第2話

 幽霊屋敷からの帰り道、無言で疾走するヒューの背中だけを見つめてエドガーはガムシャラに走った。

 そのヒューは、社に戻るといつもと何ら変わることなく黙々とプレミア便を配達し続けるではないか。

 それで、退社時間が迫る頃にはエドガーは結論付けるに至った。つまり、揶揄からかわれたんだと。

 件の屋敷での体験は全て気の迷いだった。僕の恐怖心が生んだ妄想の産物。やたらにビクビク怯える弱虫の僕を面白がってヒューはあんなことを言ったんだ。

 ――火の玉はこう囁いている。『注意しろ、死番虫に』

 なんてこった! 僕は幽霊ではなくヒューに化かされたんだ……

「お疲れ!」

「お疲れ様――」

「また明日な!」

 夜が明けた。夜番のメッセンジャーボーイたちが三々五々家路につく中、ヒューはエドガーの腕を掴んだ。

「じゃ、行こうか」

「え? どこへ?」

「勿論、幽霊屋敷さ。決まってるだろ、〈喋る火の玉〉を見たあそこだよ」

「てことは、夢じゃなかったのか? 昨夜見た、あれは全て現実なんだね? ポッポッと瞬く火の玉とカチカチと響く奇怪な音――あれは僕だけじゃなく、君もちゃんと体験したのか?」

 安堵してホッと息を吐いた後でエドガーはヒューの腕を振り払った。

「それだけ聞けばいい。僕は金輪際こんりんざい、あそこへは行きたくない。あんな体験二度と御免だ。もう一回、あの鬼火を見たら怖くて眠れなくなっちゃうよ」

「馬鹿だな、エド」

 とんでもなく優しく笑いながらヒューは言った。

「火の玉の謎を解かなかったら――それこそ気になって、俺が眠れなくなっちゃうだろ?」


 昨晩の邸へ行き着くまで多少時間がかかった。これは仕方がない。日中ロンドン市内でのローラースケートの使用は禁止されているからだ。二人はローラースケートを肩に掛けてテクテクと歩いた。

 目指すグリーンパークは、チャールズ二世の狩猟場を1826年に王立公園として一般に開放した区域だ。だだっ広く何処までも樹々と草原が続いている。その果てに突如、屋敷は現れた。

 朝の光の中で見るそれは昨夜とは幾分違った印象だった。

 いかにも1600年代、ジャコウビアン時代を象徴する白い隅石に赤い煉瓦の外壁、葱花型の屋根を乗せた塔……

 古い建物ではあったが荘厳で優美だ。全然おどろおどろしくはない。その上、奇怪とは縁遠い可愛らしい声が聞こえて来た。

「おはよう、みんな! 好い朝だね? 君たちも元気かい? 僕も兄様も元気だよ!」

 広大な屋敷に槍兵の化身のごとく張り巡らされた鉄の柵の向こう、蜜蜂の巣箱が置かれていて少年がひとり、しきりに蜂たちに話しかけている。

「昨日はね、僕と兄様はお庭で遊んだよ。ケネスの焼いたブリオッシュは最高に美味しかった。叔父上は酔っぱらってまだ寝てる。起きてる時も酔っぱらってるけどね。僕は、母上のドールハウスをひっくり返してしまった。でもエメットは叱らずに一緒に元に戻すのを手伝ってくれた。僕は優しいエメットが大好きさ――あれ、君たちは誰?」

 ヒューとエドガーの姿を目にするや、少年は鉄柵へ駆け寄った。

「待って! 僕知ってるよ、その服装――灰色の上着に半ズボン、そして帽子キャスケット! 君たちはメッセンジャーボーイだね? 叔父上にお手紙を届けに来たの?」

 笑い返してヒューが答える。

「違うよ、僕らは今、仕事を終えて家に帰る所さ。でも、メッセンジャーボーイってのは当たってる。物知りなんだね、君」

「お庭や部屋の窓から見たことがあるよ。わー、肩に掛けている、それ、ローラースケートだね、カッコイイ! 兄様もね、ローラースケートを持ってるよ。ときどき、僕にも履かせてくれる。でも僕はまだ上手には滑れない。あ、待ってて」

 少年は巣箱を振り返って蜜蜂に告げた。

「今、僕はメッセンジャーボーイとお喋りをしてる。以上、報告終わり」

 再びこちらへ顔を向けた少年にヒューが言う。

「偉いね! 君が蜜蜂の世話をしているんだね?」

「そうだよ、僕が蜜蜂のお世話係なんだ」

 少年は得意そうに瞬きした。水色の瞳、赤味のある金髪。年齢は5歳くらいだろうか。

「毎日、家で起こったことを教えてやらなければならない。蜜蜂は聞きたがるからね。特にお葬式の話はどんなに忙しくても忘れちゃだめだ。父上の時は――僕はまだ小さかったから兄様が話して、ちゃんと黒いリボンを巣箱に結んでやったんだよ」

「ジョイス!」

 ここで声。もう一人、少年が草を踏んでやって来た。

「吃驚した、人がいたのか? てっきり蜜蜂と話してると思った――」

 近づいて来た少年はヒューやエドガーと同じくらいの歳に見える。背はヒューより低くエドガーより高い。最初の少年によく似たお日様の色をした金髪、空色の瞳。

「失礼しました。初めまして、僕はリチャード・グッドヴィル。この家の長男です」

 少年は、はにかみながらも貴族らしい品の良い口調で自己紹介をした。すかさずヒュー、帽子を取って、

「こちらこそ、初めまして。僕はヒュー・バード、こちらはエドガー・タッカー」

 エドガーが付け足す。

「僕たちは通りすがりのメッセンジャーボーイです」

「弟がご迷惑をおかけしたのでなければいいのですが。弟は家の者以外とはあまり話したことがないので。それを言うなら、僕もですが」

「迷惑だなんてとんでもない。凄く上手に蜜蜂の世話をしているので、褒めたんです」

「見てよ、兄様! 僕が捕まえたんだ、本物のメッセンジャーボーイ2匹だよ!」

「ジョイス、2匹じゃない。二人・・だよ。人間は虫とは違う。〝ひとり、ふたり、さんにん……〟と数えるんだ」

 二人を振り返って、

「ほらね、やっぱり失礼をお詫びします。でも――凄いな! 僕もメッセンジャーボーイとこんなに近くでお会いするのは初めてです。なんて光栄な日だろう!」

 兄も弟と同様に目を輝かせた。

「そのローラースケートでロンドン中を走り回っているんですね!」

 ヒーローのような言われ方だ。流石にヒューもエドガーも頬を染めた。と、ここで新たな声。

「リチャード様、ジョージ様、お食事の用意が整いました」

 今度現れたのは、お仕着せの黒い服に白いレースのエプロンを付けたメイドだった。小さくまとめた栗色の髪にもレースのバンドを結んでいる。

 思わずエドガーは憧れの人を思い出した。ヒューの姉もこんな感じだ。綺麗で優しくて品が良い。名家に勤めていて奥様に寵愛されている。尤もアンジー・バードは弟に似て背が高い。この家のメイドは小柄だった。

 兄弟を呼びに来たメイドは鉄の柵を挟んで立つ見慣れない少年たちを見てハッとして足を止めた。

「お客様でしたか? 大変失礼いたしました」

「お客様! その通りだよ、エメット!」

 意を得たり、とばかりにリチャード、

「こちらはヒューとエドガー。僕らのお客様・・・・・・だ。ちょうどいい。お二人とも朝食を一緒にいかがです?」

 メイドから二人に顔を向けてリチャードは誘った。

「こんな機会はそうはありません。弟も喜びます。もちろん、僕も!」

「え? え?」

 予想外の事態にまごつくエドガー。ヒューは落ち着き払って応じた。

「では、お言葉に甘えて」

 貴族の朝食に招待されたメッセンジャーボーイはこの二人が初めてかもしれない。ましてそこが噂の幽霊屋敷、呪いの館と来ては。

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