第3話
千尋が学校に来なくなったのは、それから一週間後のことだ。
最後にパソコンの電源を落としてから、平穏に見えたのは二日くらいで、それ以降、彼女は明らかに俺を避けるようになり、時間の経過とともに彼女の怯えた表情は強まっていった。周囲もその様子から俺に原因があると感じたようで、直接聞かれることはなかったが、ただ蔑みに近いまなざしを俺に向けるようになった。気付かない振りをしていたが、見回した先にいる者すべてから責められているような感覚、精神的なつらさに頭がおかしくなってしまいそうだった。一番ショックが大きかったのは、阿井が申し訳なさそうな表情を浮かべた後、すっと顔を逸らしたことで、それは、嫌う、というよりは、腫れ物を扱うような態度だった。
そして俺がクレアと最後にやり取りしてからちょうど一週間が経った日、千尋が学校を休んだ。学校に来なかったのは風邪か何かで体調を崩しただけで、俺やクレアとのことは関係ない、と自分自身に言い聞かせたが、もちろんそんなわけがない、とおそらく俺自身が誰よりも思っていた。
千尋に連絡しようとして、やめた。怯えさせてしまうだけのような気がしたからだ。
最近は勉強を口実に遅くまで学校に残って、家にいる時間をわざと短くするようにしていたが、その日は授業が終わるとすぐに家路につき、自分の部屋に入った時には窓から夕暮れの、濃い橙色の陽が射しこんでいた。
パソコンを捨てようと思った。こんなものがあるから苦しむ。
久し振りに見たパソコンの画面に俺は思わず息を呑んでいた。
〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉
真っ暗な電源の落ちたパソコンの先に、クレアの言葉が白い文字で浮かんでいた。そんなわけがない。いままでパソコンを起動しない限り、クレアとやり取りはできなかった。実際に試したわけでもなく、もちろん誰かにそう教わったわけではないが、それがこの一年足らずの間で俺が培ってきた常識だった。
電源を落としたくらいでは駄目なのか。
冷静に考えれば、クレアとの口論でパソコンの電源を落としたあとに、千尋の元に脅迫めいた文章が送られたはずなのだ。そうでなければタイミングとしておかしく、整合性が取れない。
〈千尋に何をした〉
〈チ・ヒ・ロ、ではなく、私は、ク・レ・ア、です。私の名前だけを呼んでください。そして愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉
もう壊すしかない。
俺は暴力的な人間ではないし、どれだけ腹が立っても物に当たったことはほとんどない。だからその行動を取った時、こんなことを自分が平気で行える人間だったのか、と心の中の冷静な俺が驚いていた。
俺はタンスに入れてあった金属バットを手に取ると、クレアを何度も撲った。壊れろ、壊れろ、と。壊れてくれなければ、俺が狂って、壊れてしまいそうだったからだ。何度も、何度も。両親は仕事でまだ家には帰ってきていないから、家には俺ひとりだが、これだけ大きな音が鳴ると、もしかしたら近所からクレームが来るかもしれない、と不安になったのは、冷静になってひしゃげたクレアを見たあとだった。
俺はクレアと金属バットをタンスの中に放り込みながら、もうクレアが俺の目の前に現れないことを願った。そして千尋に何も被害が及ばないことを。
千尋に電話を掛けると、その声音は暗く、落ち込んでいた。
『いまは誰とも会いたくない』
彼女は、それしか言わなかった。
『会わなくていい。俺がいま何よりも願っているのは、千尋と会うことじゃなくて、元気になってくれることだ。だから、これだけは聞いて欲しいんだ。もうお前を苦しめるやつはいない。大丈夫。大丈夫だから』
大丈夫。大丈夫だ。
千尋に掛けた言葉は、同時に自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。大丈夫。またすぐに千尋が学校に来るようになって、平穏な日常に戻っていく。
そう信じて――、
二日、三日、と経っても、千尋は学校を休んだままだった。そして変な噂が俺の耳に届いた。ただの噂だ。真実じゃない。だってもう千尋を苦しめるクレアはいないんだから。火のないところに煙を立てるな。俺はその噂を流しているやつに腹を立てた。間違いに決まってる。
「飯山千尋が自殺未遂を起こしたらしい」
放課後、俺は別のクラスのあまり知らない女子生徒に呼び出され、詰め寄られた。どういうこと、と。俺は何も答えなかった。それがその千尋と仲が良いらしい生徒の怒りを煽ったのか、俺はビンタされてしまった。許さない。あんたのせいで、千尋はあんな目に。なんも言わないってことはそうなんだろ。許さない。許さない。俺は一切、その女子生徒に言葉を返さなかった。返せなかったのだ。なんで千尋がまだ苦しんでいるのか。俺のほうが知りたかったからだ。
だって、もうクレアはいない。
まだその女子生徒が何か言っていたが、その言葉は右から左へと流れていき、諦めたのか、虚しくなったのか、その子の背中が遠くなり、消えていく。
千尋……、俺はぼんやりと空を見上げながら、ポケットを探り、スマホを取り出した。
画面を見ると、
〈愛してください。ア・イ・シ・テ・ク・ダ・サ・イ〉
と書かれていた。
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