死番虫 DEATHWATCH

sanpo=二上圓

第1話

 1841年、ロイター卿はロンドンに通信社を設立した。10歳から17、8歳の少年たちに揃いの制服を着せ一日三交代制で途切れることなく電報メッセージを配達させた。

 特に圧巻は夜組だ。寝静まったロンドンの街を少年たちはローラースケートを履いて縦横無尽に駆け巡った。

 1866年、ドイツ・イギリス間に海底ケーブルが施設されるとロンドン市内は少年たちが、それより遠距離の市外では伝書鳩が最速の情報配達を担って活躍した。

 だが、急激な電信技術の発達で彼らの栄光の時代はあっけなく幕を閉じる――

 これは19世紀末、歴史の狭間を駆け抜けたテレグラフ・エージェンシー社のメッセンジャーボーイの物語である。


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「あの音は何、兄様? ほら、カチカチカチ……」

「さぁな、気のせいだよ」

「ねぇ、兄様、僕たち、いつかここから出られる?」

「勿論だよ。何を心配してるんだ?」

「僕、聞いたんだ。ここは死の館だって。たくさんの人が死んだんだよ。だから、僕たちもここで死んじゃうって……」

「大丈夫さ。僕たちは必ず出られる。信頼できる人が助け出してくれるよ。それより――さあ、今夜も庭で遊ぼう。追い駆けっこをするぞ、おまえが鬼だ、僕を捕まえてみろ!」

「わーい、兄様、待ってよ…… 待って……」

 階段を駆け下り兄弟は庭へ飛び出して行った。

 月だけが優しく二人を見下ろしている……

 



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「来たな、ヒュー、エドガー、待ってたんだ。早速だが今日は真っ先にこれを届けてくれ」

 季節は夏至に近い6月。その日、テレグラフ・エージェンシー社の夜番に出社早々、配達室長が差し出した封書を見てヒュー・バードとエドガー・タッカーは面食らった。

「これを? 僕たち・・・が、ですか?」

「そうさ、君たち以外いない」

「でも、これ、普通便ですよね?」

 社の決りで、最速で届けるプレミア便には配達者に3ポンドのボーナスが出る。社内一の飛ばし屋ヒュー・バードに回されるのは常にそれだ。それなのに今、室長が差し出した封書は何の変哲もない普通便――オーストラリアの銅山会社から 十把一絡ジッパヒトカラげに届いた株価の通知。こんなのは誰でも配達できる。そう、駆け出し向きの仕事じゃないか。

「困ってるんだよ。皆嫌がってここへ配達する者がいないんだ。だが、我が社のホープ、君たちなら大丈夫だろ? 頼んだぞ!」

 わけのわからないまま電報を託され、背中を押されて送り出される。廊下へ出るや、様子をうかがっていたらしく二人の周りにどっと同僚が集まって来た。

「まさか、受け取ったのか、ヒュー?」

「やめといた方がいいぜ。いくらおまえでも後悔するぞ」

 皆、一斉にまくし立てた。

「グッドヴィル屋敷、あそこは曰く付きの呪われた館だ!」

「正真正銘の幽霊屋敷だぞ!」

 純情なエドガーが飛び上がる。

「ゆ、ゆうれいやしき?」

「知らないのか、エド、実際もう何人も恐ろしい目に合っている。ニックは、浮遊する真紅の衣装をまとった首なしの幽霊を見て腰を抜かした。ハリーは地の底から響く奇妙な音を聞いて一目散に逃げ出し、足首をくじいちまった。ロドニーを見ろよ、こいつのたん瘤はチカチカ瞬く鬼火に吃驚仰天、転倒してできたんだ」

「やっぱりな、室長の様子から何かあるとは思ったが――」

 ヒューはたった今受け取った手中の封書をヒラヒラ揺らして微笑んだ。

「それを聞いては、行かないわけには行かないな!」


 寝静まった夜のロンドンはメッセンジャーボーイの世界だ。日中、道路を占領している辻馬車や荷車は消え失せて、その中を疾風のように闇を斬り裂いて行く。この爽快さがたまらない。まさに夜を独り占めした気分。とはいえ、今夜は……

「ねぇ、ホントに行くの、ヒュー?」

「当たり前だろ、行くとも! どうした、エド、スピードが鈍ってるぞ。そんなんじゃ、いつになっても俺を抜くことはできないぜ」

 社内1の走者ヒューを〝堂々と抜き去ること〟それこそがエドガーの夢だった。だから入社以来、ずっと憧れのヒューの背中だけを見つめて走って来た。その熱い思い、挫けない心に今ではヒューも相棒と認めている。そもそもこの二人、見た目も性格も好対照だ。背が高く大人びている黒髪のヒューはクールで人を寄せ付けない。一方、エドガーはクルクル巻き毛の金髪。屈託がなくて天真爛漫な上、チビで童顔なので幼く見える。でも、『可愛らしい』とは言わせない。度胸と走りには自信がある。つもりなのだが――

 いかんせん、今夜ばかりは体が重い。颯爽となんか走れない。

「正直言うとさ、ヒュー、僕は怪談話は大の苦手なんだ。幽霊なんて見たくないよ」

 そうは言っても二人は社内最速だ。あっという間に目的地に至った。ピカデリー大通りを横切った先、暗く静まるグリーンパーク……

「なるほど! こりゃ、いかにもって建物だな!」

 二人の目の前に現れたのは堂々たる大豪邸だった。叢雲むらくもの隙間から顔を出した気まぐれな月が見せてくれた限りでは、ジョージ朝に流行ったパッラディオ様式、いわゆるイングリッシュバロックの、〈城〉という方が近い館である。

 豪奢なカーテンのせいだろう、窓という窓はどれも闇に沈んで明かりは一切見えない。

 ヒューは門を抜け、長い馬車道ドライブウェイを一気に玄関へ。古雅な真鍮のライオンのノッカーを掴んだ。

「こんばんは! テレグラフ・エージェンシーです。メッセージをお届けに参りました!」

「ご苦労様」

 すぐに扉が開いて燭台を掲げた執事が姿を現した。ゴクリ、背後でエドガーが唾を飲み込む。この執事こそ幽霊そのものではないか! 百年前からやって来たと思わせる白い巻き毛に頬髭、黒の燕尾服、半ズボンに絹の長靴下、しめはパンプスという古色蒼然たるいで立ちである。

 その絵に描いたような執事が受け取る前に、封書がフワリと浮いた――

「遅いぞ、何処で油を売っていた? 〝最速のメッセージをお届けします〟は誇大広告だな。おまえらメッセンジャーボーイは揃いも揃って大嘘つきの怠け者だ!」

 執事の後ろからニュッと現れたこの家の主人――枯れ木のように痩せた体に絹のスモーキングジャケットをまとい片方の手にはブランデーグラスと葉巻を持っている――が残る方の手で封書をかすめ取ったのだ。

「さあ、帰れ。モルガン、こんな怠慢なメッセンジャーどもにチップなんぞ与える必要はないからな。甘やかすと癖になる」

 荒々しく閉じられた扉。馬車道を引き返しながら聡明なヒューがパチンと指を鳴らした。

「見たか、エド、幽霊の正体なんてこんなものさ。仲間がここへの配達を渋るわけだ。当主が横柄でケチだから、ここへ届けてもチップもくれず稼げない。でも会社にはそうとは言えないから、幽霊話で労働放棄ボイコットをしてるってわけ。俺だって明日からはきっぱりと断るからな。こんな恐ろしい、身の毛がよだつ妖怪、その名も〈守銭奴〉の住む屋敷に二度と来るもんか!」

「ヒュー……」

「なんだよ、痛いぜ、そんなに肩を引っ張るなったら」

「ヒュー、あれ……あれは何?」

「?」

 足を止め同僚の見ている方へ顔を向ける。そこは屋敷の二階左端、ポッ、ポッポッと浮かび上がる赤い火の玉――

 燭台の灯とは明らかに違う、その怪しい鬼火は息をするように明滅している。

 傍らに立つエドガーはガクガク震えながら、

「そ、そ、それにこの音は何? 何処から聞こえるの?」

「音?」

 カチカチカチ…… 

 馬車道の脇の芝生の中だ。誰かが落とした時計だろうか? 馬鹿な、そんなはずはない。でも確かに聞こえる。まるで地の底から響いて来るように時を刻む音が。

 カチカチカチ……

 屋敷の左端では再び赤い火が明滅している。

 ポーポッポッ……ポッ……ポッポー……

 もう限界だ。我慢できずヒューにしがみついてエドガーは絶叫した。

「出たぁ! 火の玉だ! 見ろよ、囁くように光ってる! モノ言う火の玉だあああ」

「上手い表現だ」

 静かな声でヒューは言った。

「確かにあの火は喋ってる……」

 この期に及んでも冷静沈着な相棒に称賛を惜しまないエドガー。

「凄いや! 君が牧師の息子で、博学なのは知ってたけど、まさか火の玉の声まで聞き分けることができるとは……!」

 裏返った声で、

「そ、それで、な、な、なんて言ってるのさ?」

 ヒューは目を細めて、ゆっくりと囁いた。

「火の玉はこう言っている。WATCH……DEATHWATCH……」


 WATCH DEATHWATCH 注意しろ 死番虫シバンムシ


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