第4話

 そこから先のことは実はかなりぼんやりとしている。あのスマホの画面を見た時、俺はわけも分からず、とにかくその場から離れたい、と思って、早退することも伝えずに学校を出た。俺はただただ街中を駆け回り、周りからは奇異なまなざしを向けられていただろうが、周囲の目なんて気にしている余裕はなかった。それどころではなかったからだ。街中のあらゆる画面のある機械、ショーケースに入ったテレビの画面や街頭の大きなモニター、お店に備え付けられているデジタル時計や販売している体重計……画面のある機械であれば例外なく、


 そこには、


〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉


 という文字が並んでいた。俺以外の人間もこれに気付いているのだろうか。ときおり、何これー、といった緊張感のない声が聞こえてきたが、俺がその場から離れると画面は元通りになるのか騒ぎが起きるような感じではなかった。


 とにかく逃げる。それしか考えられなかった。


 駅へ行くと、電光案内板までが、


〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉

〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉


 となっている。さすがにそこはちょっとしたパニックになっていて、困惑する駅員もいれば、なぜか清掃のスタッフに、管理はどうなっているんだ、と怒鳴っているスーツ姿のおじさんもいるし、演出だと勘違いしたカップルの男のほうが女の肩を抱き寄せたりもしている。


 場を落ち着かせようとする場内のアナウンスの途中に、


〈本日はS駅をご利用いただきま愛してくださいことにありがとうござア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イいます〉


 という機械音まで聞こえてきて、もう無茶苦茶な光景なのだが、本当に信じられない話なのだが、それでも電車の運行を見合わせることもなく通常通りに走行するつもりみたいで、もともと俺は自宅に帰るためではなく、すこしでも遠くに行きたい、という気持ちから駅に来たのだが、俺がいま電車に乗るのは危険すぎる。死ぬのが俺だけならまだしも、乗客全員に被害が及ぶのは避けなければならない、というのだけは強く感じて、俺は駅を出た。


 ホームセンターに行くと、店内の音楽にも、


〈きみと愛してはじめてくださいあったのは。十年前のア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ東京〉


 クレアの言葉が混じり、ベタな邦楽の歌詞が、混沌、という言葉の似合う歌詞に変貌してしまっていた。


 ホームセンターに来たのは自転車を買うためだった。一番安い自転車は一万円で、俺の財布に入っていたのは、一万二千円で、ぎりぎり買える額だ。最初は駅で放置されている自転車を一台盗もうかな、とそんな考えも頭に浮かんだが、これだけ不条理な状況にあっても、それなりに倫理観は残っていたのか、とりあえず一度ホームセンターに行ってみよう、と思った。悩んだ挙句にこれを買って、俺はその自転車を漕いで、とにかく、とにかく遠いところを目指す。


 どれだけ遠くへ行こうとも、そのそばには自動車という名の大きな機械が走っていて、大音量のカーオーディオからクレアの言葉がいつ流れてくるか、と不安になり、その言葉が俺の視界に入らず耳に届かなくなっても俺は怯えていた。果ては機械のない場所なんてどこにも見当たらない事実にさえ苛まれるようになった。途中、海や山の雄大な光景が目に入るようになり、こんなにも自然の景色に憧れを抱いたのは、はじめてだった。


 そこには機械なんてひとつもないはずだ。


 だから俺は――――。

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