罪科(その二)
百五十匹の犬を狩る犬追物とはいえ、一組一組はあっという間に終わるから、出番でない射手は観客に格好をつけている者もいる。下野狩の時も同じで、いかに自分が優秀な射手かを、桟敷の観客に見せつけるのだ。
(小次郎、あやつ、本当に間が悪いな)
中の馬場で大鹿を仕留めたので、本来なら最後の赤水の馬場に入る時に、岩倉の桟敷席に向かって散々腕前を主張できたはずなのだ。それを見て各方面から縁談が掃いて捨てるほど来ただろうに。
実際は移動中に落馬して大傷をこさえただけだ。
今日は検見だから腕前の披露どころではないし、馬場に入って他人の腕前を審判するだけだ。良い縁談が欲しい年頃の男がやる役ではない、と惟直は思う。
それとも、惟種の采配だろうか。とすると、例の佐保姫絡みで、ほとぼりが冷めるまで目立たないようにさせようということだろうか。
つまりは親父殿にも、把握されているということかと惟直は思い至った。人前に
なんにせよ、恋は苦しい。そして、そんな気持ちを抱けたということ自体が、その人間の財になると惟直は信じる。だからこそでもあるのだが、成就するにせよ失うにせよ、今しばらくは小次郎を応援したいし、今しばらく妹との話は進まないでほしい。自分の縁談も今は進める気はない。
「……私も、御迷惑が掛からぬようにせぬとな」
「なんのお話ですか」
独り言が妹の耳に入ったらしい。
「いや、大殿が御迷惑をお掛けすることがないようにせぬとな、と思うただけよ」
二の姫は納得したというように、ああ、と呟いて首肯した。
「それで、どうだ。怖いとかは思わぬか」
検見の顔について感想を聞いてみると、
「こちらに出て来ていただければもう少し何か感ずるかも知れませぬが、遠過ぎて何とも思いませぬ」
ごもっともな意見が飛んできた。
「おそらくですが、私ではお役目不適ではございませぬか」
犬が痛がって叫び声を上げているのにも眉一つ動かさない妹であった。いくさ場に同行して昼は戦い、夜は主君の下の世話をする
射られた犬がきゃいん、とひと声上げてうずくまる。射手は腕を振り上げた。難しい体勢から射たのだろう。桟敷のあちこちから歓声が上がった。
「今のあの姿勢から、よく当てられましたね」
妹も、目を見開いて驚きを口にする。陽の光に瞳が、
「ですが、犬は哀れです」
犬の方は、矢が左の腿に当たったようだ。馬場でうずくまったので、下人が連れ出した。
犬射引目だから表面上、傷はつかない。だが、傷つかないわけではない。
当たれば痛いし、おそらく先程の犬は無理な姿勢で射たから酷い傷ではないとは思うが、理想的な体勢で腹などを射た場合は臓腑が傷ついてそのまま死に至ることもあるし、肢に当たれば骨折ぐらいする。
なにより、
「一度犬追物に出た犬は、まず二度と犬追物には出せませぬ。人も馬も怖がるようになり、時には怯えて食らいつくようになりまする。……せめて、済まぬことをしたと、
そんなことを、いつか小次郎が言っていた。咬まれてしまうこともあるからと、毛皮を腕と脛に巻いて、傷を負った犬の手当てをしてやり、世話をしていた。
犬を集めた下人に与えれば打ち殺して汁にして食う、という話は聞いたことがあるが、そのまま飼っている、という話は、小次郎の所でしか聞かない。餌もかかるだろうし、あの話をした頃は手伝ってくれる者も無かったと言っていたから、大変なはずだ。
今は手伝いの下人が何人かいると聞いたが、理解はされにくいだろう。
「――小次郎は、ああやって怪我した犬を引き取って、世話をしてやっている」
なぜか、それだけは知っていてもらいたいと思い、そう口にした。
二の姫は
「変わったお方ですのね」
「まあ、変わっているが、良い男だ」
女には小次郎の良い所は目につきにくいかも知れない、そう惟直は思った。
◇◆◇
競技が進むにつれ、射られた犬達が騒がしくなった。
痛みや恐怖で震え、吠えるもの、人間や馬を見て牙を剥くもの。
中には、やはり臓腑が傷ついて、もはや手当ても適わず打ち殺してやった方が楽だろうと判断されるものもいる。
二の姫の感想も、桟敷に座していても芳しいものはこれ以上得られそうにないので、惟直はもう少し馬場に近寄ってみることにした。検見を見ていても、判断が正確とか、馬捌きが優れているとか、何かあるとは思うのだが、武芸をやっていないと検見の動きでは今ひとつ判りにくいかも知れない。それよりも目的はまず顔であったし。
桟敷から降りると、わかりやすく女連れなので、好奇の目を向けてくる者――まあこれは正しい――、妹に向かって格好を決めて何がしかを見せつけてくる若い騎手もいる。自分も妻を募集しているのだろう。次の大宮司となる男が連れている女に粉をかけてくるとは、なかなか必死である。
顔が陰になるように袿を深くかづかせ、会場である竹垣に向かった。
人々のざわめき、馬の鼻息や蹄の音、犬の獣臭いにおいと鳴き声。
番組も終わりかけで、さすがにびょうびょう、ぎゃんぎゃんと、射られた犬の数が数である。一匹恐怖で吠えると伝染して、他の犬も吠え出すのでうるさい。世話の下人がついているし、首に綱もついているから、大丈夫だろうが。
と思っていたのは惟直の落ち度であった。
よほど射られたのを恨みに思ったのであろうか、それともその後の扱いに腹が立ったのか、用が済んで馬場から引き摺り出された一頭の犬が、裏に連れ出していた下人の腕を咬んだ。
引き綱は試合の始まりの合図で、犬放しによって切り放たれるから、引き綱を結び直すまでは首に巻かれた首綱だけがかれの拘束であった。
その首綱を持っていた腕に噛み付いたのである。
「ぎゃっ」
男の叫び声が犬小屋の方から上がり、竹垣の入口側にいた惟直達もそちらを見た。
一頭の、幼児ほどもある犬が吠えかかり、周りの犬に噛みかかり、暴れ回っている。下人が犬を抑えようとしているが、自分達も犬を持っているのでなかなか押さえ込めない。
興奮状態の犬は牙を剥きながら走り回って、馬繋ぎの方まで吠えながら走り込んできた。休んでいた馬共も、危険を感じて恐慌状態に陥る。
「逃げよ、姫、こちらだ」
惟直は妹の手を引いた。
だが、本当に安全なところなど、馬場の周りにあるのか。
人々も恐慌し、馬の嘶きと鼻息が充満する。
一際馬が鋭く嘶いた。
犬が一頭の黒馬の鼻先に噛み付いていた。
痛みに耐えかねて馬が頭をめちゃくちゃに振り、犬が投げ飛ばされる。下人達の方に投げられれば良かったものの、恐れ慄く馬達の中に放り込まれてしまい、暴れて駆け回る。
繋いでいた綱が引きちぎられた。
馬は泡を吹き、後脚でそばにいた下人を蹴り上げて逃走する。
暴れ犬に加えて暴れ馬、収拾がつかない。その先は竹垣の入口だ。
赤い袿が鮮烈に馬を掻き立てたのか。
二の姫は立ち尽くしていた。
「姫!」
腕を強く引くが、腰が抜けたのかびくともしない。
どころか、惟直の方が他の客に揉みくちゃにされて手が離れてしまう。
馬は前脚を振り上げた。
馬場を蹴る音が重なる。
「黒曜!」
誰かを呼ぶ声がして、暴れ馬に竹垣から勢いよく馬が突進した。
「黒曜、落ち着け!」
騎手は自馬の背から暴れ馬の轡に手を伸ばし、引き摺られるように降りると尚も前に進もうとする馬の頭を押さえた。自馬の方は騎手が何をするか解っていたような顔で、黒曜にぶつかることもなく直前で歩速を緩めて止まっていた。
その馬が、ぶるん、と警戒するように唇を震わせる。
赤い袿は馬だけでなく犬も興奮させたのか。
混乱の原因が吠え立てながら二の姫に躍り掛かった。
咄嗟の判断だったのだろう。
騎手は二の姫を雛鳥を守るように手綱を取った手で抱き込み、犬に射籠手も着けていない腕を構えた。
狩衣の袖にぞぶりと牙が食い込んだ。
犬追物の番組は一番だけ残して、取り止めになった。あれほどの騒ぎとなり、馬を取り押さえた検見が怪我を負ったのではしょうがない。
黒曜は鼻に咬み傷ができたが、暴れた割には他に損傷も無かった。犬は取り押さえた検見を噛んだこともあり、さすがに許されずに処分された。
数日のうちにまた大怪我をした検見――つまり小次郎だが、騒ぎを抑え、怪我人が増えるのを留めたということで、血で染まり穴の開いたものの代わりにせよと、ひとまず惟直がその場で自らの着物を与えた。妹を助けてもらった礼は改めて行うことにした。のだが。
黒曜の手綱を取ったまま抱き込んで庇った者に怪我が無いか聞こうとしていたらしい小次郎の、
「佐保の君……」
絶句した顔が目に焼き付いていた。
もちろん、惟直も絶句した。
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