇の中へ弾丸のように飛び出した。

 それは三人を祝福するかのように良く晴れて美しい夜だった。空をかすめて幾度も星が流れた。

「うわぁ! あれが新しい塔、タワーブリッジだね。完成したとは聞いていたけど、まさか、こんなにまぢかに見ることができるなんて!」

 夜空を突き刺す二つの塔は1894年に完成したばかり、イギリスが世界に誇る跳開橋だ。

「喜んでもらえて良かった。絶対これを見たいだろうと思って、こっちの方向の配達を選んだのさ」

 この光景、男の子なら胸が震えないはずはない。ヒューは指差した。

「あの巨大な姿! まさに現代のドラゴンだよな。跳ね橋の開閉は蒸気を利用してるんだぜ。水圧でシーソーのように跳ねては閉じる――」

 エドガーも誇らしげに目を細める。

「科学の力って素晴らしいよね! 僕らは凄い時代に生まれたんだ!」

「古い塔と一緒に眺めることができるのも面白い。歴史と未来、どちらも俺たちのものだ」

 ヒューの言う古い塔とはロンドン塔のことだ。こちらは1078年、征服王ウィリアム一世がテムズ川沿いの防衛のために要塞として築いた。その後、歴代国王の居城となり1530年代以降は武器庫、宝物庫、何より牢獄として使用された。その老いたドラゴンへ視線を向けてリチャードがクスッと笑った。

「僕の母上の先祖、シャルル・ド・ブロワって人は戦争でイギリス軍の捕虜になって9年間、あそこに幽閉されてたそうだよ。身代金を払って無事生還できたけどね」

 恐る恐るエドガーが訊く。

「それ、いつの話?」

「えーと、百年戦争の頃……1344年くらいかな」

 ヒューはガシガシと黒髪を搔きながら、

「ほらな、俺が言った通り、まさに歴史と未来が君の眼前にあるってわけだ」

 また星が流れた。

「見て、流星だ!」

「なんてことはない。流れ星は、ローラースケートを履いた俺たちよりずっと遅いぞ!」

「ヒャッホー! 僕たちこそ、ロンドン最速だーー!」

 なるほど。この夜、彼ら三人は最速だったかもしれない。好敵手のピーターパンが同じ風景の上を飛ぶのは更に9年先のことである。


「ありがとう、ヒュー、エドガー。僕は今夜のこと、一生忘れないよ」

 グッドヴィル家の屋敷の門の前に帰還するとリチャードは言った。

「君たちが一日分の仕事を棒に振って、今夜は僕につきあってくれたって知っている。もうこれで思い残すことはないや。大満足だ」

「大袈裟だよ。またいつでも、君が望む日に迎えに来てやるさ」

 そう言ってからヒューはさりげなく付け足した。

「なあ、リチャード、何か困った事があるんなら、俺もエドも力になるぜ」

 リチャードが答えるまで暫し間があった。

「ありがとう。その言葉だけで充分だ、嬉しいよ」

「そうだ、リチャード、これを」

 エドガーが上着とズボンの間に挟んでいた紙片を取り出した。

「弟さんに持って来たんだ。ホラ、この前、朝食を御馳走になった時に話した、僕の妹が最近気に入ってるハーパーズ・ヤングピープルのお話だよ」

「いいのかい? ありがとう! ジョイスが凄く喜ぶよ。うちにはカビの生えたような古臭い書物しかないから」

 リチャードはうやうやしく雑誌を受け取った。

「君と同じように僕が読んでやるよ。フフ、あいつもね、まだ字はあんまり読めないんだ」

 いつまでもこのままでいたかった。貴族の少年だけでなくメッセンジャーボーイの二人も、名残惜しくてその場を去りがたかった。だが、もう社に戻らなくてはならない。東の空が白み始めている。

 とうとうリチャード・グッドヴィルは言った。

「ごきげんよう、ヒュー、そして、エド」

「うん、じゃあな、リチャード」

「またね、リチャード」


 テレグラフエージェンシー社の前の路上にニュー・スコットランドヤードの黒塗りの警察馬車が急停車したのは、一日置いた翌々日の早朝。夜番の終業近い時刻だった。

「ヒューとエドガーは戻っているか?」

 室長から待機室に声が掛る。幸い二人は今さっき最終の配達を終えて帰って来たところだった。

「よし、表の馬車に乗ってすぐに行きたまえ。ニュー・スコットランドヤードのキース・ビー警部から緊急の呼び出した。参考人としてどうしても君たちが必要らしい」

「僕たちが?」

「参考人?」




※ジェームス・マシュー・バリーの戯曲「ピーターパン・大人にならない少年」の初演は1904年である。

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