第3話
ヒューとエドガーは屋敷の長男リチャードに導かれるまま邸内に入った。
門から長い馬車道――昨夜は暗い中、ローラースケートで一気に駆け抜けたがここがまずとんでもない長さだった! 馬車で乗り付ける客人のためのこの前庭の広さこそ屋敷の格を表すのだ。馬車道を抜けると屋敷の左脇の庭園入口へ進む。
玄関から入るよりこちらの方が目指す部屋に近いらしい。但し〝近い〟と言っても程がある。屋敷の壁に沿ってずっとボーダー花壇が続いていた。
ボーダー花壇は手前に低い花、奥へ行くほど背の高い花を植えるスタイルを言う。青、白、赤、ピンク、色取り取りの花たちが初夏の風にさざめいてさながら妖精がダンスしているよう。花壇の
普段からヒューとエドガーは仕事でたくさんの豪邸を見知っている。だが、あくまでもそれは表玄関までのこと。こんな風に邸内深く足を踏み入れるのは初めてだった。
建物の壁が尽きると中央に長方形の池があり、池の手前から屋敷の左右中央へとT字型に屋根付きの回廊が伸びていた。さっき花壇沿いの小径を歩いていた際、左側に眺めた東屋と同型の東屋が池を挟んで右側にも建っている。
東屋―池―東屋。このシンメトリーの風景の向こうはイチイの樹々が一列に植えられて涼しい木陰を作り、それが尽きる右端はこんもりした森に続く。
元々王室の狩場だったグリーンパークとこの屋敷の境界線がわからないほど宏大な庭園だ。兄弟が『屋敷から外へ出たことがない』と言うのも大いに納得できる。
屋敷の左翼最奥に
ここは日常使いの食事の場所らしいが――素晴らしかった。
生涯でもう二度とこんな処へ来ることはないだろうから、絶対、両親や妹に詳しく話してやろうと、エドガーは目を皿のようにして室内を見回した。
まず部屋の中央に細長いテーブル。正面突き当りに、ここへ来る途中で通った花の小径を見渡せる大きな窓がある。窓枠を縁取るように今盛りの
右側は全面が窓でそこからは回廊やその先の池が見える。これら二面の窓のせいで食堂は明るく、広々として気持ち良かった。
昨夜、玄関で会ったあの古色蒼然とした執事が入って来た。テレグラフエージェンシー社の制服を纏った若い客人たちを見ても、内心どう思っているかはさておき執事は眉一つ動かさなかった。
当主の席は空けたまま兄弟が向かって左側に並んで座り、その真向かいにヒューとエドガーが座る。エドガーは息を飲んだテーブルの真ん中に虫がいる……!
すぐにそれが置物だと気づいた。拳くらいの大きさの銀製の虫。
とはいえ、虫に気を取られていたのは一瞬だった。先刻のメイドがワゴンを押して料理を運んで来た。次々に並べられる皿に目が釘付けになる。
「驚かれるのも無理はありません。ウチの朝食はフランス式なんです」
と兄。弟が続けて、
「母上はフランス人だったんだよ」
「ジョイス、過去形で話してはいけないよ。弟が舌足らずですみません」
兄が言い直した。
「僕たちの母はフランス人なんです」
「父上と母上はパリで出会ったんだ。これは過去形で大丈夫、兄様?」
テーブルの上の大皿、曰くヴィエノワズリ――クロワッサンやブリオッシュ、ビスコット類を示してリチャードが勧めた。
「どうぞ、お好きにお取りください。毎朝、僕たちもそうしているんです。お口にあうといいのですが……」
その他、各人それぞれの前にはオムレツとベーコンの皿、サラダの皿、オレンジジュースに檸檬の香る冷たい水……食後には紅茶とカフェ・オレが供された。
どれもこれも最高だった。エドガーは率直に感想を述べた。
「僕、フランス流朝食は初めて食べたけど、サイコーに美味しいです!」
「ありがとうございます。うちの料理人は我が家の誇りです」
「花嫁として海を渡ってやって来た母上のために父上が船上で採用したんだ。元船乗りの料理人だよ」
「ほんとに、美味しかった! 妹にも食べさせてやりたいな!」
「凄い! 君、妹がいるの?」
弟、ジョージ(愛称はジョイスのようだ)が身を乗り出す。
「女の子ってお砂糖とスパイスでできてるんでしょ?」
「それはマザーグースだね? フフ、そういう物でできてるかどうかはともかく、僕の妹は僕よりしっかりしてる。歳は五歳だよ」
「わー、僕と同じ歳だ!」
いよいよ質問攻めになる。
「ねぇねぇ、女の子はどんな絵本を読むの? 玩具はどんなものが好き? 鬼ごっこはする?」
「鬼ごっこは大好きだよ。でもあんまり外へ連れて行けなくて大抵は部屋の中で遊んでる」
「あ、そこんとこは僕と一緒だ、僕もお外へは出たことがない」
「うちは蜜蜂は飼っていないから、いつもお人形とお喋りしてる。最近のお気に入りの本は〈ベベ・ジュモー生命を宿す〉、ハーパーズ・ヤングピープルって雑誌に連載されたお人形に命が宿る話さ。字が読めないんで僕が読んでやるんだけどね」
「うわぁ、面白そう!」
「すみません、変なことばかり聞いて。弟は同年齢の友達がいないので寂しいんです。僕も同じだけど」
兄がホウッと溜息を吐いた。
「きっと君たちにはたくさんの友達がいるんでしょうね、羨ましいです」
「いえ、僕も友達はこの、エドだけです」
「そこは、そんなにきっぱり言うなよ、ヒュー」
一瞬の沈黙の後、食堂に笑い声がこだました。執事は相変わらず身じろぎもしなかったがメイドはサッと涙を拭ったように見えた。
「いいな! つまり、君たちは親友なんですね? お住まいは近いんですか? お隣どうしとか?」
「エドはサヴィル・ロウ、僕はソーホーです」
「ソーホー!」
今度身を乗り出すのは兄の方だ。
「ソーホーと言えば詩人で画家のウィリアム・ブレイクが生まれたところだ!」
「ブレイクが好きなんですか?」
「好きです。でも、不気味なレッドドラゴンや月の女の絵は怖くって難解で僕にはわからない。そういうのではなくて、僕が好きなのはブレイクの優しい詩や絵です」
リチャードは暗唱した。
「『天使たちは隊列をなし/見えない姿で歩きながら/皆を祝福して回る』」
即座にその先をヒューが続ける。
「『天使は洞窟の獣たちが/無事であるように気を配る』……〈夜の歌〉ですね、ブレイクの詩集「無垢の歌」の中にある」
「知ってるの? わーお、凄いや! そのご本、父上の書斎にあるんだよ」
エドガーが誇らしげに、
「フフ、ヒューのお父さんは教区牧師だったんだ。だから、ヒューも物知りなんだよ」
「女々しいって、笑わないでください。父上が死んで以降、僕はブレイクの詩をよく一人で
リチャードは赤い髪を搔き上げた。
「〈見つかった男の子〉も好きです。『寂しい沼で迷子になった男の子/揺らめく光を追いかけて/泣いた。でも神様が傍に付き添って/お父さんの姿で現れた/
お父さんは子供にキスして/手を引いてお母さんのところへ連れて行ってくれた』」
今度もヒューが最後を締めくくる。
「『お母さんは悲しみに青ざめながら/谷間中あなたをさがしていたのよ』」
「坊ちゃま……」
突然、メイドは顔を押さえて泣き出した。そのまま部屋から走り去った。執事はピクリとも動かなかったが。
「あーあ、エメットは泣き虫なんだよ」
ジョージが口を尖らせる。
「いつもすぐ泣いちゃうんだ。僕を抱きしめて『お可哀想な坊ちゃま!』」
エドガーが言った。
「優しいメイドさんですね!」
「リチャード、君は女々しくなんてないよ」
ヒューが言った。
「皆同じだよ。僕も父を亡くした時、その詩を思い出した」
「君も!? お父上を亡くしているのか?」
ヒューは頷いてから、静かに椅子を引いて立ち上がった。
「素晴らしい朝食を御馳走様でした。またとない体験を味合わせていただきました。では僕たちはこれで失礼します」
慌ててリチャードも席を立つ。握手の手を差し伸べて言った。
「僕たちこそ――素晴らしい
※ウィリアム・ブレイクの詩は壺齋散人氏の訳を使用しています。
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