罪科(その三)

「……それで、なぜ黙っておった、寿熊」

 惟時の言葉に、空気がピリピリとひりつく。寿熊丸はじっと自分の膝を見つめる。

「その方が、しばらく酒の肴にできるからだな、九郎」

 言い訳を考えていたのを、惟直が唐竹割りに両断してきた。

 最近の惟直は弟に冷たい。

 そんなこともあって家臣の一人である上島の屋敷に避難していたのに、当主の惟頼これよりが告げたらしい。

 確かに、上島だろうが恵良だろうが、主君は惟時や嫡男の惟直であって、元服もしていない庶子の寿熊丸の家臣ではない。というか、元服すれば寿熊丸も家臣の一人に過ぎない。

 だから、主君から「うちの馬鹿息子が逃げ込んでいないか」と問い合わせが来れば、首根っこを掴んで引き摺り出すのが、上島としては当たり前である。

 当たり前なのだが、寿熊丸としては「なぜこんなに早く」と言いたい。

 なぜものの数日で話が終わってしまったのか。もう少し粘ってほしかった。せっかく黙っていた甲斐が無い。その辺の阿蘇大明神の祠に、見かけたら片っ端から頼んでおいたら良かったのか。

「言うておくが」

 惟直が扇で寿熊丸を指す。

「たとえ阿蘇大明神に願をかけたとしても無駄ぞ。阿蘇都彦・阿蘇都媛のお二方は夫婦めおとの神だ。他人の好いた相手の正体が見つからぬようにという願いより、好いた相手の正体を知りたいという願いの方がお聞き届けくださるだろう」

 この場の誰も、別に小次郎がそんな願掛けをしていたかどうかは知らないが、そんなことは些末である。


 ◇◆◇


 狩衣は裏地が付いていたし、中も春先のことで小袖に重ねて単を着ていたらしく、肉を削ぎ取られるような咬まれ方ではなかった。だが所詮はただの布地、牙が皮膚を破らなかったわけでもない。

「小次郎殿!」

 駆け寄ってきた下人達が、手綱を引っ張られて不機嫌になりつつあった馬を回収し、小次郎の左腕に咬み付いたままの犬の口をこじ開け、引き離すと、じわじわと血が染みてきた。

「小次郎殿、こやつはなりませんぞ。殿の御指図にございます。宜しゅうございますな」

 犬の首根っこを押さえつけていた下人が、含めるように小次郎に諭す。殿――たぶん惟種のことだろう、裸足に脛を出しているので下人だと思うが、目通りが叶うのであればもしかしたら下人ではなく郎党かも知れない。

「――解っている、連れて行け」

 小次郎の目に、瞬間、痛ましげな色がよぎった。

 おそらく、恵良家の中でも使用済みの犬を養うことへの反対はあり、色々と決まりを設けてなんとかやっているのだろう。

 今回は駄目だ。馬場を混乱させ、試合を中断させた。さらに誰かの馬の鼻先に咬み付いて毀損している。助けてやることはできない。

「小次郎、姫、怪我は」

 惟直が走り寄ると、小次郎は「お怪我は」と話しかけながらのろのろと、今しがた庇った人間を見た。

 そして、固まった。惟直にも、ぴしりという音が聞こえた。

 赤い袿だから、若い女だとは解っていただろうに、どうしたというのか。

 姫は馬が迫って来た時から、既に身が竦んでしまっていたのだろう。固く瞑っていた目をそろそろと開けた。

 小次郎が息を飲んだのが、惟直にも伝わった。

「……佐保の君……」

 今度は惟直の時が止まった。

 待て待て。

 すると何か?

 つまり我々は、目隠しされたことにも気づかず身近な物を判らぬ判らぬと撫で回していたということか?

 そう言えば、と惟直は思い直す。

 寿熊丸に、佐保姫が自分の相手候補ではないか訊いた時、

「まあ、釣り合いとしては、ぴったりかも知れませんな」

 と言っていたのだ。

 家柄としては、それは確かにぴったりかも知れない。適切かどうかは別として。

 そして、奴は「適切だ」とも、「あり得ます」とも言っていない。

 おのれ寿熊丸、この兄をたばかったな。

 小次郎の方は、相変わらず固まったままだ。下ろした左の袖先からも、伝ってきたのだろう、血がたらたらと流れる。

「おい」

 右手が、妹の腰に回されたまま固まっているのを見て、惟直は蝙蝠かわほりでぺちりとはたき落とした。

「えっ?……あ、ああ!」

 ようやく己が不埒さに気づいて、小次郎は今度は風のような素早さで手を引っ込めた。顔に一気に朱が駆け上る。丹塗というのはこういう色だろうかと思うぐらい赤い。

 それが、惟直の顔を見た途端、ざあっと音が聞こえるほど勢いよく引いた。この世の絶望を全部集めて握り飯にしたような土気色の顔である。綺麗に勘違いしてくれているのだろう。

 惟直はえへんおほんとわざとらしく咳払いした。

「あー、小次郎、妹が世話になった」

 小次郎の死んだ目に光が灯った。惟直と姫と、目が行き来する。

「……妹御?」

「下の妹だ。たまたま連れてきておった。迷惑をかけたな。傷を早く洗って来い。袖が破れたならこれでも着ておれ」

 惟直は自分の着ていた狩衣を脱いで小次郎に与えた。

「え?……は?」

「着ていたもので済まぬが、ほんの礼だ。後日改めて礼をする」

 妹を小突くと、それまでただ小次郎を見ていた姫も、頭を下げた。

「……ありがとう、ございます」

 小次郎は惟直の衣を握り締めた。それはしわになるなぁ、と惟直はどうでもいいことを考えた。

「いや……某は、できることをしたまでです、礼には及びませぬ」

「お怪我が……」

 姫の手が小次郎の左の袖に触れた。指先に赤いものが付いた。

「獣に咬まれると、毒が回ると申します。早くお手当てを」

「はっ!お気遣い、ありがとう存じます!」

 声がひっくり返っているのが、惟直にはもう、駄目だった。堪えるのが精一杯だった。


 小次郎の方はよく解った。大変、伝わった。

 お膳立てしてできる状況ではないが、あんな風に助けた女がまさか探している片恋の相手とか、どれだけ強運だろうか。犬には咬まれたが。

 二の姫はどうだろうか。

 間近で顔を見たはずだ。

 瘡蓋の取れかけた、横一文字の顔の傷は、どうだっただろうか。

 あのように身を呈して救われたなら、相手の顔に傷が多少あっても、ついくらりとなびくとか、無いだろうか。

 帰りに、自分達の馬に向かうときに、小次郎の血に触れた指を、もうひとつの手で握っていたのは、偶然だろうか。


 ◇◆◇


 そんなことを脳裏で反芻しながら、惟直は冷ややかに弟を見下ろしている。

 他人の、しかも友人の恋路を酒の肴にするような奴は、馬にでも蹴られてしまうがいい。

 それも、相手は自分達の妹なのだ。むしろ――

「あ」

「どうした」

 惟時が惟直を振り向く。

 惟直は取り繕うように咳払いし、座り直した。

「いえ。……ただ、此度明らかになったきっかけが、犬畜生の振る舞いであったとはいえ、恵良九郎殿の管轄下で起きたことです。大殿の動向を窺っておきませぬと」

 惟時の顔が渋くなった。

「大殿、か。何をしでかしてくれると思う」

「解りませぬ。ですが、恵良九郎殿に関しては、あの方はぞ」


 ◇◆◇


 大殿――二十二代阿蘇三社大宮司、阿蘇惟國。

 この人物が、実子である惟時に大宮司職を譲る気を、惟時の就任まで持ち続けていたか、定かではない。

 記録上、彼の跡を継いだのは、「惟利」という人物である。彼が何者であり、惟時がどのように彼から大宮司職を引き継いだか、書状などは残っていない。また、この時代にはふりの一人が記録していた日記には、惟國のこと、また嫡男としての惟時のことは書いてあるものの、惟利のことには触れておらず、係累上、惟利は惟國直系の人物でない可能性がある。

 ただ、惟國が遺した書状から判るのは、


「死に損ないが……」

 惟時は惟國が出した書状に目を通すなり、グシャリと握り潰した。

(やはり、あの祖父は、早く片づけた方が家のため……)

 放り出された書状に目を通し、惟直も思いを新たにした。


 譲与 孫子又太郎惟有これあり

   肥後国阿蘇社領内柏村事

 右、柏村は、惟景の殿の孫子九郎惟種に譲り給うところに、惟種が罪科によって闕所けっしょとなるあいだ、申し給わりて知行するところなり。よって所領以下、先日大宮司に譲与と言えども、惟有はおなじ孫ながら不憫に思いあいだ、かの柏村においては、惟有に永代譲るところなり。

 もし大宮司かの所に要らんわずらいをなさんときは、大宮司職といい、所領等といい、惟有一圓に申し給わるべきなり。よって後日のために、譲状件の如し。

 嘉暦二年三月二十日 前大宮司惟國


 少なくとも政治的には、惟國と惟時は、明確に敵であった。

 惟國の発給したのは、譲状の体を取った、悔返の脅迫であった。

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