狩の名手、うちつけに射られたる話(その二)

 惟直は馬の背で、畳んだ扇で顎を無意識にぺちぺちと叩いている。

 佐保姫とは大和佐保山の神霊、白い春霞をまとう常若とこわかの美しい春の女神だ。

 あの無骨者がまた雅な喩えを出してきたものである。というか、社家の端くれとはいえ、記紀にも載っていない古い都の無名の神をよく知っていたものだ。後鳥羽院の歌集でも読んだのか。いつだ。

(いや、違うな)

 惟直は思い直す。

 あれだ。詞華集だ。平兼盛卿の歌。あれは何故か手習いで使った。変にこねくり回したような技巧的な難解なものでなく、状況がわかりやすい素直な作風の歌人だから、子供の意識にも留まりやすかったということだろうか。

 兼盛と言えば、あの天徳の歌合で披露された有名な歌もあった。

『しのぶれど色に出でにけり』。

(色、ね)

 小次郎はなんともわかりやすく、顔どころか手先まで色に出していた。爪の先ほども、まったく忍べていない。

 落ちたのは、馬からだけでは足りぬようである。

(あー……)

 様子を窺いに行った寿熊丸が「美しげな花に見とれて」と言っていたのは、そういうことだった。面白いことが起こってしまった。

 確かに狩は物好きな女房方が見物に来ることがある。大昔のこんなに大々的でなかった頃は近所の土豪の女房達ばかりだったと聞くが、関東幕府が真似をしたいと言って見学に来たあたりから、規模が大きくなると共に、わざわざ大宰府や博多の辺りからも、そしてどうやら年によっては本当に都辺りからまで、物好きな女が来ることがある。参拝も行うので、専ら社の周りの社家が応対しているから、大宮司家は余程の貴人が来た場合だけ挨拶に出向くぐらいだ。

 そんな都風の女に、南郷谷の衆が話をする機会などそうあるまい。まあ、要は田舎者が垢抜けた都会の女に転がされたのだろう。

(あやつ、あの様子では、己が一目惚れしたということも解っておらんのではないか?)

 その挙句、顔を灌木の枝に引っ掻かれて、更に馬から落ち、相手の佐保姫には万一、万が一百年想いを向けられていたとしても、一気に興醒めされるような醜態を晒しているはずだ。

 さすがに惟直も堪えきれない。ついには扇を開き、顔を隠した。

(小次郎のやつ)

 女を喜ばせるような気の利いた話などできぬ、武芸だけが取り柄の男が。

(敷居が高過ぎるだろう)

 成就させるには、あまりに困難な荊の道ではないか。

 と、それまで黙って馬を引いていた郎党が、

「若君。そのまま、扇を広げたままにして館までお帰りくだされ」

 惟直の小刻みに震えていた肩が止まった。

「なぜだ」

 郎党はまじめくさった顔で言った。

「先程から顎を叩かれ過ぎでござる。顎が真っ赤になっておりまする」

「…………」


 ◇◆◇


 惟直に心配されずとも、小次郎とて己に何が起こったかぐらいは理解している。

 解ったところで、今後どうすれば良いのかが判っているわけではないが。

(どなたか、わからぬ)

 輿に乗っていたので、余程の貴人の姫のはず、ということぐらいしか判らない。ただ、そうするととても自分が釣り合う気がしない。

 恵良は、阿蘇社大宮司家、その家臣の家のひとつに過ぎない。もし次の大宮司となるはずの惟直であれば、関東と都に追認されれば位階もつく。現に今の上様は正三位しょうさんみだ。そのような雲上人であれば家格として釣り合うだろうが、恵良はどこまで行っても位階がつくことはない。

 別に阿蘇一族として、宗戸として惟直に仕えることは一向にやぶさかではないが、さすがに惚れてはならない、手の届かない相手に惚れてしまったという事実は小次郎の気を沈ませた。

 きっと、あの姫君は次の惣領にめあわせるために、見合いとして見物に連れてこられたのだ。若殿こそふらふら遊んでいないで、早く身を固めるべきである。家臣の自分がお相手の姫に懸想している場合ではない。

(それに)

 万に一つ、いや億にひとつもありはしないだろうが、かの姫に恵良が釣り合う家柄であったとして、だ。

 小次郎は顔に巻いた麻の布に手をやる。

(こんな不格好な傷のついた男では、まず怖がられてしまう)

 それに自分も二十歳になったということは、そろそろ縁談が来る。社家の誰かの娘か、はたまた小国衆だか山西衆だか、おそらく周辺の豪族の姫を娶ることになるのだろう。

(土豪の娘であれば、まあこんな傷など気にせぬかも知れぬが)

 小次郎という仮名までもらって、一応、これでも恵良家の嫡男として、家を次に繋ぐために、身を固めなければならないことは解っている。

 だが、あの垣間見た横顔が、頭から離れない。

(本当に、うつくしい方だった)

 あの一瞬でも、目に焼きついた。透き通るほど白い肌、陽の光を受けてはくに煌めいた、風に踊る髪の先、鼈甲べっこうの輝きを放つ瞳。

 こんな思いを抱えていては、今縁談を持ってこられても、相手に失礼なことをしてしまいそうだ。

 いっそ、さっさとあの姫の素性を知って、己の身の程知らずさを思い知った方が良い。


 ◇◆◇


「どうでした、面白いでしょう、兄上」

 二本木館に戻ると、寿熊丸がにやにやと出迎えてきた。目と鼻の先の恵良に行くと言うと、出掛けにはいて来たがったのだが、狩の神事で読み上げるように惟時から割り振られていた祝詞がぼろぼろだったので、付いて来る暇があるなら覚えるように言い渡していた。あの顔はこの世の絶望を土壁のように厚く固く塗り固めたようで、大変傑作であった。正直、小次郎にも見せてやりたかった。

「そなた、あの祝詞、読めるようになったんだな」

 惟直が軽く睨むと、寿熊丸が笑みを貼り付けたまま固まった。まだらしい。父惟時はこいつを今年元服させるべく、烏帽子親の声を掛けているようだが、本当に元服させていいのか疑問である。

「兄上が大宮司職をお継ぎになるんだから、俺はいいでしょう」

 寿熊丸は口を尖らせるが、そうはいかない。阿蘇社の大宮司でなくとも、別宮である健軍宮たけみや、肥後二宮でもある甲佐社の阿蘇三社はそれぞれ宮司を置いている。それに近頃郡浦こうのうらの肥後三宮が阿蘇社に秋波を送ってきている。もしかしたら傘下に加わるかも知れず、そうなると阿蘇社から社家を派遣する必要がある。

 はふりである山部や宮川の面々が実務は上手く采配してくれるだろうが、それはそれとして大宮司の一族から名代を派遣することで、相手に「ここまで良くしてくれるのか」と信頼感を持たせるのも忘れてはいけないのだ。

 しかし、派遣したのがこんなへなちょこでは、むしろ敵に回してしまうではないか。

「毛虫の毛の先ほども良くない。まじめにやれ」

「なんですかその言い回し」

 惟直はいよいよ弟をじろりと睨んだ。

「今から俺が見てやる。ちゃんと祝詞は出ているんだろうな」

「ひっ」


「『……かしこみ畏み申す』……兄上……もう勘弁してくだされ……喉が」

「水は飲んでよいと言っているだろう。飲んだらもう一度初めから」

「ひっ」という悲鳴だけは健在だった。

 確かに寿熊丸の声はかすかすに掠れているが、言いつけを守っていればこんなことにはならなかったはずなので、自業自得である。

 寿熊丸の掠れた祝詞を聞きながら、惟直は小次郎の様子を再度思い返した。惚れた本人がそう言うので、仮に佐保姫としよう。どうせ知らぬ姫であるし、他家の姫など余程何か事情がなければ本当の名など判らぬ。

 たまたま目隠しの虫衣が風で捲れて、一瞬だけ垣間見えたその佐保姫の横顔が、たいそう美しかったのだ、という。

(横顔だけか。もう少し情報はないのか)

 さすがに横顔しか手掛かりがないのは、何も手掛かりがないのと同じだ。

 ――せっかくなので、小次郎が一瞬で恋に落ちたその佐保姫を見たくなったのだ。純粋に好奇心である。

「『健磐龍命たけいわたつのみことと阿蘇比咩ひめ命、』ゲフッ、お待ち、ンブッ、お待ちくだされ」

「だから水を飲め」

 何十度めか、咳き込んだ寿熊丸に水の椀を突き出し、惟直はふと思った。

「――そなた、小次郎の見とれて落馬した花について、見ておらぬか」

 食らいつくように水を吸い込んでいた寿熊丸はさらに咳き込んだ。せたらしい。

「汚いな、祝詞を汚すなよ」

「兄上が急に面白いことをお聞きになるから」

 寿熊丸は揉んだ紙で口と顎を拭いた。

「小次郎に頼まれたのですか。花の名前を知りたいと」

「いや、相手が判って、釣り合いの取れる相手であれば取り持とうと思うたまでだ」

「ならば、言うことはございませぬな」

 口を拭った紙を丁寧に畳んで懐へ入れる。

「几帳を立て廻らせた中におわす姫と釣り合う身でないことなど、小次郎は百も承知しておりますよ、兄上。早い所、他の釣り合う、垣間見た幻など消し飛ぶ相手と娶せてやればよいのです。……まあ、兄上に家臣の妻など見つけてやっている暇などございませんが」

 こやつ、盾突きおって。

 惟直とて、自分も早く妻を娶らねばならないことぐらい解っている。曾祖父の例があるように、必ずしも職を継ぐ条件ではないが、成年の惟直が大宮司を継ぐにあたってはあまり格好は良くない。元服したばかりならともかく。

 ……まさか。

「その姫、私の相手候補というわけではなかろうな」

 寿熊丸は惟直を面白そうな目で見た。ちょっと考えて、

「まあ、釣り合いとしては、ぴったりかも知れませんな」

 その一言は、重要な示唆に富んでいた。


 ◇◆◇


 勝手に狩の場に来た娘は数日謹慎させることにした。とはいえ元々正三位の父親を持つ娘であれば、通常は毎日が謹慎である。都であればそう出かけることもないが、そこは鄙のこと、固いことは言わない。

 だが、黙って来たのであれば、話は別だ。

 幸い、書物を与えておけばわりあい大人しく籠って読書をしている。都で流行りの草紙ではなく、経文や、女の読むものではないとされた真名書き漢文で良いのは複雑だが。

 下手をすると寿熊丸よりも学問ができるかも知れない。烏帽子親の決まらない寿熊丸は寿熊丸で頭が痛いのだが。

 上の娘はこんな思いがけないことなどしなかったはずだが、と惟時は首を傾げる。同じように育てているのに、子供によって随分と異なるようだ。

 嫁げば落ち着くのか。

 考えてみればこの春で十五である。そろそろ本腰を入れて嫁ぎ先を決めねばならない。

(あのじゃじゃ馬を喜んで乗りこなしてくれて、我が方に尽くしてくれるような、年頃の、嫡男)

 まあ輿に乗せて相手の男の家に放り込んでしまえば既成事実は付くだろうが、とは思ったが、朝になって見た目が好みではない、と追い返されて来でもしたら、傷つくのは娘だし、それで相手方と争いになるのは馬鹿馬鹿しい。

 娘は少しばかり、好みの分かれそうな見目なのだ。

 ふと、惟時の脳裏に、従兄弟の顔が浮かんだ。

 その嫡男という、惟時の目の前で大鹿を仕留めた若者。もう娶る娘は決めているのだろうか。元服を終えた嫡男なのだから、よほど何か事情でもなければ嫁取りは近いうちにするはずだ。

 あの後、顔に大きな傷を負ったから、今から嫁を探すとなると、あの顔の傷を嫌がる娘もあるのではないだろうか。それでもし嫁の来手がまだ決まっていないのであれば、相手が大宮司の娘であっても、不都合はあるまい。

 なにしろ、ほんのわずかな期間であったとはいえ、大宮司であった男の嫡孫と、現大宮司の娘の婚姻であれば、十分釣り合いが取れるだろう。

「文を出す。誰か、書き物の用意を」

 現れた下男に、惟時は私的な問い合わせの文なので、都風の少し洒落た紙を用意するように頼んだ。

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