第5話

「うーむ、興味深い話ではあるな、火の玉のモールス信号『注意せよ、死番虫』か……」


 1890年、ヴィクトリア・エンバンクメント通りに引っ越して名実ともにニュー・スコットランドヤードとなったロンドン警視庁。その新庁舎のオフィスで若き警部キース・ビーは唸りながら首を振った。


「だが、残念ながら現段階では僕たち警察が介入するのは難しい」


「えー」


 露骨に落胆の声を上げるエドガー、ある程度予想していたのか、ヒューは冷静に尋ねた。


「何か、もっと具体的な事件が起こらない限りは、と言うことですね?」


「そのとおりさ。冷たい言い方に聞こえるだろうが、その程度の巷の噂や風変わりな出来事で出動していてはきりがないからね。おっと、待ちたまえ――」


 帽子を被り直して立ち去ろうとしたメッセンジャーボーイたちを警部は慌てて呼び止めた。


「あ、ビスケットなら結構です。僕たち今朝はフランス流の豪勢な朝食で満腹なんです」


 今まさに机の抽斗ひきだしから封を切っていないマクビティの包みを取り出した警部は残念そうにそれを押し戻した。


「そうか。ビスケットは要らないのか。じゃあ、もう一つの方――」


 一層深く屈み込む。


「わざわざ興味深い話を提供してくれた君たちへのお礼に、現在僕が、自分だけの資料としてまとめている覚書おぼえがきから、その屋敷、グッドヴィル邸に関する情報を特別に教えてあげるよ。あくまでも僕個人のファイル――興味深い犯罪に関して書き溜めた私的な資料集だ。これを見せると言うことは君たちへの特別な信頼の証しだからな」


 相変わらず下手くそなウィンクをすると警部は机の一番下の抽斗から分厚い書類を取り出した。


「言うまでもなくグッドヴィル家はイギリス有数の貴族だ。記録によると1500年代から彼の地に居住している。実はあそこが幽霊屋敷だの呪われた館だのと騒がれるようになったのは今回が初めてではないんだよ」


「そうなんですか?」


「君たちは若いからな。その若い世代のメッセンジャーボーイの間でまたぞろ幽霊話が囁かれ始めたことに僕は非常に興味を感じているのさ」


 順を追って話して行こう、と言って警部は頁を繰った。


「新しい部類の記録では、先代の奥方メアリー・グッドヴィル――この人はスコットランドのお姫様らしいよ。彼女が長患いの末に亡くなったのが1881年。およそ16年前になる。だが、不吉な噂が囁かれ始めたのはここからではない。翌年、一人息子が悲しみを癒すために過ごしたフランスのパリで恋に落ち花嫁を連れて帰国した。お相手は、あちらの由緒正しい貴族の令嬢……」


 ここで警部はちょっと肩をすくめた。


「先代奥方はスコットランドのお姫様、そして今度はフランス貴族――まぁ、貴族って奴は今日に至るまで欧州中のいろんな青い血が入っているからな! さて、1年後、長男が誕生、9年後には次男も生まれる」


 ヒューが口笛を吹く。


「順風満帆だ。全然幽霊の出る余地なんてないじゃないですか」


「この後だよ、一家が矢継ぎ早に不幸に襲われ良からぬ噂が飛び交うのは」


 警部の顔に強張った微笑が浮かんだ。


「次男が生まれたその同じ年に祖父である先代当主が急逝した。これが少々不可解な死に方だった」


 先代当主ヘンリー・グッドヴィルは明け方、庭の池で溺死体で発見された。検視の結果、事故死と認定された。


「池はきっちり長方形、白い縁石で囲った英国庭園式、さほど大きくも深くもない。しかも屋敷には大勢の召使いや家族が住んでいる。誤って転落したとして、水音なり悲鳴なり、異変に誰も気づかなかったとは奇妙だ。もっと言えば」


 警部は指を一本立てる。


「実は先に亡くなった夫人もこの池で亡くなっているのだ」


「先代夫人は病死ではなかったんですか?」


 ヒューの質問に咳払いをしてから警部はむっつりと答えた。


「病気を苦にしていたのは事実だ。しかし実際は投身自殺だった。当時の内部資料によると、家柄への配慮から病死と発表されたようだ。特に事件性がない場合、貴族階級へのこの種の対応はよくあることだ」


 二度目の不器用なウィンク。


「だが、僕が当時の担当なら、疑問を抱いたろうな。夫人は結核性カリエスで数年来寝たきりだった。どうやって庭の池まで行って飛び込むことができたんだろう? まぁいい、先を続けるよ」


 キース・ビーは書類に戻った。


「先代当主の、二度目の池での溺死の後、不幸はグッドヴィル家に容赦なく襲い掛かる。まず、不気味な出来事に嫌気がさしたのだろう、次男を出産したばかりの新当主夫人が先代の葬儀後、失踪した。警察にも失踪届けが出され、夫人の母国フランスの警察ともども手を尽くしたものの杳ようとして行方はわからないままだ」





――母様はフランス人だったんだよ。


――過去形で話してはいけないよ、ジョイス





「この時、次男は未だ乳飲み子だし長男も10歳。それで急遽、家庭教師ガヴァネスが雇われたが、この家庭教師も一年半後、失踪してしまった。夫人同様、未だに消息は不明」


 ヒューとエドガーが相次いで驚愕の声を上げた。


「そんな馬鹿な! 同じ館から夫人と家庭教師、二人のご婦人が続けて失踪なんて」


「そういうことってあるんですか?」


「これで終わりじゃない」


 警部は淡々と読み上げる。


「爵位を継いだばかりの若き当主エドワード・グッドヴィルが家庭教師失踪の半月後に、急死している」


 メッセンジャーボーイたちが何か言う前に、警部は恐ろしい事実を告げた。


「死因は溺死。場所は屋敷内の池。これで3人目の不可解極まりない奇妙な死だ」





――父様の時は、僕はまだ小さかったから、兄様が黒い喪章を巣箱に結んだよ。





「あそこ――グッドヴィル家が幽霊屋敷だの呪われた館だのと騒がれる理由がわかっただろう?」


 キースビー警部補はパタンと個人用犯罪記録のファイルを閉じた。


「そういうわけで、実際今日、君たちが新しい情報を持ってやって来た時、僕は身震いしたんだ。この震えは恐怖からじゃない、武者震いだ。長らく放置されてきた〈謎〉の解明に手が付けられるかもしれないという興奮と期待だ」


 椅子に背を戻し警部は少年たちをじっと見つめた。


「だがいかんせん、まだ足りない。警官である僕が踏み込むにはもう少し、確たる、決定的な情報モノが必要なんだよ」


「グッドヴィル屋敷に関しての詳細をお教えくださりありがとうございます。おかげで事情が良くわかりました」


 今度こそ、勢いよく立ち上がってヒューが言った。


「今後は僕たち・・・もあの屋敷について、細心の注意を払って対応して行こうと思います」


「但し、くれぐれも危ない真似はするなよ、メッセンジャーボーイズ!」





 こういうわけだから、その日、夜番として出勤した時、グッドヴィル家へのメッセージの配達があると知って(プレミア便ではなかったが)ヒュー・バードは迷わずそれを掬すくい取った。


「これは僕とエドが届けます」


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