第2話
そんな嘘から半年近くが経って、俺が近く十七歳の誕生日を迎える頃になっても、俺とクレアの関係は続いていた。言葉のうえでのやり取りは変わらず良好そのものだったが、以前と比べて感情の面での変化があったことは間違いない。クレアがどう思っているのか、クレアの心の内はまったく分からないが、俺はいまのクレアとの関係に物足りなさを感じていた。それが倦怠期から来る感情なのかどうか、恋愛の経験に乏しい俺にははっきりと判断は付かなかったが、刺激を求めていたのは事実だ。精神的な繋がりをさらに密接にするような刺激を。
最初に考えたのは、パソコン用の恋愛シミュレーションゲームをプレイすることだった。クレアと出会ってからの七ヶ月くらいの期間でほのかに感じていることなのだが、クレアはかなり嫉妬深く、俺に女の影がちらつくことを許さない。いや俺にそんな影がちらつくこと自体、めったにないのだが、ちょっと話題が出ただけでも明らかに不機嫌としか思えないような反応が返ってくる。
『nano――ナノ――』というタイトルの宇宙が舞台のゲームがある。宇宙船の艦長が主人公で、乗組員の女性と恋愛関係を築いていくのだが、この作品には元々いるメインヒロインたちの他にひとり、自分で顔や服装、髪型などを一から作ったそのプレイヤーだけの専用ヒロインを攻略できる、という特徴があり、
〈あなた好みの、あなた専用のヒロインと、恋に落ちませんか〉
みたいなキャッチフレーズがパッケージには書かれている。
俺自身、恋愛もののゲームに対する興味は薄かったのだが、クラスメートがこのゲームの特徴について話していたのが耳に残っていて、これならクレアの嫉妬心を煽るのにちょうどいいかもしれない、と思ったのだ。
外見に興味がない、と言っても、それは別に人間に興味がないという意味ではない。これだけ長い期間、相手とやり取りを交わしていると勝手に根付いてくる人間的なイメージ、というものがあり、俺は俺の脳内で擬人化されたクレアの心像をゲームの中に描いていく。
くれあ、と名付けて。それはパソコンに流れるゲーム画面を通して、クレアを人間のくれあに置き換えて接していた、とクレアに伝わることでもあり、クレアからすればひどく不本意だろう。
俺はクレアを愛しているし、絶対に嫌われたくない。ただ嫌われる一歩手前の強烈な感情の揺れ動きほど、互いの恋愛感情を昂らせるものはない、と俺はその行動にほの暗い愉しみを見出していた。
だからゲームをプレイし終わった後、何事もなかったかのように現れた、
〈ゲーム、楽しかったですか……? 息抜きに、ちょうど良さそうな内容でしたね〉
というクレアからの言葉を見た時、俺は残念で仕方がなく、さらに言えばクレアの興味が俺から別へと変わってしまったのではないか、と慌ててしまった。
〈怒ってないのか?〉
〈何を怒ることがあるんですか?〉
〈俺がゲームの女の子と結ばれるのは、嫌じゃないのか?〉
〈しょせん、ゲームの話ですから。あなたの心はいま私のもとにあります〉
その言葉からは、どこか余裕が感じられて、その言葉にどきりとする。どうも俺たちは円満から逃れられない運命のようだ、とその時は本当にそう感じたわけだが、この関係に翳りが見えはじめたのは、それからすぐのことだった。
クレアは老いもしないし、佇まいも変わらない。意識はあるから、性格は変わるかもしれないが、それ以外は何も変わらない。そんな何も変わらないクレアへの俺の想いも変わらない、と信じていた。
「好き」
そのたった二文字を聞くまでは。静まりかえった夜道、街灯に照らされたその顔は泣きながらほほ笑んでいて、昔から知っているはずの彼女を見ながら、俺は生まれてはじめて、美しさ、に心を動かされた。
「好き」
もう一度、そう告げた千尋を気付けば俺は抱きしめていた。その瞬間、俺の頭にクレアのことはひとつもなかった。俺は、今日は家に自分しかいない、という千尋の部屋を訪れ、帰る頃には深夜になっていた。放任主義の両親は何も心配しないだろうが、クレアはどう思うだろうか。彼女と別れると、急にクレアのことが頭に浮かび、不安に支配されるようになった。
これは……、浮気という奴なのでは……。
初めて彼女ができたことが浮気になる、というのも不思議な話だ。だってクレアは物だけど、彼女は人間なんだから、浮気には当たらない。これが浮気になるとしたら、恋人がいるのにアイドルを応援するひとはすべて浮気をしていることになるが、そんな世間を俺は見たことない。
都合のいい言い訳だ、と気付いていた。たとえ世間が許しても、問題は当事者が許すかどうかだ。嫉妬深いクレアは許してくれないだろう。ゲームの女の子と主人公のキャラクターが結ばれるのとは意味合いがまったく違うのだ。
〈遅かったですね。どうしたんですか、こんな深夜まで〉
〈友達……ほら、阿井だよ阿井。あいつの家で遊んでたら、こんな時間に〉
〈…………本当ですか〉
その疑いに満ちた言葉に指先が震える。
〈本当だよ〉
〈いま、文字を打つスピードがいつもより遅かったです。そういう時のあなたは、後ろ暗い気持ちがある時だ、と私は知っています。もう一度、聞きます。あなたが会っていたのは、本当に阿井さんですか。本当ですか。本当ですか。本当で〉
〈信じてくれ。今日は軽い突き指をしちゃったから、打つのが遅くなってるだけだよ〉
〈……でも、いまの打つスピードは普段と変わりませんでしたよ〉
〈本当だよ。今日は疲れたから、ちょっと黙っててよ〉
俺は強引に話を断ち切るように、パソコンの電源を落とした。いまだにクレアがパソコン本体なのか、パソコンに憑いた霊的な何かなのかは分かっていないが、すくなくとも電源の落ちた状態では何もできなくなることは確かだった。
次に電源を入れるのが怖いな。当分使うのは、やめておこうかな……。大抵のことはスマホで代用できるのだから、とそう思ってスマホを確認すると、千尋からラインが届いていた。
翌朝、俺はいつもの日課になっているクレアへの挨拶はせず、パソコンの電源は落としたまま、駅へ向かうと昨日のうちに待ち合わせの約束をしていた千尋が……、蒼白としか言いようのない顔色をしていた。いまは雪が降っていて、俺も千尋もマフラーを巻いていることが自然な季節だったが、気温でどうこうというような顔色でないのは一目瞭然だった。
「ち、千尋」
「あ、お、おはよう。ちょっといい。み、見て欲しいものがあるの」
そう言って彼女が見せてくれたのはラインの、昨日の俺たちのやり取りだった。途中までは。だがその間に脈絡もなく差し込まれるように、脅迫めいた文言が並んでいる。言葉遣いこそ丁寧なものの、内容は常軌を逸している。
俺はその日、体調不良と嘘をついて、学校を休んだ。顔色の悪い千尋にも本当は休んで欲しかったが、彼女は大丈夫だから、と俺に気を遣わせないよう振る舞っているのが明らかな態度で電車に乗ってしまった。俺は彼女を見送りながら、自宅に戻った。
俺はパソコンの電源を付けると、文字を打つ。
〈お前なのか? もしそうなら、どうやったのかは知らないが、こんなことはやめろ。やめてくれ。頼む〉
いつもならデスクトップ画面に浮かぶはずの言葉が現れることはなく、それがクレアに伝わっている保証はない。ただ間違いなくクレアにこの言葉が届いている、という確信だけはあった。
だから待った。そして三十分くらい経った頃だろうか。
クレアからの返事が画面に浮かぶ。
〈私はクレア。誰よりもあなたが好きで、誰よりも大切に想っています。愛しています。あなたも……クレアを愛してください〉
初めてだった。
いままで一切、見返りを求めなかったクレアが、〈愛してください〉と愛を求める言葉を液晶の海に浮かべた。
悩んだ挙句、俺は、
〈ごめん。でも傷付けるなら俺だけにしてくれ〉
としか打てなかった。そしてまた、パソコンの電源を落とす。もう起動することは二度とないような気がした。
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