甘茶と墨蹟
四月。
阿蘇社でも
四日に
で、小次郎は下宮の祭りへ行くことにした。禁じられているわけではなく堂々と行けばいいのだが、今年は知り合いに見つかるのが何やら気まずいように思った。
「兄上、一人で行かれるのですか」
馬に鞍を着けていると、弟の一人が声を掛けてくる。当然である。
「ああ、うん、ちょっと約束があってな」
自分の耳で確認しても、これは空々しい嘘だと思う。この言い回しで嘘だと判らなかったら、元服して世の中で生きていけないのではないだろうか。
案の定、弟は疑いの色を浮かべた目をしている。大丈夫だ、生きていける。
「まあ、我らは、では別に参りますが」
弟は、腰に提げたそれとは別の、馬の
「甘茶で墨を磨っても、急に字は上手くなりませんと、先生が仰っていらっしゃいました」
小次郎は苦虫を噛み潰した。
別にそこまで信じてはいないが、使えるものは何でも使いたいし、あやかれるのなら何にでもあやかりたいのである。
◇◆◇
佐保姫が誰なのか判ってから、悩んだ。ここまで悩んだことは、小次郎の人生ではっきり言って、無い。
親戚とはいえ相手は主家の姫である。都の貴人などでなくて良かったのかも知れないが、変に諦めきれない位置付けだ。
三日考えて、諦めた。このまま自分の中で消化して諦めることを、である。
幸いというべきか不幸なことにというべきか、大宮司館は目と鼻の先だ。
とはいえ、深窓の姫、さすがに直接会えるような相手ではないので、
まず、犬追物の時の非礼を詫び、どこか痛めたところが無いか気遣う、それだけの文を書き、もし万一返事をいただけたら、その時はそれに対して返事を出そう。
それで、文案をどうしようかと、反故に書いてみたのだが。
これほど、自分の字のまずさを後悔したことも、今までの人生で無かった。
そもそも書いた先というか、もはや今書いている字がもう目に入るなりまずい。内容がいくら良かったとしても、この字のまずさは読む以前にきっと字として認識してもらえない。
文案以前に、字の練習で反故は真っ黒になった。
十日練習して、一向に自分で自分の字が許せる水準に達しない。
どうして、手習いの時にもっと真面目に練習しなかったのか。自分でここまで自分に絶望したことはない。この短期間で怒濤の無いない尽くしである。
そんな時、もう風逐いだと井手や手野の辺りがばたばたしているのを見て、そういえば仏生会もすぐだと気が付いた。
この際神でも仏でも良いから、可及的速やかに字を上達させてほしい。
そういう、いささか情けない事情での参列である。
◇◆◇
釈迦如来が天竺の花園で誕生された、という故事に基づいて、境内は溢れかえる花で飾られていた。
既に法要は始まっており、供僧達が立派な袈裟をまとって念仏を唱えながら、花々でできたような小さな御堂の中の、小さな小さな誕生仏に、柄杓で甘茶を掛けている。
釈迦如来が応身として阿蘇の地に降り立った姿が、大宮司家の祖・五宮の
小次郎も手を合わせて礼拝し、ふと考えた。
よく考えたら、自身の孫の孫の孫のような姫に、文を書きたいので字を上手くしてください、と馬の骨が頼みに来ているようなものである。
(無理ではないのか……)
自分も甘茶を掛けようと我先に御堂を目指す善男善女の波に揉まれながら、小次郎は嘆息した。
御堂に近づくと、野の花や牡丹や石楠花に混じって、桃らしい枝がある。といっても、小次郎が気づいたわけではなく、他の参拝者が「桃だねえ」と供僧に聞いているのを小耳に挟んだだけだ。
「はい、このあたりは雨が多いので木が弱ることが多いのですが、ありがたいことに御寄進いただきました」
「都の書物で読んだが、もう少し早い花と聞いていたが」
「山深いところからいただきまして、ここよりももっと寒いと聞き及んでおりまする」
大振りの花々に混じって、小さな薄紅の花が多くついた桃の枝は、なんとなく小次郎の目に止まり、そして離せなくなった。
「あの」
桃について質問していた男が甘茶を掛けに行ってしまうと、小次郎は供僧に声を掛けた。
「はい、……これはこれは。お顔は大丈夫ですか。あの後もお怪我をなさったと聞いておりますが」
特に知っている僧ではないのだが、相手はどうやら小次郎のことを知っているらしい。たぶん「顔に大きな傷がある」で認識されているのだろう。有名人になってしまったものである。
「神仏のお陰でございましょう。幸い、このように本復してございます」
そういう話をするために声を掛けたのではない。
「これらの花は、法要の後、どのように」
「一部は本堂に活けて、一部は手水鉢にも浮かべますが、持ち帰りたい方にはお分け致しまする」
「……それでは、その、そちらの」
◇◆◇
「随分と大きな桃の枝が来て、何事かと思うたぞ」
数日して、恵良を訪ねてきた惟直は、小次郎に耳打ちした。
下宮から貰った桃の枝は、確かに担いで帰る大きさだった。だが、そのまま送ってはいない。
花はだいぶ終わりかけの部分も多く、できるだけ保ちそうな小枝を探して、その部分だけ送ったはずだ。残りはすぐそこの、おもての部屋の中にある。
たぶん、その残りをおもて部屋の中にある適当な壺に突っ込んでいるのを、面白がられているのだ。
「そなた、ああいうこともできるのだな」
おもての入口に腰掛けた惟直は、わざわざ持っていた蝙蝠を懐にしまうと、両手でなにかを結ぶ真似をした。
枝にはご機嫌伺いの文を書いて、結びつけた。いっそ字の上手い誰かに代筆してもらうまで考えてしまったが、内容が内容だ。やはり、自分で書きたい。
「……無礼な振る舞いに及んだことを、謝罪致したく」
何か振り絞るような口調になった。
「……うむ、そのような内容だったが」
惟直が「意味が判らない」という顔をする。
「若殿もあの場にいらしたのだからお判りでしょうに!咄嗟のことで、二の姫と存じ上げなかったといえ、お輿入れ前のお腰に、手を……!」
自分で言って、本当にとんでもないことをしでかしたという思いが募って来た。
大宮司家の姫といえば、師走の
「……某の所業は
聞いている惟直の顔に「そなたは何を言っているのか」と書かれているのが、小次郎には見えていない。
「訊くが」
惟直が嘆息し、小次郎の肩に手を置いた。目を見て諭すような声で告げる。
「男がおなごの腰に触れると、これは
小次郎は首を捻った。違うような気がする。
「……いえ、交わってはおりませぬゆえ、女犯では……ううん、女犯には当たらぬようです」
「では、おなごの方はどうだ、通じたと言えるか」
「男が女犯に当たらぬのに、おなごだけが当たるのもおかしな話にございます」
「では、男がそなた、おなごが妹だとどうだ」
「若殿に言いくるめられたようにも思えてなりませぬ」
「人聞きの悪いことを申すな」
蝙蝠で額をぺちりとやられた。
「そなたが自身で『女犯に当たらぬ、故におなごだけが当たるのもおかしい』と言うたではないか。ではそなたと妹に当てはめても、どちらも不淫戒を破っておらぬ。何も問題など生じておらぬではないか」
それで良かろう、と惟直が言うので、手に残った感触とそこから得た空想を、つい、
「そう言えば」
惟直が思い出したように膝を打った。
「そなた、甘茶を貰うてきたのなら、虫除けのまじないをひとつ私にもくれ」
――頂いた甘茶で墨を磨り字を書くと字が上手くなる、という話のほかに、その墨で「千早振る卯月八日は吉日よ神下げ虫を成敗ぞする」と四角く切った紙に書いて部屋の柱に逆さに貼ると、神下げ虫、つまり
「……某の字は」
とてもではないが、部屋に貼って嬉しい字など書けぬ。
「百足には読めぬやも知れませぬ」
「うむ、まあそうやも知れぬな。金釘流の能書であった」
惟直から全く否定しない返事が返ってきた。
「……若殿!」
「九郎の字を読んでいるからな、私はおそらく正確に読めたぞ。達筆過ぎて姫が読めなさそうだったのでな、私が読んでやった」
小次郎は真っ赤になって床に突っ伏した。ほぼ公開処刑だった。せめて初手はなんとか悪い印象にはならぬようにと、恋文らしい内容を書いていなかったのがせめてもの救いだ。
「しかし、あの内容では姫に気持ちが伝わらぬと思うが。あれではただの
「いっそ……いっそ一思いにお願いしとうございます」
「臨書せよ、臨書を。手本が無いから
金釘だの蚯蚓だの酷い言われようだが、まさにその通りである。小次郎はのろのろと座り直した。
「てっきり……若殿の検閲が入ったのかと」
「私とて、妹に来た恋文を覗き見るような良い趣味などしておらぬわ」
妹をこんな仕方も無いことで困らせるな、そう言って惟直はもう一度小次郎の額をぺちりとやった。
「それにしても何故、甘茶をいただいてきたことをご存知なのですか」
改まって訊くと、庭先を跳ね回っている雀に気を取られながらの惟直の答えはひどいものだった。
「青龍寺の別当から垂れ込みがあった」
桃の枝をもらって甘茶の振る舞いを持ち帰った若い社家がいる、顔に傷があったからこないだの下野狩で怪我をした人では、と洗い浚い惟直に垂れ込んだようだ。口の軽い別当である。
「なんと……なんという」
恥ずかしくて恥ずかしくて震える。
惟直は笑った。
「そう照れるな。歌を送ろうと文を送ろうと、すぐ代作代筆を頼む者が多いのだから、自身で練習して書こうとする姿勢が良いと、誰に送るのかは知らないが、その誠実な姿勢を重んじる相手であるように願うと、別当も申していたぞ」
そうだ、とわざとらしく今思い出したように手を打つ。懐から文を出して小次郎に渡した。
春に南郷谷でもよく見かける、黄金色の
そう認識しただけで、小次郎の心の臓が飛び上がった。
「悪いことは書いておらぬと思うぞ。なにしろ、あの文の返事だからな。むろん真筆だ」
惟直の解説もそこそこに開くと、流麗な女の
まさに出した文に対する礼状で、自分を庇ったせいで犬に咬まれたであろう小次郎を逆に気遣い、怪我の具合はどうかとか、送った薬が効いたのなら何よりだとか、そういうことが書いてあった。
そのような、とか、もったいない、とか呟き尺取虫のように伸び縮みして文を読んでいる小次郎に、
「読める字か?読んでやろうか」
「とんでもない!お姿を表したような美しい蹟でいらして」
自分で言って、己の金釘流を披露したことを思い出したのか、小次郎は床に蹲った。ただし文はしわにならないように死守した。これは家宝である。
「しかしこれで解っただろう。そなたの印象、妹はそう悪くは思うておらぬと私は考えている。ただそなたから今後、妹に恋文が届くとして、私が読んでやらねばならぬのだけは勘弁してくれ」
惟直が目を細めると、目尻に笑いじわが出る。この春二十の小次郎よりも年嵩なのだ。自分こそ、もう少し焦って嫁を探さねばならないはずなのに。
「――私は、まだ焦るわけにもいかぬのだ」
小次郎の心を読み取ったように、惟直は低く呟いた。
「若殿……?」
「なかなか気もそぞろで落ち着かぬ陽気だな」
一瞬浮かんだ不穏な色は、いつものおなご受けの良い惟直の笑顔にすぐに隠れた。だが。
「小次郎の目は誤魔化せませんぞ、若殿」
きな臭い香りは隠せ仰せるものではない。それが、その香りを知る者であれば、特にだ。
惟直はしばし考えるように目を閉じた。
「――少し、遠駆けでもするか。そうだな、
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